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もちださんの鎌倉リポート No.388(2021年1月21日)



No.387
No.389



中世を生きた和尚たち・海外留学



虎関師錬(東福寺海蔵院・蔵)
 野茂投手やサッカー中田選手が始めて海外リーグに挑戦したとき、「絶対に通用しない」「化けの皮がはがれる」「ほえづらをかく」などと、根拠もなく呪いの言葉を浴びせかけたのは、日本のマスコミだった。大正時代、ウィーンに留学した女流ピアニストが、悲観のあまり自殺したのも、「現地の大家に否定された」「井の中の蛙」「あちらでも着物を着て物笑いになっていた」等、日本での悪意にみちた中傷報道によるものだった。異文化に、そうかんたんに受け入れられるわけがない。仮に失敗したってあたりまえ。成功しなければお国の恥だとか、非国民とか叫ぶマスコミのほうがよほど田舎くさいし、みぐるしい。

 フィンガーボウルの水をまちがってのんじゃった人の話は、漱石が百年以上も前に書いているが、いまだに我が事のように恐縮している。ごはんはフォークの背に載せて食べましょう、なんてデタラメ番組を得意顔で放送していたのは、どこの誰。「これから世界にのりだしてゆく日本」だなんて、いまどき得意げに教訓するばか新聞もあるが、世界になんかすでに古代・中世からとっくにのりだしていた。「・・・推古より今に至る七百歳、学者の西遊を事とするや千百を以て数ふ」(虎関「元亨釈書」)。



「碧巌録」は古今の禅僧の公案集。鎌倉後期に元で復刊されるや、日本でも大ブームになった
 虎関師錬(1278-1346)はかつて、「今時、此方の庸流(*凡庸な日本僧)、奔波して宋に入る。是れ偏へに国の恥を遣はすなり。我れ其の南遊にて、彼をして国に人有りと知らしめん」などと壮語した(本朝高僧伝)。このごろは猫も杓子も留学する、それは国の恥だ。俺が行って、かの地の僧達に日本人はすごい、と知らしめてやる。・・・たしかに虎関の学識は高く評価されていたようだ。しかし結局、母に泣かれて渡海を断念してしまう。これは母への孝養だろうか。実際は渡海が怖かったか。もし現地で評価されなかったらどうしよう、そんな怯えはなかったのか。口ばっかりのヘタレだ、と笑う人もいただろう。

 ここでも「母」がでてくるが、偉人には生母がお寺に籠って【霊夢】を得て生まれる、という話がつきもの。いわゆる「申し子」で、日本の庶民向け寺院が床敷き畳敷きになるのは、そこに徹夜で参籠し、明け方うとうとして「霊夢を授かる」ため。鎌倉出身の大拙祖能(1313-1377)は長谷寺に祈って生まれたという。土佐生まれの義堂と絶海は、よさこい節「坊さんかんざし買うをみた」で知られる五台山だ。

 虎関の母は、勉強好きで病弱な息子を慮って本を隠したりしたが、そんな大事な息子をなぜ、幼いうちに寺にいれたのか。当時は子供が三歳になると、ためしにその前世をきいてみる風習もあったようだ。蔵山順空は「円通大師(*高名な渡海僧・寂昭法師)」と答えたという。円爾(弁円)は入宋し、東福寺の開山に大出世したのち、静岡の老母に再会して「羅綺珍服等」を贈った。息子の出世は、かならずしも名誉だけではなかったのだろう。儒学の浸透した唐土では、無学祖元のように出家開悟ののちも故郷に帰り、老母の最期を看取るなど、孝養をつくした者もいたようだ。母へのこだわりはアニメ「一休さん」のみならず、華厳宗の明恵上人など、中世の僧には数多くみられ、俗世への執着というよりは忠孝にもとづく人間性のメルクマール(指標)とされていたのかもしれない。曹洞宗の徹通義介は留学後、舶来の新知識に反発する門徒に追われるかたちで永平寺を退任、「養母堂」を造り、ながらく母の介護にすごした。



