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もちださんの鎌倉リポート No.386(2020年12月21日)



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頂相について



おでこがきゅんです(図録より)
 県立歴史博物館で先月までやっていた「相模川流域のみほとけ」という特別展をみた。蘭渓の高弟・葦航道然の頂相をみるためだ。葦航の肖像は他になく、しかもこれが円覚寺につたわる「大休正念像頭部」(左)ににているという説もある。目じりに太くたれさがる眉、下膨れで繭のようにくびれた輪郭、蝶形の耳。そしてなんといっても、おでこと頭の境目が、稜をなして角ばっている点。よこから見ると額の生え際の尖りぐあいは尋常でなく、ハンチングのようなものをかぶっているかのよう。五分刈りが伸びて、前髪が張り出した表現? あるいは実物の僧帽のようなものを着せるばあいに、布地の据わりがいいように、彫刻上の工夫であえて尖らせたのだろうか。

 鎌倉におけるの所縁寺院はみな亡んでしまって、蘭渓の四神足のひとりとされながら、葦航の伝記は簡単にしか伝わっていない。葦航とは達磨が葦の葉の舟にのって去った、という仙人伝説を号にしたものだから、本人はもっと痩せてたのかも。

 これは厚木市依智地区にさかえた相模武士「本間氏」の氏寺・建徳寺につたわった。本間氏は佐渡へながされる日蓮に帰依したとされるが、現在日蓮寺院「星下り妙純寺」になっているぶぶんは舘址だから、舘が存続しているあいだは北隣の建徳寺・金田神社が氏神氏寺として機能していたはず。すなわち本間氏は禅を信仰し、日蓮が嫌う蘭渓の弟子・葦航を開山に請じていたようなのだ。



こちらは金色の瞳
 師の蘭渓道隆の像は大船・常楽寺本堂の右陣に、普段はおかれているもの(右)。禅寺の開山堂は塔頭のなかにあってお墓を兼ねていることが多いが、仏殿にも祖師堂を造りつけて宗祖達磨や開山和尚の像を併せまつった。だから建長寺とか円覚寺などの大寺院には、蘭渓や無学の像が複数ある。寺によって、等身・子供大から五月人形のようなものまで、さまざまだ。子供大なのは遠近法を利用して像を遠くにみせ、小さな堂を奥行きのあるようにみせる工夫だろうか。

 蘭渓像の特徴はなんといっても金色の眸。展覧会ではペンライトが禁止というので、ちょっとよく分からなかったのだが、建長寺のHPにいい写真があった(左)。蘭渓像については京都の建仁寺にもあり、生前に作られたとみられる古像の頭部断片も、その胎内におさめられていた。そちらは頭のかたちがやや角ばって、頭頂はこんなに長く尖ってない。頭頂がみじかいほうが、生前の画幅にはちかいようだ。祖師というのは門徒にとっては神だから、その威厳をあらわすために多少のデフォルメはくわわるはずだが、常楽寺のはちょっと江本明さんふうな好々爺に寄りすぎている。

 日本人が中国人をイメージするとき、人気まんがの「ラーメンマン」などのように、独特の異形にあらわすのは常のこと。また中国人じしんも、昨今は独自のアプリをつかって「チャイボーグ」なんていわれる画像修正をおこなっている。印象というものは本人の希望とか、規制や押し付けで変えられるものではない。こうした像を中国人がみたら、逆に「日本人の顔」だと思うかもしれない。



眸の大きさから逆算すれば、からだは相当大柄
 展覧会には、日本でつくられた中峰明本の大柄な彫像(1353。山梨・栖雲寺)もあったが、目だけが布袋のようにわらっているユニークなもの。入元し中峰に直接まなんだ同寺の開山・業海本浄(?-1352)が、遺言でつくらせたものとみられる。ただし生前に現地・元で描かれた中峰の画像は腹をだし、髪が伸び放題でさらに異形。元ではノンシャラン(nonchalant無頓着)なほうが仙人みたいでかっこいい、そんな美学があったのかも。

 栖雲寺のHPにあった写真(右)と、国宝の画幅(左)とをくらべてみると、髪型はともかく面影はそんなにちがっていない。彫刻はちょっとした角度・光の当り具合で、印象は変わるのかもしれない。実物をみれば一目瞭然のものでも、写真にはけして映らないこともある。たとえば法隆寺の通称「百済観音」など、たいていの写真集では彩色の剥落が目に付いて、立体的な造形がすこしも頭にはいってこない。その実物にしても、最近は反射を抑えた特殊ガラスで「よくみえるようになった」らしいが、まだまだ、間近に拝めないのはおなじだ。

