トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第384号 


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もちださんの鎌倉リポート No.384(2020年12月11日)



No.383
No.385



玉突場―歌びとをたずねて・11



吉井勇 「歌境心境」1943より(ndl)
 「いのち短し 恋せよ乙女」・・・黒沢明監督の「生きる」に挿入されたゴンドラの唄。いまなお数々の人気アニメに引用されている。もともとは大正時代に上演されたツルゲーネフ原作「その前夜」の劇中歌としてつくられた。新劇の大スター・松井須磨子が演じる貴族の娘が、幸福な生活を約束する求婚者をふりすて、しがない異国の政治活動家とむすばれる。やがて死に瀕した夫とヴェニスに辿りついた場面で、ミュージカルふうにうたったものと思われる。

 小説ではヒロインが亡き夫の遺志をつぎ、異国の革命に身を投じようと決意をするところで大団円となるのだが、芝居では悲恋ばかりを強調した、ぬるい翻案(楠山正雄脚本)になっていたようだ。ただ挿入歌は、トルストイ「復活」の芝居における「カチューシャの歌」の大ヒットにつづいて、歌詞や楽譜が劇場の壁に貼りだされ、またラッパ吹き込みの初期SPレコードでも発売された1915。

 やがて時代は昭和へむかい、最新の蓄音機やラジオが店先におかれ、家になくともしぜんと洋風音楽が街頭に溢れるようになる。ゴンドラの唄は何度もカヴァーされ、本場ミラノ‐スカラ座で収録したものまであったらしい。作詞の吉井勇(1886-1960)は鎌倉そだちの歌人・劇作家で、歌集には友人であり当時大人気の挿絵画家・竹久夢二のイラストなんかがあしらわれ、大正時代の「モボ・モガ」があこがれた【自由恋愛】のイメージに彩られていた。



「祇園歌集」1915・「ゴンドラの唄(楽譜)」表紙
 吉井勇はうまれながらの新華族で、新派劇や小説・随筆なども書いたが、「かにかくに祇園は恋し・・・」など、とりわけ芸者遊びを詠んだ短歌でしられる。自由恋愛といっても、こんにちと同じではない。一般人にとってはいまだ封建制が幅をきかせ、家と家のつきあいが優先されたし、恋愛などというのはむしろ源氏物語的な、金持ちにのみゆるされたゴージャスかつ背徳的な遊興、というイメージがあった。

 逆にいえば「自由恋愛」には上流階級へのあこがれ、という心情も多分にあったのであり、柳原白蓮の駆け落ちや、平塚らいてうがヒモと同棲して「若いツバメ」という流行語をうんだのも、いまからみればまあ滑稽な話だが、とうじの文化人にとっては大事件であり、スキャンダルであるとともに進歩的、勇者的な行動のようにも思われていたらしい。革命的壮挙、といってはいいずぎだろうけれど、小説「その前夜」のヒロイン同様、みずからの意思で人生をきりひらく「新しい女」としてうたわれたのだ。

 だが、考えてみればそれとて「フツーの恋愛」ではないわけで、不慣れな明治人にとっては、たとえ芸者遊びにおけるかりそめの恋であっても、これはそれまでの不真面目な遊興とはちがう、個々の自由意志による、近代的な精神にもとづいた「純愛」「自由恋愛」であると言い張る余地があったのかもしれない。それが単なる幻想であったかどうかは知らないけれど、江戸時代における遊女と客との悲惨な心中ロマンスや、島崎藤村のように姪と姦通し、欲望のおもむくがまま妊娠させて逃走するような乱倫事例にくらべれば、よほど世間に受け入れられる要素はあったのだ。



「鎌倉江の島案内」(長谷・松林堂1914)によせた序文(ndl)
 新華族というのは代々の堂上貴族や大名とはちがって、維新に功のあった士族の家にあたえられた名誉職。もちろん遊んでくらせるほど金を貰えたわけではないらしく、年少時の鎌倉滞在も、材木座の九品寺やその門前の桶屋の二階に仮寓したり、海浜ホテルちかくの松林にあった、貧相な別荘にすんだりしたらしい。となりには明治天皇や西郷の肖像でしられる画家で造幣技師の、キヨソネの別荘があるばかりだったという。小学校は八幡宮のとなりの師範学校へ、驢馬にのってかよった。

