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もちださんの鎌倉リポート No.377(2020年4月27日)



No.376
No.378



古い医学について・2



まじで口臭せー(「病の草紙」wikipediaより)
 新型コロナ流行に関連して、カミュの「ペスト」が売れたらしい。「コレラの時代の愛」とかチェーホフの「チフス」、「赤死病の仮面」「ペスト流行時の酒宴」「デカメロン」など、流行病をあつかった名作は他にもいっぱいあるけれど、ポーの「赤死病・・・」はドビュッシーの弟子・カプレがハープ付き四重奏曲にしていて、こどものころラジカセに録音して繰り返し聞いていたのを思いだす。しかし今の世界にこんな大恐慌がおこるなんて、思いもしなかった。

 日本では中世の絵巻「病の草紙」(国宝)がよくしられている。肥満・口臭・不眠症・歯槽膿漏・痛風・霍乱(下痢)などというものから、せむし・白子・侏儒・顔痣・鼻黒・毛虱・あるいは「都に鼓を頸にかけて占(うら)し歩く男あり。・・・男女の根、共にありけり。これ二形(ふたなり)の者なり」「ある男、尻の穴無くて、屎、口より出づ。臭く堪え難くて術(ずち)なかりけり」などという、見世物的な記述も多い。尻の穴うんぬんは、たぶん腸閉塞を誇張歪曲したものだろう。「大量の一寸法師の幻覚をみる男」など、スウィフト的な図もある。



べつの写本では、狂人がはこんできた真っ黒な死体が中央に描かれている(国会図書館DL)
 精神疾患を伝える話では、ある貴族のご隠居が行方不明なので捜したところ、どこかから地蔵を担いできて鳥羽あたりの田圃のなかでせっせと洗っていた・・・とかいう話もあったと思う。「異本病草紙(写本)」には詞書はないが、屍体をもちかえって嬉しそうに踊る男など、さらにおぞましい図がいくつもつらなっている。画かれた風俗からみて、おそらくこれは鎌倉期の未完の下書き(白描)がさまざまに転写・増補され、近世になって個別に編集・着色などされたものらしい。誤写は別として、背景がないもの・性器などのグロテスクなぶぶんを修正したものなど、各写本には精粗がいちじるしいが、だれに見せるためかを斟酌して作成したためのようだ。

 「病の草紙」は面白おかしく興味本位で描かれたものだという批判もあるけれど、「他人の不幸は蜜の味」なんて解釈はむしろ現代人の【異常な読み方】だと思う。あれはあくまで零本(不完全な断簡)であって、疾病に関するかぎりどんな話も数多くみてゆけば、けして笑えなくなる。むしろ暗い話題であるからこそ絶望や黙殺に代る微笑みも必要なのだし、目をそらしがちな健常者の興味を引くよう、あえて工夫されたとみるべきだ。現代の医療ものドラマだって、石原さとみさんや山崎賢人くんなんかが出てこなければ、まず【誰も見ない】ものだ。

 弘安ころの医師・惟宗具俊の随筆「医談抄」にも、人面疽など、おもに唐土の伝奇的な珍病奇病が紹介されている。江戸初期の鎌倉地志には、蛇が谷の言い伝えとして、若い愛人を実の娘に譲って隠居したマダムの指が、無意識の嫉妬から「蛇」に変形した、なんて話もある。これらは実際の医療に関するものではなく、むしろ説話、教訓話として創作されたもののようだ。なかには仏教伝来とともに流行した疱瘡のように、実際の感染症であるにもかかわらず何らかの祟りだろうと曲解されたものも多かったにちがいない。



「異本病草紙」写本(同上)
 紫式部とその娘らが書き綴ったとされる歴史巨編「栄華物語」によれば、赤斑瘡(はしか)などの流行病が鎮西太宰府から、上京者と共にやってくるということ(巻16「本の雫」)、すなわち大陸からの感染がおぼろげに知られていたことがわかる。また去年発病しなかった者が今年はきっと感染するとか、前の流行から五十三年も経っているので多くの人が罹った、という記述(巻39「布引の瀧」)などからは、免疫ということも経験則で知られていたようだ。それは感染をおそれない介護の図からもわかる。ただ免疫の知れない個別の病にたいしては、野山に遺棄するなどの方法もとられていたようだ。禅僧・無関普門は若いころ、旅先で「適(たま)たま熱病を発し、家主これを忌み、郊野に置」かれたという経験をもつ(本朝高僧伝)。

 病原体に相当するものは【瘴気】とよばれ、野蛮の土地にただよう悪臭のようなものと認識されていた。特に朝鮮半島の風土病である【マラリア】に関係するとされる。マラリア原虫は空気感染こそしないものの、蚊のほか糞便を媒介にすることもあるので当らずしも遠からず。源氏物語にでてくる「わらは病み」とは、このマラリアのことらしい。近世までは、ヨーロッパでも悪臭説がねづよかったらしく、香辛料で治るとか、ハーブを嘴状に詰め込んだ防護マスクが治療にもちいられたりした。今日のガスマスクににているが、鳥の着ぐるみのようでもある。

