トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第379号 


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もちださんの鎌倉リポート No.379(2020年7月17日)



No.378
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鷺姫と蒔田御所・1


 6月の始め、まだコロナ禍の自粛ムードたけなわのなか、家族の納骨で東京の三軒茶屋あたりにあるお寺にむかった。いわゆる「3密」をさけるため、火葬場も10人程度だったし、それから墓石に辿りつくまでが3ヶ月もかかったのだ。

 異変に気付いたのも施設にいれたのも、延命治療を断わったのも、葬式をやめようといったのも私。だれかが決断しなければならないから。コロナとは無関係だとはいえ、この時期だし、むりして葬式なんかしたって誰もよろこばないし、げすの勘ぐりや自己満足にもとづく、ろこつな差別もひろがっている。自粛期間は好きな菓子でも毎日絶やさず供えてやろう、ってことになって、役所なんかの手続きもほぼ一段落し、ようやくお寺で現地解散したころには、ほっとしたって感じしかなかった。「外出制限」の解除後の、ひさしぶりの自由時間。


 お寺のまえの欅並木の古木のかたわらに「林芙美子旧居跡」の看板。壺井栄やら黒島伝治なんかも住んでた長屋があったところ。うしろは国立小児病院があったところで、いつしか巨大なマンションがたった。「下町ロケット」で不祥事をおこした、あの脇役俳優もすんでたとか。東京ワンタン社長の豪邸・烏山川緑道をへて首都高をくぐり、昭和女子大のわきの抜け道をはいる。人工の滝がながれる公園にいってみると、遠出できない家族でけっこうなにぎわい。こどもの世話は、在宅ワーク明けのパパたちの役割らしい。ただ、つい数年前まであった立体迷路や空中通路といった遊具が、ねこそぎありふれたものに入れ替わっている。たしかに寿命なんだろうけれど・・・ちかくの池尻小学校ではいまごろ入学式だという。

 寺は中世には名も無き観音堂や太子堂だったらしく、近くにある太子堂八幡宮の神宮寺と合併して江戸期に寺容を整えたとか。その八幡宮も本殿のない自然崇拝の古代祭祀のながれを汲むものらしく、近年はカラフルな限定朱印でにぎわっているらしい。というより十月のお祭の盛大な夜店のほうが思い出ぶかい。出店のショバはだいたい決まっているらしく、弁天堂あたりが「薄荷パイプ」で鳥居の右奥が「輪投げ」。ようやくいろいろ思いだしてきた。

 そのすぐ近くが東急世田谷線の西太子堂の駅で、アマゾンなんかなかったころに松本零士さんのレアなマンガ本を見つけたちっちゃい本屋は・・・まだ駅前にあった。これは昔の玉電の支線だから江ノ電とはゆかりがふかい。ただしこちらは150円均一で、乗務員は女性。車輛はあたらしいけれど、路面電車ふうのむきだしの運転台で、今回はビニールのパーティションがかかっている。写真をとっているのが子供のようにみえたのか、ビニールのすそをちょっとばかり、めくってくれた。優しいね。線路沿いには、葵のさかり。


 東京都世田谷区世田谷界隈は中世、吉良氏の世田谷城の城下町だった。いまでは曲輪のはしっこだけが公園としてのこされているにすぎず、近世には滋賀県彦根藩井伊氏の采地となり、代官屋敷がおかれた。戦国時代に世田谷新宿に布告した「楽市」のなごりをひく年末の「ボロ市」では、名物の代官餅が搗かれるが、コロナの今年はどうだろう。夏の「蛍祭りと鷺草市」はすでに中止。まあ、テント内で蛍を見ても、ねえ。

 下馬の図書館はまだ「3密対応」での限定サーヴィスだったけれど、代官屋敷にある郷土資料館には、歴史関係の図書コーナーがある。それに前回(レポ305)見残した吉良氏関係のいくつかのお寺が、代官屋敷裏手の駒留通りぞい、弦巻あたりにもいくつか散在している。もちろん一般に知られるような観光寺院ではない。こどものころ、オークラ‐ランドのプールにかよったときは自転車だったから、徒歩だと意外に歩きでがある。

 古ぼけた、迷路のような路地がひろがる通称「山の手の下町」の庶民的風情と、いなか成金があこがれる「セレブな高級住宅街」とが渾然一体となった雰囲気は、どこか鎌倉に似通うところがある。観光地ではないが自然とひとが集まっているし、文化人とかTVタレントとかが数多くすんでいるのも同じ。過去現在、永劫と変容。忘れられた血みどろの歴史と、ありふれた街並みに何の根拠もなく増殖する「おしゃれタウン」「会員制レストラン」のようなものと・・・。後述するように、このふるい城下町は、その成りたちのはじめから、鶴岡八幡宮をつうじて「武家の都・鎌倉」とつながっているのだ。



