トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第376号 


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もちださんの鎌倉リポート No.376(2020年4月22日)



No.375
No.377



古い医学について・1



職人絵巻にえがかれた医師(「中外医事新報」より)
 「新型コロナはある意味で、痛快な存在かもしれない」。ある反米新聞社幹部の発言が顰蹙を買ったけれど、トランプ大統領は念願の国境封鎖を実現して、むしろ喜んでいるかもしれない(皮肉)。こんなおっさんの肩をもつわけではないが、ポスト‐パンデミックのあかつきには、格差社会や途上国の貧困の元凶である野放図なグローバリズムが停滞し、フェア‐トレードが進めばまあ、ひょうたんから駒、というべきかも。

 年明けそうそう通院やら、家族の入院・危篤が重なるやらでいくつもの大病院をはしごする日々を余儀なくされたから、無自覚感染の危機ははやくから感じていた。入り口にあるエタノール消毒を【完全無視】して病院に入る人、べたべたスーパーの商品に【さわる人】・・・。パニック買いはともかく、未発症の潜在感染者によってパッケージにウィルスが付着してたら? またマスコミ文化人の煽るがままに、発症のうたがいをもったニア‐コロナ患者が各地の病院に殺到でもしていたら? ともかく外出禁止までには病院や斎場めぐりも一段落し、無限に落ちる庭の椿の片付けなんかしてるまに、百合が芽吹き躑躅が咲いた。



妊婦の経脈(同)
 中世の医療はどうなっていたのだろう。日本医学史の大家、富士川游博士(1865-1940)は鎌倉文士・富士川英郎さんの父。帝大や慶応で教えるほか、地元・鎌倉学園にもかかわったという。このひとの集めた資料は京都大学図書館に寄贈され、HPで閲覧できる。また昭和初期に中外医事新報に初出連載された「日本医学史綱要」が国会図書館デジタルに公開されていたので、ちょっとよんでみた。

 医学はともかく、十二単の中身はどーなっていたのだろう、と思う人にも、ちゃんと図が載っている。延命寺の裸地蔵は坊主頭だし、江の島弁天は中華風、雛人形を分解しても中身は入っていないから、これは貴重。この図の原典は平安時代にまとめられた「医心方」(丹波康頼・撰)で、正式な留学制度があった唐代あたりまでの東洋医術の集大成であり、大陸では早くに散逸・更新された古い医書の逸文も大量に含んでいる、とされる。

 東洋医学は整体や鍼灸など、いまなお民間医療で一定の効果をあげているものもある。一部の漢方薬は現在でもその効能がみとめられ、病院で一般に使われるものもあり、たとえば便通をよくする大中建湯などが代表例。それらはたしかに古来から脈々と受け継がれたものなのだが、知識がしだいに洗練され、むだな迷信がそぎ落とされてゆくなかで、わずかにのこったものにすぎない。たんなる嗜好品になっている薬もすくなくないし、気功なんかはある意味、趣味の体操でしかない。



大船の常楽寺
 いっぽう古代・中世には、知識不足から数多くの迷信やデタラメが氾濫し、最善の医療は埋没しがちであったと思われる。正規の治療で治らないものは、すべて荒唐無稽な民間療法で埋め尽くされていた、といっていい。伝説的な名医とは、その該博な知識から経験上有効有益なものだけを比較的正しく選択しえた者だったのだろう。いまからみれば「養生」ていどのレベルだったにせよ、毒薬をのまされるよりはましだ。

 中世に編まれた「金瘡秘伝集」は合戦が日常だった時代、手負いの者をどのように処置したかをおしえてくれる。まだ縫合や軟膏が十分に知られていなかった時代、石灰や揉んだ草の葉、皿やぼろ布等で傷をふさいだり、煎じ薬をのみ、おなじ薬を傷の周りに擦り込んで腫れをおさえるていどのことしかできなかった。しかも野戦においては正規の薬の不足からか、「ハシブトカラスの黒焼き」だの「葦毛の馬の糞」などといったものがまぜこまれ、ひどい話、これを飲ませて吐いた者はどうせ必ず死ぬ、などといったトリアージ(患者選別)法が、まず最初の方に書かれてある(次号図5)。