 鎌倉と東京を行き来し、世田谷の日本学園や早稲田など、さまざまな学校に入退学を繰り返したのは、体が弱かったのかよほどの成績不良のゆえか、さだかでない。与謝野鉄幹の「明星」に入社後、鷗外監修の文芸誌「スバル」に参加、新劇作家として活躍しはじめるが、短歌への思いもつよく数多くの歌集を出版。しかし隠居した父親の借金をひきうけるなど、没落華族にありがちな窮状におちいり、堂上華族との結婚1921生活もすぐに破綻。角筈(西新宿)にようやく新築した家も売り、現在の大和市西鶴間、当時としては僻地にちかい、わけのわからない場所にひとり、転居するまでにおちぶれる。もちろんそれで終わりではなく、漂白生活はつづいた。

 この額ただ拳銃の銃口を 当つるに小さなところなるべき(自画像「夜の心」1924)

 大正時代の文学環境としては、ゾラやモーパッサンなどの自然主義の影響がつよかった。もちろん自然主義ということがまだよくわからず、性生活を赤裸々に書けばいいとか、スキャンダラスであればあるほど人間の真相を示すのだと心得て、露悪趣味におちいる三文小説も氾濫した。吉井のばあいは文学よりもむしろ、実生活での醜聞にみまわれる。華族の有閑マダムに愛人のダンサーを次々と斡旋した集団不貞事件1933の主犯として、別居中の妻が摘発されてしまう。当時は姦通罪が施行されていたため、華族といえども追及はまぬかれなかった。



GoogleMapより
 吉井と妻とのすれちがいは、たぶんさまざまな理由があったのだろうけれど、余人の知るところではない。のこされた短歌や散文詩的な随筆からは、結婚のはるか以前から祇園なんかを舞台とした遊蕩生活が知られるだけで、そのような世界にとじこもった背景は知る由もないし、現実生活の醜い部分は奇麗さっぱり捨象されている。妻の不貞をテーマにした国木田独歩の「鎌倉夫人」の、続編のようなものも書いているが、現実の女性には不信感があったのかもしれない。

 滑川越すとき君は天の川 白しと云ひてあふぎ見しかな
 悲しげに海辺の墓のかたはらの 撫子を摘みかへりたまひぬ
 友ありき禁衛軍の服を着て 己がもののごとわが君を云ふ

 「自歌自註・恋ぐさ」1926などによれば、女の別荘が材木座にあって、「私」の別荘が長谷にあって、浜辺で密会し、水のすくない滑川の河口をわたり別れるのを、七夕伝説のようにいう。海辺の墓は、むかし海で心中した恋人たちにちがいない、と女がいう。友達の軍人は、「私」と女がいい仲なのを知らず、妻にしたいなどと打ち明けてくる。・・・なんともロマンチックで少女趣味の「おとぎ話」。こうした歌物語りをそのまま事実として理解することはむずかしいし、吉井の小説と随筆はほとんど見分けがつかず、そこに一抹の事実すらも析出することはできない。そもそも長谷に、吉井の別荘なんかなかった。



「鎌倉江の島案内」1914の広告ページ。いまものこる店も多い
 玉を突く人もなきまであらけたる 避暑地の冬もあはれならずや

 明治のおわりころ、吉井が仮寓していた「西洋料理・玉突 快々亭」はいまの長谷のセブンイレブンちかくにあったという。漱石も「玉突きだのアイスクリームだのというハイカラなもの」云々(「こころ」)と書いているから、当時としては知られた最新スポットだったらしい。さすがにビリヤードだけでは飽きられてしまうから、台をかたづけて演芸などの出し物もおこなわれ、大正時代には専ら映画館(鎌倉初)として経営、「チヤツプリン」「ロイド」「目玉の松ちゃん」など、弁士つきの無声映画が上映されたらしい。

 やがてここも大正震災で全焼してしまうのだが、写真をみるかぎりさほど大きな料亭だったようにもみえず、吉井がころがりこんだ「奥の離座敷」といっても、演芸におとずれた女義太夫なんかが楽屋かわりにドヤドヤ押しかけてくるなどした、とか(「わが回想録」)。吉井じしんもすでに坪内逍遥らにみとめられ、新派劇の脚本なんかをさかんに書いていたから、左団次をはじめとする新劇関係者がでいりしたようだ。主人は元役者、女将は元芸者。そうしたつてで居候していたのかもしれない。やがて御霊神社ちかくの貸し家にうつるなど、長居はしなかった。