「尊氏以来は公家に御成り候まま・・・なま才覚申し候。宗哲」。(郷土資料館、レプリカ)
 足利将軍家の一族・御連枝は数多いが、吉良氏ばかりが御所とよばれ、「等持院殿(*尊氏)御遺書に、室町殿の子孫絶へなば吉良に継がせよ。吉良も絶へなば今川に継がせよ、と仰せ置かれたり」(今川家譜)、などとうたわれた理由はさだかでない。尊氏の祖父・家時、そのまた祖父の足利三郎泰氏(1216-1270)の兄に吉良長氏(1211-1290)・義継(?-?)があり、これがそれぞれ三河・奥州吉良氏の先祖にあたる。長氏・義継は五郎・四郎とよばれたが、恐らく三郎泰氏の兄。泰氏はその偏諱の通り、実母(もしくは養母)が北条「泰」時の娘だったから、弟にも関わらず惣領の座を占めたのだろう。

 駿河今川氏の先祖・国氏は吉良長氏の子であるから、今川氏からみると上記のような順序になるらしい。それにしても足利一族には他にも畠山・桃井・仁木・細川・斯波・渋川・一色・石塔など、錚々たる実力派部将・大々名・室町管領家がそろっているが、べつだん将軍家に代るような「お血筋」を唱えたものはない。将軍家としても身近にいる実力者に後継指名するのは危険だから、「予備のお血筋」などというものはむしろ、権力の中枢からできるだけ遠くに置いていたのかもしれない。

 つまり吉良氏の浮き世離れした権威は、現実世界の権力闘争とは、まったく無関係に唱えられていたのだ。いいかえれば吉良氏は、戦国大名としてはごく貧弱な、むしろ公家的な存在だった。世田谷資料館にある「おぼえ(幻庵覚書)」という古文書1562は、吉良氏朝に輿入れする後北条家の姫君(鶴松院 ?-1606)にたいし、一族の長老・北条幻庵がさまざまな【作法・しきたり】を、細々と注意。相手方は尊氏いらい公家になったのだから、礼法を知らなければ物笑いになる、と教訓している。つまり嫁ぎ先の吉良氏を、足利将軍家と完全に同一視しているのだ。



GoogleMapより
 吉良氏は公武の有職家(*儀式研究家)としても、はやくから「押しも押されぬ」存在だったようだ。江戸時代、徳川将軍家に「高家(高貴な家柄)旗本」として仕えた忠臣蔵の仇役・吉良上野介(三河吉良氏)も、儀式作法の教授とひきかえに高額な賄賂を要求する、意地の悪い人物だったとされる。逆にいえばその当時、「礼法」というものがひとの生死を左右するほど重視されていたのだ。それのみならず、三河吉良氏の先祖は家康の祖父・松平清康の妹婿になっていた、とされる。三河吉良氏の存在は、いわゆる三河神話のひとこま、徳川家ご先祖の高貴なお血筋を【創作】する偽史の、貴重な「証言者」でもあった。

 一方の奥州吉良氏は、奥州管領吉良治家が畠山・石塔・斯波・ならびに同族吉良貞経らとの抗争に敗れて逐電。おそらく鎌倉公方府をたよって扇谷上杉の世田谷城に客分として安住したのが世田谷吉良氏のはじまりとみられる。「永和弐年」1379、世田谷に隣接する上弦巻郷の半分を鎌倉鶴岡八幡に寄進しているのが初見で、これを初代とすれば治家@−頼治A−頼氏B−頼高C−政忠D−成高E−頼康F−氏朝Gの8代が世田谷吉良氏、ということになる。成高E(?-1528)は扇谷上杉定正の妹(世田谷局)婿となり、出陣にも応じたことが「道灌状」にみえている。小田原後北条氏が江戸に侵攻するころ、おそらく外交上の配慮から、頼康F(?-1561/2)は北条氏綱の「婿」となり、やがて客分として仕えたとみられる。

 このうち最後の氏朝G(1342-1603)は、頼康Fが晩年、北条氏綱の外孫に当る堀越六郎(遠江今川氏)の遺児を突然養子に迎えたもので、頼康とは直接の血のつながりはない。吉良頼康の正室となった北条氏綱の娘・通称「崎姫」には、実はふたりの人格が混同されているらしく、氏朝の実母にあたる堀越六郎の未亡人(高源院・山木大方?-1586)が吉良頼康に再婚したのではなく、頼康の正室(蒔田殿)とはもともと別個の姉妹であったという。また「崎姫」の号はどちらにせよ、信頼すべき古文書にはみえない。つまり氏朝は連れ子ではなく、正室(蒔田殿)からみれば甥、たぶん頼康が「なぞの死」の直前にむかえた、末期養子のような存在だったという。



