トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第380号 


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もちださんの鎌倉リポート No.380(2020年7月21日)



No.379
No.381



鷺姫と蒔田御所・2



常盤姫ゆかりの常在寺
 世田谷区の花にもなっている【鷺草の伝説】。吉良頼康の愛妾・常盤(奥沢城主大平出羽の娘)は、正妻と13人の側室の奸計によりあらぬ密通を責めたてられ、常盤橋というところで母子共に命を絶つ(処刑されたとも)。このとき飼っていた白鷺に文をつけ奥沢に向けて放ち、夫頼康がたまたまそれを射て真実を知る。鷺の死んだところの池には鷺草が咲いた、などというもの。(ちなみに常盤橋の欄干は駒留八幡境内に保存されている)

 これによれば頼康の実子と愛妾を殺害したのは正妻の北条崎姫、ということになる。しかし13人の側室を処罰して常盤の塚のまわりに埋めたなどというのは、中世の十三塚からの着想であろうし、世田谷勝光院には「愛縁薬師縁起」という異説もつたわる。薬師のお告げにしたがい鷺の足に文をつけたのは崎姫で、これを頼康の鷹がとらえてめでたく恋がかなったという。前述のように勝光院に墓がある吉良(蒔田)氏は崎姫の血筋だから、崎姫が悪役であるわけもないのだが、頼康室=「さき姫」の通称はこれが初出であり、「崎姫」とはけっきょく、鷺姫のことであることが判明する。



弦巻実相院
 いっぱんてきな鷺草の伝説のもととなった「名残常盤記」では、鷺は常盤との出会いの場面に登場し、そこは「愛縁薬師縁起」に符合する。常盤の死後、胎児のえな(胎盤)に五七の桐の紋があらわれたことで、それが密通などではなく、我が子であることを知る。「五七の桐」とは足利将軍家や鎌倉公方家などだけがもちいる、高貴な紋章(家紋)だ。その後も世田谷城には白鷺があつまって啼くなどの怪異がつづき、十三塚や若宮八幡を建立し鎮魂につとめた・・・などと説かれている。

 世田谷にはかつて、鷺草の群落があったらしい。庶民の感覚では、ちいさくかれんな花をつける鷺草の姫君といえば、名門大名の娘などというよりは、薄幸の常盤姫のほうに強い思い入れをいだいたのだろう。架空のお伽話であることはおなじでも、「愛縁薬師縁起」のほうははやくに否定され、わすれさられていった。そして「崎姫」という名前だけがむなしく残ったのだ。江戸中期、忠臣蔵の一件で三河吉良氏が没落すると「蒔田氏」は吉良に復姓。・・・そのころにはもはや、頼康室や氏朝母の実名など、すっかり忘れ去られていた。

 弦巻にある日蓮宗常在寺は「常盤姫」がいまわの際に持仏の鬼子母神を井戸に投げ入れたとされ、常盤創建を称している。いまは近代的な霊園寺院となり、高級料亭風のはでな人工池庭や小型五重塔などがきらびやかに飾られ、つつましい雰囲気はまったくない。また常盤塚にちかい若林にはかつて香林寺(高林庵)という寺があり、これも「常盤開基」「殺された刑場の跡」などとつたえるが、これは氏朝室鶴松院の別名としてつたわる「高林院」がまぎれ込んだものかもしれない(*ただし実在の高林院は鶴松院の姉で、千葉親胤の妻となった人物と思われる)。



「風は世田谷」H5.4.15放送
 崎姫の甥であり養子でもある吉良氏朝の籠った鶴松山実相院(曹洞宗)も、弦巻の駒留通り沿いにある。木賊をあしらった長い土塀がめぐり、境内には他寺から古い燈籠や大名墓が移築され、木々が鬱蒼として多少雰囲気はあるものの、石柱のオブジェや中国石人に守られた半地下式の蹲(つくばい)なんかが幾つも設けられ、どこか現代人の作為を禁じえない。荒れ寺はありのままにある鎌倉の風情が評価されているいっぽう、都内には料亭・旅館風の、こういうモダンな「にぎやかし」を好む者も多いのだろう。

 コロナ自粛のこの機会に家族の遺品を整理していると、戦後造園業をしていた大伯父の描いた各種垣根の見本帳がでてきた。ほんとうは垣根以外にも、いろんな図面やイメージ画、伝統的な道具で大きな庭石を据える場面などの写真帳がいくつもあったはずだが、きっと職人衆にやってしまったのだろう。ただ「昔ながらの垣根」の図解なんかは、だれも持って行かなかった。大伯父が死んだ昭和の終わりころには、もうそんな仕事は過去の遺物になっていたのかもしれない。

 新奇を競うモダン庭園もいいけれど、それはたぶん、歴史や伝統が根こそぎ失われたその後の、埋め草のようなものだ。世田谷区が公開している「風は世田谷」というYouTubeビデオには、平成のはじめころの、ひなびた本堂と吉良氏朝・鶴松院(北条氏康娘)夫婦の失われた墓石のみが紹介されていた(左)。氏朝夫婦は家康に降伏ののち、子孫の帰参を担保するため、ここで公に謹慎をつづけた(1603・1606没)。墓石は江戸後期まではたしかに存在していた(風土記稿)のだが、忠臣蔵の吉良と勘違いした義侠の徒が、廃仏毀釈に乗じて粉砕してしまったのかもしれない。あるいは学者の生半可な入れ知恵で、住職が処分してしまったのかも。「氏朝ゆかりの大欅」も枯れてしまった。