 古代には疫病は御霊によるとされたが、北野天神や藤原広嗣などの御霊は、ややもすれば九州で死んでいる。今宮などの御霊系の神社にも、鎮西から鼓笛を鳴らして上京してきた伝承をもつものがあり、鎮疫のはたらきをもつ「方相氏」「鍾馗」などのマスコットは、唐側の記録にもあきらか。併合以前の朝鮮半島には郷土玩具はなく、呪いのわら人形のほか、少児の護符として五つ眼の方相氏の板札だけがあった、と報告されている。



「慕帰絵」写本(同)
 太宰府周辺の官庁などでは非常に深く掘った古代のトイレが発掘されていて、平安貴族が落ちて死んだという記録を裏付ける。これは【瘴気】を忌むための工夫であろう。トイレの遺構は土壌解析から当時の食習慣がわかるなど、考古学者の注目の的になっているらしいが、なかなか見つからないらしい。中世にはすでに肥料用に甕や桶が埋(い)けてあったともいう。狂信的儒教徒は切った髪まで煎じてのみ、「気」を体内に回収する習慣があり、大陸ではいまも飼育する豚や鯉に汚物をたべさせる。汚物を肥料とすることは、おそらくそうした思想も背景にあったものと思われる。

 近世まではパリなどでも汚物を窓から路上に捨てていたし、ハイヒールはその時代の名残りらしい。大雨などで生活用水を汚染することもあったようで、「風呂にはいると病気になる」などの俗信すらあったという。日本でも中世にはサウナ式の蒸気風呂が主流となった。「餓鬼草紙」などには路地裏での排便が描かれていて、そこでは高下駄をはいており、汚物は野良犬のえさになっていた。ある和尚と仲良しの犬が、たまたま和尚が下痢だったため激怒してけつに噛み付いた、なんて笑い話も。犬は本能的に腐肉などをたべる習性があり、もとよりそのような餌を好んだらしい。むろん現在は狂犬病ウィルスが蔓延する危険から、野犬を放置することはできない。

 鎌倉時代後期の厠の様子は「法然上人絵伝」の厠念仏のシーンや「慕帰絵」などにえがかれている。田舎農家によくある外便所だけでなく、廊下のはしに造り付けたものもすでにあったようだ。禅宗では東司とよばれ、充分な間仕切りのない、中華ふうの「ニーハオ‐トイレ」もあったとか。袈裟はもともとボロをパッチワークした「糞掃衣」だというのだが、それは名目でじっさいには高価な晴れ着だから、外で脱いで掛け、肌着になって便所下駄をはき用をたしている。



「腸が飛び出た場合、赤ん坊の便を酢で殺菌、粉にして塗り皿の底で蓋をする」(「金瘡秘伝集」国立公文書館)
 西洋医学の祖といわれるヒポクラテスは、呪術を棄てて医学に高めた人に位置づけられる。ただ、中世をつうじて占星術や錬金術の影響はのこり、進歩したのは主に外科術であったようだ。パレ(Ambrois Paré1510-1590)が傷口の洗浄・縫合を提唱するまでは、西洋でも馬糞を塗ったり焼きゴテをつかって焼き潰していたという。かつては「脳天の悪い血を抜く」刺絡なんかもふつうに行われ、現在床屋で回っている「縞々」も、その看板がルーツ。また、日本で河童や人魚のミイラなんかが作られたのも、大航海時代にはまだ西洋でミイラが民間薬として珍重されていたから。

 バテレンはおおくの患者を治療したとされるが、黴毒など未知の感染症の運び手でもあった。【細菌】というものの存在が確認されるのはやや遅く、その後もさまざまな迷信にさえぎられ、微生物が病原と同定されるのはパスツールやコッホ博士が登場する19世紀後半、すなわち明治になってから。ただ天然痘や狂犬病などはウィルスだから、顕微鏡でいくらさがしてもみつからないわけで、18世紀にジェンナーが編み出した天然痘ワクチン(牛痘法)などにしても、当初は見えない敵に対しておこなわれていたにすぎない。ゲノム‐レベルでウィルスの詳細が解明されたのはごく近年のことなのだ。マラリアの特効薬キニーネは新大陸で偶然発見された生薬にすぎず、初の抗生物質ペニシリンや結核用のストレプトマイシンにいたっては戦中戦後のこと。

 古代中国諸国では、漢代に「黄帝内経」など漢方の基礎文献がつくられたとされ、邪馬台国関係の遺跡から仙薬とされた桃が大量出土すること、前方後円墳が仙薬を産する壷形の島「蓬莱」を象るとみられることなどから、なんらかの影響があったことは想像に難くない。隋唐代には巣元方「病原候論」・孫思邈「千金方」などの大著も編まれ、遣唐使をつうじて日本にももたらされた。これらは散逸または後世に全面改訂されたものもあるため、日本にある写本や「医心方」などに引用された逸文は隋唐医学の貴重な資料になる。