 迷信の類に属するもので「冬虫夏草」がしられる。近縁種は大船の常楽寺などにも生えるらしいが、残念ながら中国で珍重されるのはチベット固有の蛾によるもの。漢方人参は徳川時代、朝鮮が増産に応じなかったために幕府が養殖を成功させ、「御種人参」としてひろまった。薬効は冷え性や胃弱ていどで、民間の嗜好品としてはムダに高価でありながら、万病にはもちろん効かない。医療用としては医者が処方する、前述の大中建湯などにも配合されている。こちらは安価なうえ、手術の後などにおなかが膨れるのをおさえる効果もあるらしい。


 いんちき医療が氾濫するのは今もおなじだ。佐助におすまいだった人気エッセイスト・米原万里さんは、いろんな「療法」を試したあげく「高額なものほど効かない」との遺言をのこした。判断力が低下した病人は、業者の宣伝にだまされながらも、疑う相手をまちがえ、ひたすら自分の判断は正しい、と思い込んでしまうものらしい。現代医療にもたしかに限界はあるが、だからといって「カラスの黒焼き」「健康食品」の方が効くというような根拠はなにもないのだ。早期の段階でふつうに切除していたら、助かっていたかもしれない。

 先年ヒットした映画「君の膵臓を食べたい」は、野生動物は獲物の内臓を食べてじぶんの弱ったぶぶんを治す、というおとぎ話を比喩にもちいただけの、よくある青春物の難病ドラマだったと思う。だが比喩と現実のくべつがない未開人のあいだでは、じっさい薬膳として人肉食の習慣もあった。春秋時代には自分の息子を煮たスープを王に食わせる「忠義者」もいた。魯迅の名作「薬」では、他人の心臓をつかった血饅頭の話がでてくるし、近年も某国で人間のDNAが検出された民間薬が摘発された。「荘子」だったか、秦王の痔を舐めると大量の褒美がもらえるという話もあり、かなり悲惨な「医療行為」がおこなわれていたことを彷彿とする。

 かつて、傷病は道教による「天命」とか、仏教による「宿世(*前世の因縁)」などと説明され、そもそも人力での治療は困難ということが前提となっていた。これは医術に従事した者に漢学者や僧医が多かったことを示す。たしかに迷信にはちがいないが、そうしたエクスキューズがなければ王を救えなかった名医たちはみな「医療過誤」のレッテルを貼られ、殺されてしまっただろう。それでは医学そのものが絶えてしまう。



収玄寺(東郷元帥・筆)
 鎌倉末期の「医談抄」には、伝屍病(*結核)・癩病(*ハンセン病)は不治の病とされていた。ハンセン病の致死率はけして高くないが、当時の技術ではいちど畸形した関節や糜爛した皮膚などはもどせず、長く生きることによって逆に不治のイメージが定着、その家族すら感染源と誤解され差別を受けてしまう。したがって極秘のまま縁を切り、野山に遺棄するか非人宿に面倒を依頼するしかなく、預かる側も口止め料に高額な入所金を請求するなどして忌み嫌われ、非人差別の一因ともなった。

 浄瑠璃「小栗判官」の腐乱死体はハンセン病のイメージを投影したもので、これを土車(リヤカー)に載せ熊野の湯治で甦らせるようとり計らったのは遊行寺の僧であった。忍性が北条時宗に勧めて長谷桑が谷に療養舎を作ったのはよくしられているが、円覚寺や建長寺にも老病僧を収める無常堂があったし、いまの和田塚あたりにも浜の悲田院があって病者を収容。かれらは終生「悲田・福田」のあがりだけで生きたのではなく、あるていど治癒した者は覆面などして清掃なり葬送業などにも従事し、自活の道をさぐったものと思われる。

 ただ、こうした救済法が非人と病者を同一視することにつながった、ともいう。病者は非人と同様、前世に罪業を負った者、はては自業自得だといったあけすけな処罰感情すら喚起し、かえって負のイメージを拡散したのではないか・・・そんな批判もある。日蓮の徒・四条金吾は「忍性の桑ヶ谷療養所で人肉食が行われている」などとデマをふりまいた人物(「頼基陳状」に自記)。その結果、師匠日蓮は流罪。みずからも主君名越氏の没落という不幸に見舞われた。また、後世に日蓮の徒が各地でおこなったハンセン病者の保護活動も忍性のさるまねでしかなく、いまではその地域の隔離政策の淵源になったとつよく非難されている。



