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もちださんの鎌倉リポート No.385(2020年12月15日)



No.384
No.386



武蔵国鶴見寺尾郷絵図・3



絵図の中央付近(県立金沢文庫蔵)
 中世、建長寺正統院の荘園図としてえがかれた「武蔵国鶴見寺尾郷絵図」1334には、中央の「寺」のほかいくつかの寺社が描かれている(レポ264・265参照)。現在「寺」の位置には、明治末年に能登で全焼した曹洞宗大本山・総持寺が移転1907してきて、鶴見のランドマークになっており、昔のスター・石原裕次郎さんのお墓があることでもしられる。また、絵図の右(北)端、末吉郷の丘にえがかれた「正福寺・阿弥陀堂」というのは現在の末吉真福寺。その他、いくつかの地点で現在地との比定が行われている。

 「寺」のちかくに細字でえがかれた「小池堂」は現在、子生(こいけ)山東福寺とよばれる真言寺院。ここは旧境内地が大正時代に「花月園」という広大な遊園地になり、戦後は競輪場、いまは土地再開発がすすんでいる。いずれにせよ「曹洞宗大本山」だの「競輪場」がつくれるだけの境内地があった、ということは前身の古寺がけして小さくなかったことを物語る。



総持寺三松閣と三門。成願寺跡は中央奥の木立の奥(写真上段)
 「鶴見寺尾郷絵図」は、東寺尾に現存する【松蔭寺】という寺に伝わった。松蔭寺は枢翁妙環(1273-1354)を開山とする、建長寺正統院の所縁寺院。おそらく中央に描かれた「寺」の後身と思われるが、入り組んだ丘陵地にある現・松蔭寺の該当地は「絵図」に描かれた領域にはなく、西方面(絵図では上)にやや離れた場所にあたる。移転の事情は不明ながら、金沢貞将がうち負けた元弘の変1333・あるいは佐竹義直が討死した中先代の乱1335における【鶴見合戦】で焼失するなどして疎開したまま、もとの地には戻れなかったのかもしれない。

 時を戻そう。総持寺が現在の場所にくる直前、「寺」の位置には成願寺という曹洞宗の小寺院があるのみだった。「風土記稿」には、まず小高いところに慈覚大師円仁創建という【薬師堂】があって、堂内に壊れた山門の仁王などを収めており、近世にその別当坊として、参道中腹に建てられたのが成願寺であったという。成願寺はいま駅寄りの裏参道口に移転、ガラス張りのモダンな山門には素朴な仁王像も鎮座している(写真下段)。みためは新しいけれど、薬師堂時代の像をきれいに修復したものかもしれない。薬師堂を併設した本堂の柱には、無門関の偈が掲げてあった。「大道に門無くして千差なる路有り、此の門を透得せば乾坤に独歩せん」。

 成願寺の旧在地は、総持寺総門をはいって三門手前にある「境内図の大看板」の後ろから、コンクリ造りの巨大講堂「三松閣」の右脇を通り裏参道に抜ける小径をたどると、谷筋を越えて木立の残るちいさな平場に、成願寺本堂跡の碑がたっている。三門と三松閣のあいだにある溝池は「江戸名所図会」にも明治の古地図にもみえる(下図)から、旧成願寺の門前池だったのだろう。門前池は円覚寺など、中世の宋風の禅寺に特徴的にみられるものだ。図会にはさらに登って、いまの伽藍中心部にむかって仁王門・龍燈松・薬師堂などが描かれているが、その痕跡はのこっていない。



「江戸名所図会」右上・「明治39年実測図」右下
 成願寺の名は戦国時代、鶴見寺尾城を支配した諏訪氏の菩提寺、曹洞宗建功寺を開いた同じ和尚が、薬師堂の荒廃をなげいて別当寺を置いた1575のが始まりで、寺号はもとより曹洞宗寺院となった経緯も、天正以前には遡れない。その諏訪氏も同年に没落してしまい、記録にとぼしいのだ。

 鎌倉時代には、将軍頼経が安達義景の「武蔵国鶴見別庄」に滞在1241した記録があり、ふるくより新田開発が企てられたと伝えている。安達氏の所領がのちに御内人の諏訪氏につたわり、それが生き残って鶴見寺尾城主「諏訪氏」になったということも、想像できる。翌1335年には中先代の乱がおこり、乱を主謀した諏訪一族はいったん没落。寺尾城主「諏訪氏」は小田原北条氏の部将として再興し、とりわけ騎馬にすぐれていたとか。房総の里見氏との合戦にも活躍したとみられるのだが、その没落後、敵方であった里見氏の末裔がなぜか寺尾に移り住んで、民衆のために即身成仏したとの伝承もある(レポ264・265、本稿1・2参照)。この里見義高(?-1650)は一説に本名を「小笠原蔵人」といっていて、そうすると絵図にみえる「寺尾地頭阿波国守護小笠原蔵人太郎入道」との関係も疑われるが、時代が離れすぎているため、なんともいえない。