 色即是空、空即是色といわれるように、ものの実体は概念だけじゃないのだ。実在感を透徹しないかぎり、その思想なり業績なりが、おとぎ話の主人公同様、歴史からきりはなされた「つくり話のように」みえてしまう。中峰(1263-1323)は元代に実在した杭州・天目山の僧で、「幻住庵」と名づけた庵を各地につくり遊歴したとされる。古先・遠渓・復庵・無隠など数多くの日本僧がまなび、「笹の葉書き」といわれるクセ字が特徴の墨蹟も多く残されているから、晩年はずっと天目山にいたらしい。


 左は以前撮った常設展のほうのレプリカ像で、実物(右)ではないのだが、照明の当り具合で、よく知られた瑞泉寺の夢窓国師像の表情も、だいぶかわってくる。夢窓像は沈思的で、なかなか出来がいいように思われるのだが、見る角度によってはどこか卑屈な、上目遣いの表情に見えなくもない。よこにいた初老のおじさんは、「名前はきいたことあるけど、なんだかボンクラ坊主みたいだな」といっていた。たしかに、いわれてみれば夜の河原で「ひとりキャンプ」でもやっていそうな、ネガティブ和尚にみえなくもない・・・。

 素人の印象というのは、案外正しいこともある。たとえば野球のワールドカップで、「デブはホームラン」といったら毎回ほんとうに打たれたし、ラグビーのちび(南アフリカのデクラーク)が活躍するのも、国歌の「歌いぶり」の段階で予測したらその通りになった。たぶん何も知らない者のほうが、玄人の目にはみえないものがみえるのだろう。うまく言えるかどうかは別として、王様の耳とか、透き通った服みたいなものが。

 夢窓は晩年、皇室と室町将軍家に仕え、宗教界を席巻した。ただ、権力に飢えたギトギトの和尚だったわけではない。権力にいいように利用されても、純粋な学問の世界を守ることをいい訳にして、強くはなにも言えなかった、小心者という一面もあったのかもしれない。鎌倉時代には北条高時の招請からにげまわってもいた。逃避先の津久井光明寺(夢窓開山)につたわる画幅では、とりわけ線のほそい感じを強調している。七回忌につくられたべつ彫像(1357山梨・古長禅寺)もあったが、それはセンシティブな瑞泉寺像とは似ても似つかぬものだった。



手にもっているのは「持蓮華」。いまの上人も手にしている
 こちらは遊行二世・他阿真教(1237-1319)の寿像で、当年(82)。ビートたけしさんのように、顔の半分がやや麻痺したようになっているのを、巧みに表現した像としてしられる。代々の上人が遊行後に退居する本山は、はじめ相模原市・原当麻の無量光寺にあり、真教が開いたとされる。時衆の教団化に大きく寄与したと思われるが、やがてそこが北条高時の介入で分裂。あらたに藤沢の清浄光寺が建てられた。藤沢では勅願寺のお墨付きをくれた後醍醐天皇に感謝、「あの有名な画像」をお祀りしている、というわけ。

 当麻でも独自に遊行はつづけたらしく、伝一遍・真教墓以下、ふるい印塔だけはいまものこっている。佐渡へゆく日蓮がなぜ依智に回ったかはよくわからないが、相模川の水上交通や宿(しゅく)とよばれる集落の分布にかかわりがあると思われ、対岸の当麻にも渡しと宿があった。寺の地は一遍が択んだとされ、意外と交通の要衝だったのかもしれない。何百年まえのこんな爺さんと思いをおなじくするには、今はすくなくとも徒歩で現地をめぐり、山や川などの変わらぬ距離や高低差を足の裏で感じるしかない。

 この像は文保2年(1318)作、小田原・蓮台寺に伝わった。蓮台寺は真教の開山というのだが、現住職は「葬儀料など檀家の負担を軽くする活動」に専念するかわりに、観光寺院であることを強く拒否し、像を博物館に委託したのだという。ラフカディオ‐ハーンは博物館行きを「神々の終焉」と評したけれど、墓地の改修・販売に血道をあげる他の葬式寺院でも、貴重な仏像を死蔵したりせず、こうした形で公開したほうがいいと思う。歴史にせよ仏教思想(教義)にせよ、「固く鎖された本堂」からはなにも獲るところがない。墓地販売のチラシよりもむしろ、学者やボランティア‐ガイドの「法話」によって、はじめてその寺の存在意義に気付かされるひとも多いはずだ。


 師匠・一遍(1239-1289)は51歳で死んだのだから、「さまぁ〜ず」よりは若いはずで、大方の銅像は「おじいちゃん」に作りすぎている、とおもう。これは当麻に伝わった像のレプリカなのだが、「一遍聖絵」にみえる若々しい姿にも通じていて、かなり出来がいいんじゃないかと思う。一遍は河野氏の出であるが、これはたしかに、武士の顔つきだ。怖いくらいの「詰め寄り顔」。古像には怪人みたいな像もあるが、これがいちばん人間らしい。

