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もちださんの鎌倉リポート No.381(2020年7月25日)



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鷺姫と蒔田御所・3



右が城山。奥は勝国寺
 横浜市南区の蒔田地区は現在大岡川の中流域にあるが、近世に吉田新田が埋め立てられるいぜんは六浦同様、入り海が吉野町のあたりまで入り、沖合いに伸びた砂洲を「横ざまに伸びた浜=横浜」といっていた。大岡川はいま桜木町(ランドマーク‐タワー)附近で海にそそぎ、また蒔田公園がある吉野橋から分流した中村川が元町地区につうじているが、根岸に通じる堀割川は明治の開削で当時はない。山手からつづく丘陵地は本牧郷石河村とよばれ、宝生寺などの古寺がいくつか分布している。宝生寺のあたりを「堀之内」といっていて、ふるく平子氏の時代にはそちら側が町の中心だったのかもしれない。元町はまだひなびた漁村で、宝生寺文書にみえる横浜村薬師堂というのが、「横浜」の地名の初出1442。

 蒔田城の跡には横浜英和学院というミッション系の女学校(現在は小中高の共学に改編)がたち、ほとんど遺構はのこっていないが、大正時代の開発のため、致命的な地形破壊はまぬかれたようだ。舌状台地の先端部を切りとって築城している点は榎下城・茅ヶ崎城など戦国前期の城館と同じ。勝国寺門前からのぼる校門ちかくの礼拝堂のあたりが物見台、さほど高くもないが玉縄城でいう諏訪壇のような、小高い場所になっていたらしい。馬場曲輪とされる「蒔田の森児童公園」の、ほぼ真上にあたる。7月の昼下がり、日ざしもやや強くなるまま、ほとんど人がいないのを確かめて、暑苦しいマスクを手首にはめる。かばんに入れると必ず落とすから。



かつて城跡は清水台とか花畑とか呼ばれていた(GoogleMapより)
 7代吉良頼康の正室、通称崎姫(?- ? 北条氏綱娘)は「蒔田御前」などとよばれ、主に蒔田城に住んだようだ(*氏朝の実母である高源院(山木大方、1586没)とまま混同されるが、高源院は伊豆・小田原で亡夫を弔う寺を建てたりしているから別人らしい)。また8代氏朝の正室・鶴松院(?-1606北条氏康娘)も、おなじく「蒔田殿」とよばれた。

 信玄の小田原攻め1569のさい、一部隊は笠原氏の依る小机城を攻めるとみせかけて素通りし、片倉神大寺を経て蒔田に程近い帷子(*現・保土ヶ谷)にいたった。当時「御台所(鶴松院)」は蒔田にいた。「此の吉良殿は氏康の御妹聟にて」(「北条記」巻4)という記述からすると、妻鶴松院と義母崎姫とを混同しているのかもしれない。蒔田城は台地も低いし、周囲にさほど要害があったようにもみえない。そのうえ吉良氏朝は重臣・関加賀守らと小田原に出陣していたため、手薄となっていた。信玄の分隊に急襲されたらきっと、放火略奪をほしいままにされていただろう。そこで神奈川湊の青木城にいた多米周防守という者が自分の持ち場をすてて蒔田城を守護、また地侍の苅部豊後守がおそらく井土ヶ谷の切り通しあたりで鉄砲をかまえたが、さいわい信玄の部隊はここも素通り・・・。多米はかつて、川中島の合戦に武田方へ援軍として派遣されたこともあったといい、その恩義をたてに、どうにか攻撃を思いとどまらせたのだろうか。

 勝国寺の裏山には墓地があり、頼康の祖父・5代政忠らの五輪塔4基がある(下)。墓地の平場はかつて城の曲輪をかねていたと思われ、のぼり口は急だ。吉良氏の五輪塔には風変わりな梵字やいくつかの文字が彫られている。政忠の供養塔とされるもの(左から3つ目)には「祖師西来」、地輪に「政忠塔」などと刻まれ、うらに戒名と没年日「照岳道旭大居士、文亀二年(*1502)六月十七日」とある。近世まで墓石に故人の実名を刻むことは考えにくいから、すくなくともおもて面ははるか後人の後刻であろうと思われる。世田谷の勝国寺はいまも真言宗だが、この寺は氏朝が世田谷竜凰寺(臨済宗)を曹洞宗勝光院にあらためた時とおなじく、天永琳達が中興している。



崖下に本堂の屋根がみえる
 6代成忠は太田道灌とともに江戸城を護ったこともあり、道灌を慕う詩僧・万里集九とも面識があったとみられる。「梅花無尽蔵」には「吉良閤下(側注・成高、俗に蒔田御所と号す)・・・道灌静勝公一乱の中に使者有り、賛を需む」・「更幽亭(割注・・・吉良閣下の幕藤(ママ)広瀬政盈が亭)」・「文波丈人(*老人)・・・は洛東龍山(*南禅寺)之籍の僧にして、(*応仁の)乱より来(このかた)、関左に寓す。吉良の第(側注・世田谷と云ふ)に在りて、左氏春秋を講ず」などとみえ、詩文をこのみ、世田谷・蒔田の両所に住んだことなどが確かめられる。ただし蒔田近くの宝生寺につたわる禁制等の古文書には、「沙弥道灌」はあっても吉良氏のものはない。