 そもそも薬師や仁王は禅宗所依の仏像ではない。だがたとえば竺仙梵僊の【三浦無量寺】1338も、禅寺となったのはごく一時期であり、現在は三浦七阿弥陀のひとつ、和田義盛の菩提所・または鎌倉無量寺の後身などとされ、浄土寺院となっている。鎌倉の建長寺も、心平寺などの古寺をとりこんで千躰地蔵をまつった。したがって、平安時代の円仁創建?とつたえる薬師堂が、かならずしも絵図の「寺」の遺構と無関係だ、とはいえないだろう。


 「小池堂」として描かれた子生山東福寺も、「風土記稿」には観音堂と記され、東福寺というのは別当坊(庫裏・客殿・護摩堂)の号としている。じっさいこの辺にはかつて池が多くあり、「子生け」という語呂合わせから本尊の如意輪観音は「子育観音」としての信仰がさかんだった。近世までは乳幼児死亡率が非常に高かったためだ。もとは生麦村にあり、勅願により現在の寺号に改められる前は、子安山植本院と称したとの伝えもあるが、定かではない。「江戸名所図会」の時点では観音堂よりも低い位置に庫裏がえがかれているので、たぶんそれが生麦村の領域にかかっていたとか、東海道沿いの「子安」の地名と混同され、「子安村の子安観音」とも呼ばれていた(江戸名所図会など)ことを示すのかもしれない。

 「風土記稿」によれば、東福寺は鶴見村の南端に属している。絵図に「子ノ神」とあるのは、位置的に朝陽山八幡宮にあたり、こちらは生麦郷の北端にあたっていた。絵図に赤線で示される荘園時代の境界「本堺堀」が、近世までは村堺としてきちんと引き継がれていたことがわかる。ちなみに境外南西にあたる「子安郷」のほうは、おそらく子安一宮明神に由来する別個の地名。

 東福寺(新義真言宗)はかつて神奈川金蔵院の末寺とされ、ともに醍醐寺三宝院の勝覚僧正(1057-1129)が開いたことになっている。が、これは密教法流の開祖の名であるから、むやみやたらに「空海開山」というのと同様、具体的にはほとんど何も伝えがないのと同じだ。寺伝(および和賛)では、霊夢を得て僧正の流した観音が生麦の浦に流れ着き、稲毛重成が子宝をさずかった。噂にきいた堀川天皇がここにいのって鳥羽天皇が生まれ、勅願寺として繁昌した云々・・・と、ほとんど時代観がめちゃくちゃ。堀川天皇お手植えとつたえる玉楠なんかもあったとか。ただし元禄の鐘銘には「堀川天皇」以下の記述はなく、勅書の写しと称する文書もあやしげなものだ。また明治の火災でうしなわれた什物には、「小池堂」という額があったという。



成願寺(上)・東福寺(下)ふきんの現況。GoogleMapより
 戦前には京急「花月園前」を出てすぐに遊園地入口のアーチがあり、東福寺は山門からほとんど遊園地に取り込まれた形になっていたようだ(ただし入場料ゲート外)。園内には大すべり台やプール(ボート池)、カルーセル(回転木馬)のような遊具から動物園・スケート場・映画館・少女歌劇場、さらには料亭・浴場・ダンスホール・貸し別荘などもあった。園池に大入弁天堂などが整備されたり、世界一の巨大観音像が計画されたのも、ここが寺の旧境内だったかららしい。戦後まもなく閉鎖されたため、覚えている人はすくないが、80すぎのおばあさんの話では、せっかく遠足で来たのに、並んでいる間に集合時間が来て観覧車にのれなかった、その悔しい思い出以外はみんなわすれてしまった(笑)、とか。

 いまの「花月総持寺駅(改称)」の西側はすぐ丘陵で、かつてはかなりの見晴らしがあったはずで、踏切をわたりコンビニのひとつ先の角をのぼると寺につく。子生坂が分岐する手前の石碑溜まり(旧山門所在地)あたりにも、かつては溝や小池があったといい、門前墓地の入り口には正塚の婆の祠がある。「観音の甍見やりつ花の雲」という芭蕉の句碑は、十方庵の遊歴雑記にも図入りで載せてある。

 大師堂の奥から見わたす谷筋、また向かいの小高い尾根筋にも、遊園地はひろがっていた。競輪場時代をへて、現在、大規模造成中。何台もの重機が赤土のうえにうごめいていたから、数年後にはおおかたのニュータウンのように、山を崩して谷を埋め、地形から根こそぎ変ってしまうのだろう。建武の「絵図」には尾根つづきに開山塔という文字もあるが、はたしてどの寺の、だれを祀ったものなのか。「寺」の右(北)方には「祖師堂」の文字もある。弁天池があったあたりや競輪場本体があった尾根の上のほうは公園になるらしいが、はたしてどんなものか。