 高僧の像は奈良時代から存在した。ただ、ほんとうの意味で故人を写生しようと努めたのは、禅宗が最初ではなかろうか。禅宗では、唐土の六祖慧能がミイラ(即身仏)になって残っているから、頂相彫刻とはミイラの代替物であったのかもしれない。禅宗の開山堂内にある頂相彫刻は、墓の真上にたてられることが多かった。仏教思想では成仏した人の遺骨は仏と同一視して「舎利」とよぶ。一休の像は自身の鬚や髪を植えている。中には肖像や位牌を遺すことを禁じた和尚もいて、その場合、遺灰は松の木の下にうめたり、川に流したりさせたという。「五彩に虚空を画がくも、空に何か形容有らん。虚空は乃ち万象、万象乃ち虚空」。

 出来がいいものは、他宗にはけして多くはない。運慶の傑作「無著・世親像」とか、有名な「空也上人像」などにしても、像主と同時代の作ではないから、彫刻としてどんなに優れていても写生ではないし、無著・世親は元来インド人だから、まず似ているはずもなく、べつにモデルとなった人物がいたのだろう。日蓮宗では本尊が「日蓮大菩薩」だし、鍋かぶり日親にいたっては、生前から抜けた歯をおさめる容器として、ちいさな寿像を刻ませたりもしている。しかしおおかたの日蓮像は、その顔つきもまちまちで、「変り羽子板」レベルの人形感が強い。すなわちかれらは桃太郎のたぐいに属する人格でしか、伝わってはいないのだ。



「華鯨」とは鐘のこと。小ぶりで半鐘にちかい
 県立博物館はかつて一律撮影禁止だったのだけれど、最近は「特別展」以外は緩和されてきたようだ。ちなみに、鎌倉関係では他にも円覚寺舎利殿の実物大模型とか、浄光明寺の土紋仏などのレプリカ、文保元年「佐介右馬允」石塔、それから本覚寺鐘の実物もある。銘文は日蓮宗徒が奪ってきたという、この鐘の元の所有者を示す。「上総州菅生庄木佐良津八幡宮御宝前」「華鯨。 大勧進前浄妙三山祖教叟。大檀那尼秀永。」「鋳匠末盛。 応永十七年十一月八日。」「■■■■■山■■■常住物。」(8字抹消)

 ただ日蓮宗徒は武勇伝を「盛る」傾向がある。たとえば新井妙法が称名寺の仁王を奪い取り、身延に担いで運んだ話にしても、称名寺には鎌倉時代の院派の仁王がちゃんといて、せいぜい要らなくなった古いやつをゆずってもらった、というのが真相ではあるまいか。銘文から削りとられた元の寺号は「泉蔵寺」と伝えているが傍証はなく、今の木更津(八劔)八幡ちかくにある成就寺・光明寺などは、すでに日蓮宗寺院になっており、里見一族が住持したことなどがわかっている。千葉には近世に日蓮寺院になった寺がすくなくない。たとえば東金市願成寺はもともと北条氏の願成就院別院で、忍性の弟子・栄真や、寿福寺の雲叟慧海が住持するなど、時局によって宗派も変り、熱狂的な日蓮宗徒だった戦国大名が、最終的にいまの宗派へ改めたとか。鐘の流通も中世にはふつうにあったことで、義堂周信は「万銭」をもって報恩寺の鐘を工面した。川崎にあった鐘が木更津ちかくの袖ヶ浦市坂戸神社に運ばれていた話は、レポ364でものべた。

 本覚寺の鐘楼には、貞享五年1688にはすでに新鋳した別の鐘が架けられていたため、この鐘の伝来はさだかではない。一説に開山の一乗坊日出(1381-1459)が法論で取ってきたともいうのだが、「新編鎌倉志」「風土記稿」「攬勝考」など江戸期の文献には、その所在すら触れられていない。鐘をかついだ石渡新造左衛門の碑、というのが鐘楼の傍らに建っているが、これも日蓮猿島伝説にでてくる石渡(石堂)左衛門尉を演繹したもののように思われ、横須賀にいまものこる同名の旧家が、数々の伝説の出所なのかもしれない。日出には自作の「永享問答記」があって、天台の僧・心海と法論1435し、公方持氏による法華弾圧をまねいたことは、日親も記しているから事実だろう。「荒居の閻魔堂」にあつめられ、遠島などの厳罰がくだるところを、一転赦免となった。寺伝ではのちに持氏が心服し、ついに本覚寺の地をかちとったと主張しているが、そこは未詳。


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