 また7代頼康は謙信来襲のさい、養子氏朝に家督をゆずってその年の暮れに死に、ここに葬られたと伝えている。ただ、どの塔が頼康のものかはさだかでない。頼康の納めた地蔵像というのも失われてしまった。「相州兵乱記」によれば、小田原のスパイが「穢多村」にまぎれこんで謙信の様子をさぐった、という。むだに死者を出すより、籠城すれば兵糧に詰まって敵はかならず引く。・・・じっさいその通りになったのだが、くわしい記録はない。謙信が去った直後、後北条氏は離反した者を処断するなど、失地回復につとめていた。北条氏康は吉良に先んじて家督を子・氏政にゆずり、いわば院政をほしいままにしていたのだが、吉良頼康は家督をゆずって死ぬまでのあいだ、どこでどうしていたか。

 8代氏朝が秀吉・家康軍にやぶれ、そのあと子息頼久が家康に帰参して「蒔田氏」をなのるまでの事情にも、諸説あるようだ。氏朝・頼久は小田原征伐のさい伊豆下田城に着陣。そののち一説に下総生実(小弓)に逃走、徳川方に帰参していったん世田谷の一部を安堵されたのち、改めて千葉の県央部・上総国長柄郡寺崎村などに千石ていどの采地を得て、頼久らは知行確立のため、父ひとりを世田谷に残してしばらくそちらに住んだとする。「蒔田」の名乗りは家康が親類の三河吉良以外に、複数の吉良姓を認めなかったからとされるが、頼久はそれまで母・鶴松院(蒔田殿)のもとでうまれ育ち、たぶんこの名字に深い愛着があったのだろう。


 勝国寺のわきの道をさらに南へ登って行くと台地の絶頂に三殿台遺跡がある。縄文〜古墳時代の複合遺跡であり、資料館や復元住居・無数の住居跡表示なんかもある見学スポットでもあるのだが、見晴らしもよく、遺跡公園の入り口からは(現在の海岸近くにあたる)ランドマーク‐タワーや蒔田城跡が遠望できる(下)。

 近辺の地形をみるため岡村天神のあたりを歩きまわっていると、新一年生だろうか、おさない感じの高校生らが200人ばかり、バス停で長い列をつくっていた。6月はじめの週末には、いつも渋滞の246も驚くほどすいていたし、都内の満員電車でさえ、日中一人置きに座れるほど空っぽだったのに・・・。腕に巻いてたマスクをあわてて着ける。まあ、濃厚感染地域と一律にはできないし、コンビニなどのレジにパーティションを張ったりと、いろんな努力はしているようだけれど、外出制限からいまに至っても、病院やスーパーの入り口できちんと消毒をする人は、まず見かけない。せまい田舎町のスケール観で東京をみてしまうのか、名も知れぬ県のサヨク知事は首都圏の住民を公然と感染源よばわり。感染予防の本質が忘れ去られ、悪意ある報道キャンペーンがひとびとの心を分断、無用な偏見とかんぐりによって経済活動は麻痺寸前。「すべて国が税金で補填しろ」などといって喜ぶ、喜色満面のマスコミ文化人。人々の知恵も意識も一律ではない。だれも【未来をみていない】のかもしれない。

 蒔田城跡の北側に、無量寺というささやかな寺がある。ここは頼朝の庶子・貞暁(1186-1231実朝の庶兄)の創建とつたえる。貞暁は妾腹のまま子として北条政子に忌み嫌われ、出家。かつまた公暁の受法の師でもあったのだが、高野山にこもって鎌倉法印と尊崇され、ついに命を全うした。「将軍としていちどは鎌倉に迎えられたが、夢のお告げを得て辞退。ここに持仏の不動明王をまつり、鎌倉鎮護の寺とした」などという寺伝は江戸後期の「風土記稿」にも見えず、たぶん、うそ。・・・うそでないならきっと、だれかの見た夢だったのだろう。



中央左寄りに学園の建物がみえる
 これまで述べてきたところをまとめると、世田谷吉良氏8代のなごりは次の通り。

【世田谷城跡】(豪徳寺2) 扇谷上杉系統の城とみられ、現存の土塁は後北条時代のなごり。
【勝光院】(桜1) 治家@の創建した竜凰寺(臨済宗)を、頼康Fが八幡宮とともに再興1546。のち氏朝Gが父の菩提寺として改名、曹洞宗にあらためた1573。関加賀守が虚空蔵菩薩を寄進したという。現在は江戸期の蒔田氏以降の墓がのこるのみ。
【八雲東光寺】(目黒区八雲1) 治家@が早世した嫡子祖朝(1365没)のために東岡寺として創建。吉良氏文書の写しを伝え、頼康・氏朝連名の判物(図7・1560)に「東岡寺」。3基の石塔は祖朝・頼貞(1525没? 頼康Fの兄?)・氏朝娘の供養塔などととされる。