当時の芸妓は「会いに行けるアイドル」だったようだ1901(神奈川アーカイヴ)
 鎌倉は浄土にかあらむわれのみか 釈宗演も冬ごもりせり
 君を棄て家を棄てむとあさはかに 思ひ定めしわびずまひかな
 たはれをのたはれ事にも倦き果てて 鎌倉浄土恋ふるなりけり
 君恋し思はずわれの洩らしたる 言葉も浪の音に消さるる
 そのむかしともに死なむと誘はれし 相模の海の冬のあけがた
 わが恋のをはりを思ふ鎌倉の 海の藻屑となりぬべきかと
(鎌倉歌「黒髪集」1916)

 こうした短歌は、いわば歌謡曲の歌詞のようなものであって、実生活の「報告」だとかエロじじいの自慢話、「匂わせ」などのように受け取るべきではないのだろう。芸者遊びの醍醐味など、わたしたちの知るところではないのだけれど、芸者の立場からみれば、「金離れのいい客」はもちろん、「しつこくなく、扱いやすい客」のほうがたぶんモテるのだろうから、恋だのなんだのと、夢のようなことばかりをうたって満足している純情おやじ(吉井)は、たしかにモテたのかもしれない。そうだとしても、かれの歌や随筆類はむしろフィクション、現実生活を韜晦するための煙幕であったかのようにみえる。たとえば「京阪艶女伝」1917なんておもわせぶりなタイトルがついていても、ただ評判の芸妓たちを一目見て、その外見のうつくしさを賞美したものでしかなく、女の人生はおろかお座敷でのエピソードすら描かれていない。自分自身を愛せない人間が、現実を直視したり、他人をほんとうに好きになったりはしないものだ。それゆえのさびしさも、かれの歌にはある。

 鎌倉の恋をかたればひと笑ふ さばかり恋はをかしきものか
 わが家に君来ずなれば冬がまへ はやくもするや鎌倉の里
(続鎌倉歌「同」)



左は同時上演された「サロメ」での須磨子
 カチューシャの唄が、原作の翻訳などもてがけた専門家の作詞だとすれば、「ゴンドラの唄」は、もともと吉井の愛読書で、ヴェニスをうたったアンデルセンの文章「即興詩人」(森鷗外・訳)の一節を参考とした、やっつけ仕事だったという見方もあるらしい。吉井じしん、いちど「鎌倉劇場」(?)の楽屋で垣間見たスター女優・松井須磨子に再会したい好奇心から、知人の脚本家にたのまれるがままひきうけた、といっている。しかし舞台そのものにはひどく幻滅した、とも。須磨子(1886-1919、自殺)の女優としての限界・あるいは劣化に、気付いてしまった・・・。

 吉井の短歌にはさほどむずかしい表現はないし、語彙もかぎられている。引用した箇所だけでも、「鎌倉」という語がなんどもくりかえされる。安直でありふれている、逆にいえばそれは誰もが受け入れ、理解できるだけの普遍性がある、というべきなのかも。中世の和歌は「本歌取り」などといって、いいふるされた名歌・歌枕を暗記し、それを適当に組み合わせて、確実に合格点をとりにゆく傾向があった。実体験とは無関係に、あらかじめ「逢わぬ恋」などと場面指定された、実体のないプラクティス(題詠)が重視されたし、当たり外れのある独自の創作よりもむしろ、歌会などの儀式で恥をかかないことが最優先されたためだ。吉井の「恋」も、似たものではなかったか。

 歌謡曲が大衆性をかくとくする秘訣も、そのあたりにあるのかもしれない。文学性に拘束された近代の短歌は、むしろこむずかしくなって、専門家以外だれも読まなくなっていった。要はツイッターなどの簡潔な言葉ですら、かえって真意を誤解されることがあるのと、同じりくつ。吉井はたしかに、大家といえるほどの文学者ではなかったかも知れないが、すくなくとも大衆に寄り添おうとはしたらしい。時局によっては、「筆も剣(つるぎ)となすよしもがな」などと聖戦を賛美したが、それは他の文学者もおなじだ。戦後は、京都の春の風物詩「都踊り」の、毎年かわる出し物の歌詞なんかも、長年手がけた。


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