金吾は浜土ちかくに住んだらしい(GoogleMapより)
 あわれな病人を救うことができない一般人は、おのずから債務感を抱き、「救えない理由」「あえて救わない理由」を考える。「みんなはまんまと騙されているが、自分は医者なんか信じない」「ムダに高い治療費をとるだけ」「どうせみんな裏口入学」「平然と手術ミス」などと誹謗中傷してけんめいに揚げ足を取り、ひたすら他者の責任を糾弾することで、なんとか自分の面目を保とうとする。一時期、お年寄りのあいだで民間療法のブームもあったようだが、一円玉を足のうらに貼れとか、ワカメを一晩ヨーグルトに漬けて食えとかいったばかげた番組も、さいきんはあまり見かけなくなったように思う。

 医学史をひもといてみれば、ウィルス学なんてまだ百年にもみたないし、癌だってつい最近までは不治の病とされていた。しかし、「白い巨塔」で東教授を演じていらした石坂浩二さんはいまもお元気だし、大腸がんや乳がんなどはかなり生存率が高くなっている。たしかに、けつに内視鏡を入れられるのは抵抗があるし、絶食してくそまずい下剤を毎度2ℓも飲むのはうんざりなんだろうけど、検査自体はそんなに痛いもんじゃないし全身麻酔もある。早く見つかれば、そのままポリープ(腺がん)を切ってクリップで留めておわり。

 さいきんはコンプライアンスの徹底などで、病院嫌いのきっかけとなるような感じのわるい医師や看護師や憎たらしい受付のたぐいも、減ってきているように思う。限度額制度もあって、法外な請求もめったにないし、ちょっとした保険にはいってればほとんど負担もない。「入院セット」もあるから煩わしい着替えなども不要。フラワーセンターのちかくの湘南鎌倉病院もそうだけど、あたらしいところでは院内にコンビニやカフェもできて、過ごしやすくなってきている。そのうえで医療の限界があるのだとすれば、そこはもう、あきらめるしかないのだ。



疱瘡の子供と女性(国会図書館DL)
 中世最大の病、黒死病(ペスト)・結核(労咳)・天然痘(もがさ、疱瘡)・はしか(赤斑瘡、麻疹)・ハンセン病(癩、レプラ)などのうち、結核菌・コレラ菌などを発見し、ツベルクリン検査の開発などでおなじみのコッホ博士(Robert Koch1843-1910)は明治41年、世界周遊の途次、弟子の北里柴三郎に招かれ来日。横浜に上陸し日光・伊勢・奈良・厳島などを見物、各地で講演・歓迎会がひらかれた後、静養のため鎌倉にも来た。

 没後の大正元年に霊山公園ができたさい、まず山頂に「コツポ博士の碑」をたて桜などを植えたというのだが、生前にはまだ公園化されていなかったわけだし、たぶんコッホは海浜ホテルから富士山がみえるあたりまで散歩したていどではなかったろうか。友人の学者のために熱心に昆虫採集もしたらしい。案内した北里もペスト菌を発見したり破傷風・ジフテリアの血清療法を開発したりと、近代医学の発展にその名をきざんだ。ただ天然痘などのウィルス類は不完全な遺伝子の塊りのようなもので、電子顕微鏡でないとみえないため本格的研究は昭和になってから。

 細菌は分裂したり、しっぽを動かし泳ぎまわるイメージだが、ウィルスは宿主の生きた細胞に寄生しないと存続できない、「生物」以前の存在。それだけにウィルスだけを単離同定したり、消滅させることはきわめて困難なのだ。とうぜん検体のない中世のあいまいな記録だけでは、どの細菌・どのウィルスが病原であったかを厳密に推測することはできず、今回の武漢コロナなども、いつの時代かひそかに流行っていたのかもしれない。あるいはコレラやペストでさえ、早くから日本に来て、猛威をふるった過去があったかもしれないのだ。


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