雪村友梅像(兵庫・宝林寺円心館HPより)
 雪村友梅(1290-1347)は建長寺で渡来僧・一山一寧に学んで元に留学。元叟行端ら、現地の多くの名僧に評価され、叔平隆公のもとで要職についた。ところがスパイ名目で逮捕され、師の叔平和尚は連座して獄死。友梅も危うく斬首されるところ、「臨剣の偈」を唱えて流罪に宥められる。「乾坤に孤筇を卓つる地(ところ)無ければ、且(しばら)く喜べ人空にして法も亦た空なることを。珍重せよ大元の三尺の剣、電光影裏に春風を斬る」。

 意味は「この世界にはもう説法する場所もないらしい。いい機会だから知るがいい、人が空虚ならあらゆる法もまた空虚であることを。さあお別れだ、蒙古の手先よ! なにも気にする事はない、ただ一瞬、雷が春の風を斬るだけのことだ!」。これは古く宝覚禅師が獄死の難を避けたという詩偈にもとづき、無学祖元が唱えたという伝説「偈」を、そのまま、とっさにくちばしったもの。ひるんだ獄吏に、友梅はさらに自作の五偈を畳みかけ、ついに元の朝廷にまで報告がおよんで減刑にいたったという。

 配流先で友梅の知識や詩才、そしてこの武勇伝が評判をよび、学者や役人が多数慰問におとずれるようになる。のちの留学僧(中巌)も現地の師僧から直接その噂を聞いているから、名声を博したというのは事実のようだ。10年の後、恩赦に遇い、奉元路(西安)の翠微寺の住持に抜擢され、身代わりに死んだ叔平和尚を供養、名誉回復ののち帰国がゆるされる。年40。まず「由比浜」で老母に再会、節約して貯めたなけなしの銭を渡す。その後鎌倉を去り、京都を中心に信州や豊後、播磨など各地で活躍した。友梅とおなじく在元10〜20年を超えた遠渓祖雄(1286-1344)や古源邵元(1295-1364)のばあいには、ざんねんながら瞼の母は、帰国前に亡くなっていた。


 古源邵元は円覚寺の東明和尚がつたえた曹洞宗宏智派をまなび、のち南山士雲らから臨済宗を学んで転派した経歴があり、唐土でも杭州あたりに集中した南宋五山寺院のみならず、大都(北京)や五台山といった北方の曹洞寺院にも行脚した。日本のスケールにあてはめれば、前者は近畿周遊ていどだが、後者なら沖縄や北海道をめぐるほどの長大な移動距離となる。五台山は唐代(平安前期)に慈恵大師円仁(鎌倉でいえば杉本寺開祖)などが訪れていたが、宋代には華北を占領した契丹(遼)・金によって長らく分断されており、元の征服によって、ふたたび華北との交通が可能になっていた。

 龍山徳見の46年をはじめ、長期滞在の僧はすくなからずおり、北京に大覚寺を開いた東洲至道のように住持を勤めたり、そのまま現地で亡くなったりもしているが、その滞在がみずから意図したものなのか、友梅のような抑留の事実があったものか、かならずしも定かでない。日本と敵対した元や明では、留学僧を通じて国内事情や軍事機密を知られることを嫌った。勅命で住職に任じたり尊号を賜わった者にしても、当面帰国の意思を鈍らせ、または自国のよい印象を植え付け、あやつり人形(逆スパイ)に育て上げようと画策する意図もあったのかも。

 名僧の弟子になるということは、アインシュタインとかエジソン、スティーブ・ジョブズのたぐいに押しかけるようなもの。近代には細菌学の大家コッホ博士の弟子になった北里柴三郎など、いくらかノーベル級の成功例はあるが、それでも名声を博すまでになるのは難しい。ただ、日本にはすでに大陸で衰退した仏教教学という強みがあった。円爾は巨匠・無準師範に認められ、現地でも貴重な禅祖・密庵咸傑の伝衣まで授かっているから、専門家による信頼は確実に高かったといえる。手紙などをつうじてリモートで「賛」をあたえることはふつうに行われたし、浄妙寺の月峰了然のように、日本での評価はいまいちながら、漢語にすぐれ、むしろ現地で語録が出版され逆輸入された在来僧もいた。ただ明代以降の国家的対立から、そうした交流の痕跡は急速に忘れ去られていったらしい。