左が墓地、右に竹林。梵鐘は1698年銘
 勝光院(曹洞宗)には木立・竹林にくわえて参道も石段もあり、世田谷吉良氏初代・治家が草創した竜凰寺のおもかげを多少偲ぶことができる。現在の寺号は氏朝が亡き養父の菩提寺とした際、頼康の戒名をもとに改称1573。またもとは臨済宗の寺であったものを、天永琳達という僧をまねいて曹洞宗にあらためた。梵鐘は例の「討ち入り」の4年前、蒔田氏時代のもの。事件ののち、三河吉良氏は改易、こちらがめでたく吉良に復姓とあいなった。実際には世田谷吉良氏の先祖のほうが長子とみられるから、吉良の本筋を考えるならこれでよかったのかもしれない。

 墓地は中門より下に展開し、吉良氏墓所は独立した区画になっているものの、前号にのべた通り近世式五輪塔や宝篋印塔の部材はかなりちぐはぐで、もはや寄せ集めに近い。ただ台石や塔身などには、戒名や江戸中期以降の銘文がまだはっきりとうかがえる。「頼康の供養塔」なるものも、かつてはあったとみられるが、いまはまったく確認できない。鷺姫伝説の源流となった「愛縁薬師像」についても、いまはあるのかどうか。お堂はみな鎖され、境内はただ沈黙だけが支配している。

 世田谷は三軒茶屋で矢倉沢往還(大山街道、246の前身)から分かれ平行する津久井往還(現・世田谷通り)を扼し、六代吉良成高が婿入りした扇谷上杉定正の糟屋城(伊勢原市)とその寵臣・太田道灌の江戸城などをむすぶ重要な防衛線に位置した。まねき猫で知られ、後世に井伊家の菩提寺となった大寺院・豪徳寺は、全域が世田谷城の跡。寺は城内にあった竜凰寺の子院・弘徳院が前身とされる。江戸中期に至り吉良時代とおぼしき墓石が藪のなかから発見され、草創の由来を顕彰する「豪徳寺碑」1799が建立された。草創開基の尼・弘徳院は5代政忠の叔母、つまり3代頼氏の娘ということになっているが、どのように「重要な」人物かはあきらかでない。また弘徳尼・政忠の墓石なるものも、もとは五輪塔の頭部のみだったといい、すでに江戸期の段階でかなり手が加わっていたらしい(世田谷私記)。そもそも中世の石塔に戒名などを具体的に刻むことは、さほど多くないのだ。



実は信玄像か、という説もある(Wikipediaより)
 宮の坂にある世田谷八幡には吉良「頼貞」により、鶴岡相承院の僧を招いての社殿再興の棟梁銘1546がつたわる(風土記稿)。「頼貞」は7代頼康の前名であり、北条氏康の偏諱をもらって改名したというのが通説。ただ「頼貞・頼康」別人説があり、八雲東光寺位牌に「頼貞」の没年を大永五年1525と記すほか、泉澤寺阿弥陀仏像内札銘の写し1548には、「源朝臣頼貞妻平氏女」「頼康、同嫡男太郎、次男次郎、三男辰房・・・」云々と、頼康の名があきらかに「頼貞」とは区別されているようによめる。「札銘」の現物は未確認で「写し」も欠字の多い不完全なものなので何とも言い難いが、「妻平氏女」は北条氏綱娘を指すともいう。

 東光寺は初代治家の創建。旧衾村(目黒区自由が丘周辺)の北部、いまの柿の木坂あたりにある。ここは祖母の実家の菩提寺だから生前によく連れていかれたが、吉良「頼貞」の墓や位牌があったことは知らなかった。自由が丘周辺にいまも異様に多い栗山一家は、いぜんスマップの番組にもとりあげられたし、保存古民家や「自由が丘」建設の祖として銅像なども建っている。しらべてみると、もとは衾・碑文谷あたりを治めた吉良氏の家臣だったらしいのだが、くわしい系図は夙(つと)に失われているという(風土記稿)。ちかくの九品仏浄真寺(レポ92)は常盤姫のうまれた奥沢城があったところで、ここに吉良頼康の画幅がつたわっている。

 頼康(?-1561*2)は従四位下左衛門佐に任官1541。横浜の蒔田勝国寺には「永祿四年十二月五日卒去し、当寺先塋に葬」ったと伝える。死因は不明。父・吉良成高(?-1528?)の没年や三子の仮名(けみょう)を載せる阿弥陀札銘などからみて、享年は40以上にはなっていたものと思われる。東光寺では「頼貞」は頼康の兄としており、世田谷吉良氏が扇谷上杉から後北条氏にのりかえた時期に死んだか、廃嫡になって隠棲したという見方も。ただどちらの説にしても、いろいろと矛盾点がのこり、「頼貞」の正体は結局、謎につつまれている。