【烏山念仏堂】(南烏山2) 頼高Cの菩提寺・泉澤寺の名残という。同寺は頼康Fが再興して川崎市等々力スタジアム近くに移転。その【川崎泉澤寺】(中原区上小田中7)には、頼康による移転を示す数通の判物(古文書)が伝わる。本尊阿弥陀は銅造、また「頼貞妻平氏女」ほか「頼康F」の三子の存在をつたえる胎内銘札1548の写しあり。浄土宗。
【豪徳寺】(豪徳寺2) 世田谷城跡の一部。もと【弘徳院】があり政忠Dが叔母弘徳院のために創建。現在、伝政忠らの墓塔や同由緒碑1799あり。曹洞宗。
【等々力満願寺】(等々力3) 政忠Dの早世した嫡子・経舜の菩提寺という。境外子院に等々力不動尊。



GoogleMapより(ベース‐イメージ)
【世田谷勝国寺】(世田谷4) 政忠Dまたは義高(頼高Cの誤りか)の菩提寺。竜凰寺の別院で世田谷城の鬼門鎮守。崎姫(頼康室・北条氏綱娘)持仏とみられる薬師像・胎内文書1592あり。吉良四天王といわれた関加賀守・大場越後守信久・鎌倉仏師らの修復と云々。近世に新義真言宗として再興。
【蒔田城跡】(横浜市南区蒔田) 横浜英和学院周辺の丘にあったとされ、遺構はほとんどのこっていない。麓の【蒔田勝国寺】は曹洞宗。政忠Dまたは政忠による父・頼高Cの菩提寺。政忠(1502没銘)・頼康Fらの墓とつたえる石塔あり。

【船橋観音堂】(船橋1) 成高Eの菩提寺・浄徳院の名残という。のち世田谷八幡の北方に【常徳院】(宮坂2)として移転したらしい。当の常徳院は室町将軍・足利義尚ゆかりの寺、とされるがおそらく誤伝。
【世田谷八幡宮】(宮坂1) 頼貞(頼康F?)再興の棟梁銘がつたわる。竜凰寺勝光院の鎮守か。
【奥沢城跡】(奥沢7) 吉良の重臣・大平出羽守(常盤姫の父)の城跡。近世に九品仏浄真寺がたち、伝頼康Fの肖像(前号)を伝える。
【駒留八幡】(上馬5) 頼康Fの実子をまつるという。周辺に常盤姫関連の伝承地が散在。
【弦巻実相院】(弦巻3) 氏朝Gが隠棲、のち菩提寺。勝光院の別院。氏朝夫婦の本来の墓石はうしなわれた。曹洞宗。

 このうち大場信久は大庭景親のすえ、のち井伊家の代官屋敷を経営し、世田谷区長にも任じてきた大場さんの先祖。関加賀守はレポ357号にしるした横浜市都筑区勝田の古民家、関さんのご先祖であるらしい。勝田の関加賀守は「小田原役帳」にはみえず後北条氏の直臣ではないから、吉良氏に仕えていた関加賀守満頼と同一とみていいのかもしれない。一説に喜多見江戸氏(秩父平氏)の一党で、武蔵志には「永禄十二年、北見の関加賀守満頼、吉良の下にて帷子に住す」とあるという。



「世田谷区史料第二集」より
 吉良四天王とは諸説あるが、関・大場のほか宇田川杢頭・白井但馬守などとされる。宇田川氏は佐々木氏の流れとされ、ふるくより扇谷上杉に仕えた品川湊の、なかば商人化した豪族の支族らしい。渋谷宇田川町とか浮世絵の歌川派ともゆかりがあるという。

 東光寺・満願寺・九品仏は旧衾村・等々力村、すなわち世田谷→弦巻→から現在の駒沢公園を越えたあたり、自由が丘周辺に位置する。多摩川旧河道のすぐ対岸にあたる川崎泉澤寺は中原街道沿いなので、おなじ街道筋にたつ勝田の関家住宅とも地縁があり、それより新羽新道→小机(幻庵らのお膝元)→神大寺→帷子→井戸ヶ谷を経て、世田谷吉良氏のもうひとつの拠点・【蒔田】にかよったのではないか。つまり途中の休息所にも領地、家臣の拠点があったわけだ。

 船橋観音堂と烏山念仏堂は世田谷城の外堀・烏山川のやや上流にあたり、吉良氏直轄領のひろがりを示唆する。こちらの方角には吉良家が崇拝した【調布深大寺】や、府中高安寺などの軍事的要所がある。また、吉良七ヶ寺として、既述の満願寺・泉澤寺・東岡寺・勝国寺・浄徳院などの他に、大徳寺の名が古文書の写し(左、1560)にみえる。大徳寺の詳細は不明ながら、前号でのべた吉良頼康の別人格・頼貞の法名と一致するという指摘がある。この者の菩提寺であったならば頼康親子がその菩提を弔っていることになり、やはり6代成高と7代頼康のあいだにもう一代、想定できるのかもしれない。史料の裏づけは乏しいが、横浜市営地下鉄センター北駅ちかくにある大棚・慈眼寺が吉良氏大徳寺の後身であるとのいいつたえもあるようだ。


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