無文元選像(1373。静岡・奥山方広寺)・右は語録所収の「写し」
 禅の教えは教外別伝・不立文字とされるが、もちろん公案(禅問答)などの禅語や詩偈はあるし、在来の経典についても、諷経といってまま唱えることもあり、げんに「宝物風入れ」では蘭渓和尚の書写した金剛般若経などが見られると思う。只管打坐(ひたすら座れ)を旨とした道元にも、「正法眼蔵」(さとり)を教学の文脈で詳しく説きあらわしてみたものや、易しい法話もある。南山士雲の弟子・乾峰士曇(1285-1361)は幕府が亡んだ元弘の乱を避けて山寺にこもり、そこで600巻の大般若経をみつけた。残念ながら2巻分が欠けていたが、乾峰はこれを完全に暗記していて、すらすらと補写してやったという。

 また寂室元光(1290-1367)は元に留学するまえ、師匠・約翁徳検に命じられ、わざわざ金沢の慧雲律師のもとに出向して三ヶ月間、律をまなんだ。唐土の五山寺院では、寺院という括りでみれば雨乞いや国家の祈祷といった密教要素や戒律の要素もあったから、栄西の唱えた天台葉上禅だとか、俊芿の禅律宗なども必ずしも不純ではなく、むしろ留学準備として正解であったとも言える。これは浄土宗でも日蓮宗でもおなじことで、つまり専門コースだけでなく、いまの大学でいうところの「基礎教養」もまなんでいた。

 鎌倉北条氏の生き残り・碧潭周皎はもともと密教僧でもあったため、夢窓に学んだあとも、さかんに経の講釈をした。すでに改宗したのだから、という批判にたいしては、唐代以前の禅僧もさかんに経論をひいているし、そもそも禅宗思想ないし東アジアに渡来した大乗仏教の基層・原点には、龍樹・世親らのインド哲学があるのだとして斥けている。おもて向きは達磨禅師が立宗した別宗派のようにみえても、仏教哲学のながれのなかでは奈良仏教のような思弁的・古典的哲学思想とも、確かにつながっていたのだ。なかには無文元選(1323-1390)のように、忍性よろしく「悲敬二田を行ひ、或は疥癩の者と与(とも)に沐浴鬀髪し、或ひは衣鉢を捨てて僧に飯す」といった社会活動にはげむ禅僧もあった。このひとは後醍醐天皇の皇子。元へ留学の帰途、かの「半僧坊大権現」を感得したことでも知られている。



中巌円月坐像(建仁寺霊源院)
 唐代の禅僧には、徳山禅師の三十棒などといって、やたら弟子を打ったような話がある。もちろん後代には「弟子を励まし、または賛嘆する所作、訓戒」の比喩として「三十棒」を用いても、実際の暴力ではなかっただろう。法話では過去の公案などを引用し、「作麼生(これはいかに)」「且道(まずは言ってみよ)」と問いを発して拄杖(つえ)を上げ、しばらく沈黙して「卓一下」、つまり振り上げた拄杖(つえ)を下ろして師みづから答を言う。ただしその答は「転語」といってみじかい漢詩による、詩的な比喩(ないしヒント)だったりして、これがまた判じ物のように分かりづらかったりする。