現在の梶原界隈。山中にあるのは旧野村総研(GoogleMapより)
 日本でも平安初期に諸国に呼びかけて各地に在来する秘伝を集めた「大同類聚方」百巻が編纂された。宣命体で書かれたものだが、残念ながら不完全な写本が伝存するのみ。平安中期には丹波康頼(912-995)の撰による古典的名著「医心方」三十巻も編まれた。こちらはほぼ外来の説に基づく。「医略抄」を著した丹波雅忠(1021-1088)は曾孫。「平家物語」には、高麗王が方物を添えて派遣を懇願してきたほどの名医だったと謳われている。だが、当時契丹に属していた王氏高麗は日宋にとって敵方であった。けっきょく依頼は相手の牒状が蕃国の礼を欠いているとして拒絶。「扁鵲、豈に鶏林の雲に入らんや(・・・そのような態度でどうして名医が新羅なんかにくると思うのか)」と痛烈に教訓した返書の原文(1080)が、「本朝続文粋」に収録されている。

 律令制では宮内省に【典薬寮】・中務省に【内薬司】(天皇侍医の部局。のち典薬寮に統合)がおかれ、医博士・針博士・按摩博士・呪禁博士・薬園師・女医などを設置、また衛府や国衙などにも医師(くすし)を配置した。漢方は本草学(薬学)や鍼灸などに一定の知識をもたらしたが、なお陰陽五行・性理学などといった観念的迷信性や、天命・前世の因果などといった道徳的迷信性を濃厚にともなっていたことは無視できない。呪禁師は護符・まじないを専門とするもので、その機能はやがて医療から切り離され、天文・占いをつかさどる陰陽寮(中務省)に委譲された。また僧医、すなわち民衆への慈悲救済を説いた仏教(治部省管轄)の役割も大きかった。太子や忍性が設けた施薬院をはじめ、かの鑑真和上もあらゆる薬をかぎ分けたという。

 鎌倉後期に「頓医抄」五十巻を著した梶原性全(浄観房1266-1337)は、代表的な僧医。鎌倉でうまれ、金沢貞顕に仕えたともいい、丹波・和気氏など都の医家にとどまらず、宋代までの厖大な舶来書籍を参照。専門家向けではなく初心者にも理解しやすいよう、和語でわかりやすく説いた。これは医術が宮中の秘伝を脱し、学ぼうという者がひろく増加したことをしめしている。ひたすら秘伝にこりかたまるより、臨床例が増えれば、そのぶん治験や新知識が蓄積される。本草学者は日本各地で薬草を捜索・採取するなど、異国にたよらない医療システムもうまれてくる。従来タブーとされた、天皇の「玉体」に鍼灸をおこなうようなことも、こうしてしだいに解禁され、江戸期には農村の名家のむすこにまで医学を趣味とする人がひろまった。



公園は繁昌。にわかカメラマンのレンズの先には・・・
 江戸期には出島駐在医による蘭方医学もつたわる。ケンペルらが滞在した当初は、オランダ語の通詞を通じた医書の翻訳が中心だったが、前野良沢らは穢多の協力で刑死した罪人の解剖をおこない、その記載を実証。後期のシーボルトのころには外科手術などをまなぶものもあらわれた。その時点ではまだ在来の漢方を圧倒するものにはならなかったが、確実に影響は与えていたし、後に急発展した近代医学修得の土台になっただけでなく、蘭学の素養が外国語習得のいとぐちとなり、文明開化にも大きく寄与していった。たとえ適塾にまなんだ福沢諭吉の「英語」が、ジョン万次郎の正統派英語にくらべてひどくあやしげなオランダ訛りだったとしても。

 現在は学費も高く、一般人にとって医学部は関心の外になってしまった観もある。まじめで偏差値の高い若者たちにとっても、人生を賭けるにはリスクのたかい職種とみられているのかも。でも、治療をうける側もリスクはおなじ。医療は現在でも、けして万能ではないのだから。あるいみ、未来の医療の進歩のため、【発展途上】の施術を受けているのだ。医者に完璧を要求したり、医療従事者を非難したりするのはたやすいが、【選ぶのは自分】。今を信じず、やみくもに未来ばかりを待っていたら、確実に死んでしまう。

 だれが触ったかわからないパッケージのうえにパンをのっけて食っていたり、この期に及んで風俗店にくりだす議員までいたりと、まだまだ油断する人は多い。どうせじぶんは軽症で治るからとか、もしもの場合は死んでもいい、と思うひともなかにはいるのだろう。でも友人や家族、そして入院すれば医者や看護師にまでうつしてしまうかもしれない。医者は患者をえらべない。病院閉鎖をひきおこせば、手術を待つ人・一刻を争う脳溢血など、多くの無関係な患者にまで深刻な影響をもたらす。「弟の手じゅつがうまくいきますように」。・・・去年の七夕、病院のロビーに飾られた笹の葉に、多くのこどもたちの願い事が結び付けられていたのを思い出した。


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