法面裾のブロックは土塁保護のため近代にほどこされたもの
 氏朝(19)をむかえた永禄三年(1560)には、いわずと知れた桶狭間の合戦があり、今川義元が死ぬ。氏朝の実父・堀越六郎は今川了俊の子孫で、遠江今川家とよばれる。後世、寺小屋の教科書として必ずもちいた教訓書「今川状」などをつたえる、名門の出だ。駿河の本家、すなわちかの今川義元と争って敗れた堀越貞基の子「六郎氏延」の嫡子か、と推定されるので、小田原北条氏にとっては対今川外交の重要なカードになっていた。氏延の離反は信玄がそそのかしたという説もあり、甲斐武田氏との人脈も重要だろう。

 なぜなら翌年には、上杉謙信が小田原に進軍する。これよりさき、後北条氏は河越夜戦で古河公方足利晴氏を下し、その次男・義氏(1541-1583。氏綱の外孫、葛西公方)を手に入れていた。謙信はこれをみとめず晴氏の長男・藤氏(尚丸御方)をたて、みずからその後見者「関東管領」に任じるため、越後長尾氏の名を捨てて「山内上杉氏」に改名(*長尾景虎→上杉政虎)、わざわざ都から前関白・近衛前久をよびよせるなど、周到な事前工作をして攻めてきたのだ。謙信の小田原包囲のあいだ、公方義氏はなんとか命脈を保ったが、吉良頼康は養子氏朝に家督をゆずり、蒔田城・玉縄城などを点々としながら、その年のうちに急死する。

 頼康にはかつて、すくなくとも三人の男子がいた(泉澤寺阿弥陀仏像内札銘1548)といい、そのまえにも「吉良殿御曹子御産平安」の祈祷がおこなわれたことが記録にのこる(「快元僧都記」1539)。かれらの母がだれなのか、子供たちがいつ、どうなったかは、わかっていない。なぜ突如養子を迎えたのか。すでに頼康は後北条氏と不和不仲になっていて、家名家督を奪われ、幽閉のすえに仕末されたのでは、という見方さえある。




吉良氏墓所
 弦巻から駒留通りをくだり環七に交差するあたりにある駒留八幡には、吉良頼康のころされた実子を「若宮」としてまつった、という伝承がある。環七は246や世田谷通り(旧大山街道)の交差点ではアンダーパスをもうけているが、このあたりでは逆に陸橋(オーバーパス)になっていて、かつては深い沢であったのだろう。頼朝だか北条左近太郎成願だかが乗馬での通行をわずらったため、馬引き沢とよばれた、云々の言い伝えがある。

 川は蛇崩川という小川でいまは烏山川と同様、緑道になっているが、駒留八幡からずっとくだって駒繋神社(社地は古墳)・葦毛塚などがあり、駒繋というのはたぶんお旅所であって、沢は神馬を「繋」いだり「留」どめたりする神々の通り道だった。「頼朝」はそこで下馬せず、礼拝を怠って通行しようとしたので、神罰に当たって馬が死んだのだ。逆算すれば駒留八幡はもともと古い「祟り神」があって、「頼朝」云々、北条成願による社殿創建1307、吉良頼康の若宮などというのも、のちに付会・追加されたものかもしれない。

 さて、養子・氏朝も、やがて後北条氏とともに小田原征伐で家康軍に敗れ1590、世田谷城を没収、弦巻の実相院に謹慎籠居した。いま世田谷勝光院に「吉良氏墓所」として確実な墓がつたわっているのは、父・頼久とともに「蒔田氏」と改称して徳川に帰参、「高家旗本」として仕えた氏朝の孫・蒔田氏祇以降の、近世の墓石にすぎない。しかも塔の部材の組み合わせはほとんどちぐはぐ。氏祇の父・蒔田頼久(1568-1609)も後年、徳川のため多少の軍功はあったものの、後北条氏の外孫としていちどは家康に敵対した過去があり、公然とは顕彰できなかったのだろうか。あまつさえ蒔田氏に改称後は千葉などに采地を得て、世田谷への居住もままならず、吉良への復姓も、しばらくは叶わなかった。そのあいだに世田谷吉良氏8代のたしかな記憶は、ほとんどうしなわれてしまったようなのだ。


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