正統院は非公開。寺宝は高峰像など
 「寺」の本所とかんがえられる建長寺正統院(庵)は、仏国禅師こと高峰顕日(1241-1316)の塔所。後醍醐天皇の意向をうけ、弟子の夢窓国師(1275-1351)が正統庵を浄智寺から建長寺に移したことは、いぜん述べた。絵図が作成された建武元年1334五月十二日の時点で、正統庵がいずれにあったか未詳ながら、領地からの収入がふだん以上に求められていたのは、まちがいない。移転には、京都にいってしまった夢窓(60)にかわり、建長寺にのこった枢翁妙環(62)がじっさいに従事していたものと思われる。

 後嵯峨天皇の皇子として生まれた高峰は、京鎌倉の五山を歴任したものの、おもに那須・雲巌寺を開いて隠れすんだ。枢翁はその那須における弟子ながら、建長寺に出世。いま境内奥にむかう道の角に正統院があってその東側、回春院への曲がり角あたりに住房「雲外庵」をひらき、大綱帰整ら多くの高僧をそだてた。雲外庵は明治まで存続したらしいがいまはなく、枢翁の墓石は松蔭寺にあるだけだ。絵図の裏書には「正統菴領鶴■■■■■図 建武元 五 十二」とあり、たとえ「寺」が枢翁開山で松蔭寺の前身であるにしても、絵図作成当時1334においては独立した寺というより、正統庵の領地経営をはかるうえでの出先機関、いわば現地事務所(政所)として運営していたのだろう。

 絵図が松蔭寺につたわったことは、「風土記稿」に挿絵入りで記述されているからたしかであるにせよ、鶴見郷はあくまで正統庵領なのであって、松蔭寺や雲外庵の所領ではなかった。絵図は一般に「武蔵国鶴見寺尾郷絵図」などと通称されているが、絵図じたいの裏書は上述のように注記しているにすぎず、鶴見郷はともかく、現・松蔭寺のある寺尾郷についてはほとんど図示しているとはいいがたい。ただ寺尾郷の歴史も絵図の伝来には影をおとしているはずで、そもそも絵図1334の荘園が下地中分の危機に瀕したのも、幕府滅亡1333にともなう「寺」の衰退・地頭の改補により、領主とのあいだにあった得分のバランスが崩れたためだろう。やがて足利公方府が衰退し、小田原北条氏についた寺尾城主諏訪一族の勢力が拡大、ふたたび鶴見郷に伸張した時点で、古證文としてこの絵図がもちだされたのかもしれない。

 しかし「寺」の跡地に建てられたのは、正統庵とは無関係な曹洞系寺院だった。・・・明治になっていまの総持寺が移転してきたのも、成願寺が土地を献納したからであって、曹洞宗としてみれば都近くに本山をもつ夢がかなったわけだ。


 さて、京急・花月総持寺駅周辺のみどころといえば、駅舎側の出口から大通りにでてすぐにある、JR鶴見線・国道駅。工場むけ路線ということで、一般の利用者が少なく「都会のローカル線」とよばれる鶴見線には、無人駅が多い。この駅は昭和初期1930に、ガード下をコンコースとして店舗をならべ、長いアーケード街になるよう設計された「モダンな駅」だったものが、いまでは昼なお暗い「廃墟感ただようレトロ‐スポット」として、静かな人気をあつめている。
 
 アーケード街は「臨港デパート」とよばれ、たぶん当初は八百屋だの本屋だのを取り揃えていたのだろうが、いつしか居酒屋や船宿といった場末風の店ばかりになり、やがてそれらも看板を残したままみな畳んで、さいごの一軒だった赤ちょうちんも、コロナ下でどうなったものか。・・・くすんだ外壁には米軍機が市民虐殺をおこなったさいの機銃掃射の痕がのこされているから、かつては上空からもわかるくらい人が溢れていたのだろう。屋上のプラット‐フォームには、当時としてはめずらしいアーチ屋根がかかっている。

 昭和初期の建築物には、白金の旧浅香宮邸1933に通じるような、アールデコ調のコンクリート建築がおおかった。あたたかな色味をもつ白熱灯の普及にあわせ、従来の装飾を抑えて白亜の外観を強調したものだったようだ。しかし近年、そのほとんどが老朽化のため取り壊されてきた。たとえばピルゼンという老舗ビヤホールがあった銀座の旧交詢社ビル1929。このまえ石田千(1968-)というひとの本をめくってたら、思いがけずその店のことがでてきた。検索すると、なつかしむ声は意外と多く、だれも気付いたときには、もうなくなってたのだとか。


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