区役所あたり(コロナ前、2018)
 足利氏の祖・義兼は、じつは鎮西八郎為朝の血を引く者で、「真の源氏嫡流」として天下をとることを誓い、子孫に霊となってはげましたのだが、尊氏の祖父・家時(1260?-1284?)は時宜叶わずして切腹したのだと、「難太平記」はつたえる。これは吉良氏朝の実父の先祖・今川了俊が書き残したもの。了俊は失脚後、「今川状」という家訓を残し、教訓といえばまず今川、とされたほど、後世にひろく知られた。三河吉良氏の先祖・満氏は足利家時につづいて霜月騒動で敗死。これらの事情を知る上杉憲房は、尊氏が三河を通過するさい、満氏の遺子・吉良貞義に謀って、北条討伐の挙兵をつよく勧めたのだとか。「将軍家がほろべば吉良氏」といった風聞は、「田舎人」のいいつたえからいつしか「尊氏の遺言」にまで、まことしやかに進化していた(今川記)。

 吉良頼康にもそんな野心があったのだろうか。頼康はかつて、北条氏綱による鎌倉鶴岡八幡宮造営に協力した1533(快元僧都記には「吉良殿様」「蒔田」と記す)。同八幡は都の内裏と同じものとかんがえられており、信仰する武士たちに関東支配を宣布し、その正当性をうらづける装置だった。後北条氏が大規模な修復造営に尽力したのも、それだけの価値があったからだろう。鶴岡八幡宮は里見氏の玉縄来襲1526によって焼失しており、里見氏および養い君の小弓公方・足利義明(古河公方晴氏の叔父)の権威はたちまち失墜。あろうことか敵方の北条氏の要求で同八幡に謝罪の献金すら、余儀なくされていた。後北条氏は、この機に吉良氏を新たな鎌倉公方に押し立てる計画をすすめていたのでは、とみる人もいる。

 だがその後、後北条氏は古河公方足利晴氏を下し、その子・義氏(母・北条氏綱娘)を青戸葛西城で元服させ鶴岡参詣を実施1555。晴氏を隠居させ、足利義氏を新たな関東の主、新公方として擁立したことを公に宣揚する。翌年には義氏を鎌倉の葛西谷に迎え取り、横浜の子安・長津田、江戸の品川・平塚などに料地をあたえ、名実共に養い君とした。すでに外孫に葛西公方足利義氏という大きなコマを得た以上、吉良頼康の存在価値は急速に薄れてしまったらしい。みずから造営に協力した鶴岡八幡宮での拝賀式のさい、頼康は一転、義氏の傘持ち役という屈辱に甘んじた。



天文期の八幡宮(天正指図による模型、鶴岡文庫)
 天文期の八幡宮は、戦国期としては立派すぎるほどの出来栄えだったことが、のちに秀吉が作らせた修営指図によって明らかになっている。前号にのべた上杉謙信の小田原征伐においても鶴岡参詣はおこなわれた。もっとも謙信のばあいは前後に上洛して天皇家や室町将軍家にも管領就任等を念押ししているが、のちには天下人となった秀吉もまた、みずから鶴岡に参拝している。無主の都・鎌倉はなお「なぞの権威」をたもちつづけていたのだ。

 後北条氏は私に鎌倉執権をなのり、また小弓公方をほろぼして古河公方晴氏と一時和解したさい、関東管領に任じられたという1538。新公方義氏もそのさいの縁組で生まれた。だが古河公方とはその後対立したことから謙信はそれを無効とし、主君である山内上杉氏よりその姓と正式な「関東管領」の称号を受けた、と主張した。北条・上杉はやがて葛西公方を追認することで拙速な和睦にはしるが、それが武田側の不信をあおり、こんどは武田方によって、小田原はふたたび侵攻をうける。その武田をほろぼした信長もまた、部将の滝川一益を群馬にのこして「関東管領」に任命し、恭順の姿勢をみせる後北条氏をなおも圧迫しつづけた。

 こうした名乗りは、新儒教の大義名分論につよく影響されている。しかし、どれだけ権威ある称号を唱えたところで、権威とじっさいの権力とは別物。南北朝の争いでは「三種の神器」とか「尊王の忠義」とかいった権威ある【記号】が、京都の朝廷をこっぱみじんに破壊し、南北両統のおおくの上皇・天皇・太子・皇子らを流浪においやった。後醍醐天皇はみずからの息子を次々に死地に送りこみ、子細にみれば「長幼の序」や「父祖の遺命」に従っていたともいいがたい。正義だの大義名分だのという「記号自体には」意味はあっても、なんら「実態」をともなっておらず、たんなる言葉への心酔でしかなかった。謙信や信玄が容易に小田原まで進軍できたのも、ただあとさきも考えず、目先の「正義」にひとびとが容易に従ったから。さからった村や町は問答無用に放火略奪され、品川などでは寺々の霊験仏さえ持ち去られた(北条記)。ただ、離反した侍は直後に後北条氏の報復をうけている。


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