 無学は高峰にこう言ったという。「我れ日本の兄弟を見るに、一生に悟りを得る者多かるべからず。此の国の風たるや、只だ智才を貴んで悟解を求めず。是れ故に霊根有る者を設けず、内外の典籍を博覧し巧偽の文章を深く嗜んで、遑(いとま)なく此の事を究めんとするより迷中に一生を過し了んぬ。固より為に憫れむべし」と(夢窓「西山夜話」)。宋の禅寺では一時期、宝典とする「碧巌録」を弟子が執着しすぎるとして禁じ、みせしめに焼いてしまったこともあった。蘭渓ら他の渡来僧も、「禅は詩や文学ではない」と再三注意はしている。ただ、その前提として、やはり語学の習得や詩才というものが留学先では必ず必要になるから、五山文学そのものには反対しなかった。唐土には聞き慣れない方言も多く、文盲もすくなくない。東明にまなんだ不聞契聞のような秀才でさえ、現地では「耳に満つ語音渾(すべ)て分からず」と自嘲するていたらくだった。

 言葉はコミュニケーションのツールであり、現地でより多くの高僧に知り合うためには、やはり自分をアピールできなければならない。仏教では孤独な悟りを「独覚・辟支仏」などと呼んで嫌った。禅宗では「野狐(やこ)禅」などといっている。それゆえ「掛搭」といって、多くの師をわたりあるく必要があった。やがて悟りが認められ、印可をうけるのだが、出世し一寺の住職になるなどしたさい、始祖達磨・開山祖師につづいて、自らの師僧に感謝の焼香を捧げる、その時にいたって、誰それの嗣法であると正式に表明することになる。錚々たる名僧に習いながら、幼くより育ててくれた田舎の僧に敢えて嗣香をたむける、そんな美談もすくなくなかった。逆にまた、世話になった期間が短くとも、思い入れのある高僧を選択する者もいた。中巌円月のばあいには、それが恩ある師僧(東明慧日)への完全な裏切りだとして、物議をかもしてしまったらしい。



昨年は「3密」で中止の建長祭り・・・
 東明和尚の曹洞宗宏智派は日本では少数派だった。日本の禅林を席巻した臨済宗楊岐派は、「碧巌録」を編んだ圜悟克勤や「無門関」の無門慧開を輩出するなど、公案(禅問答)を中心とする看話禅が特徴。「偈頌」や「転語」とよぶ、漢詩のかたちの禅語も流行していた。東明和尚も教派こそちがえ、「碧巌録」をもちい、円覚寺白雲庵でさかんに五山文学を広めることで、かろうじて宗派の浸透をはかっていた。よりにもよって、文才で鳴らした若手のホープ・中巌が離脱したのだから、仲間たちも怒るわけだ。それに中巌が瓣香を捧げた東陽和尚(臨済宗楊岐派)は、留学先(元)ではそこそこの高僧だったが、「百丈清規」といって専門は戒律寄りの学僧だったから、路線変更としても唐突で、筋違いにみえた。

 中巌は留学の直前、日本曹洞宗に属する永平寺の義雲にも学んでおり、むしろそこで曹洞宗の真髄を知り、これまでの指導に違和感をおぼえたらしい。おなじ黙照禅とはいいながら、日本の曹洞宗とはちがい、中華曹洞宗の深奥には宗祖・洞山良价による「五位訣」などの難しすぎる高邁な哲学があって、こりゃだめだ、と。いわば先回りして、自身の非力をすでに悟ってしまった。それゆえ留学先の「元」においても、はじめから臨済宗楊岐派の高僧をわたりあるいたのだ。中巌は「中正子」などの哲学論文ものこしているが、それがたぶん、曹洞僧としての限界だったのかもしれない。中巌はまた、易学にも関心をしめし、朱子学・数学などにも造詣が深かった。向学心がなかったわけではない。

 以心伝心、コミュニケーション能力には個々の限界もあっただろう。思わぬ相手と笑いのツボがいっしょだったり、変に話が合うばあいもあれば、嫌いじゃないのにどこか気まずい相手もいる。むりに空気を読んでも楽しくないし、たぶん悟りを得ることなんて出来ない。それでも禅僧たちは地の果てまで、最善の師匠を求め歩いた。なかには海に沈んだものもいただろうし、観中中諦のように黄巾の乱に巻き込まれ、せっかく海を渡りながら、何も学ばず帰国を余儀なくされたものもいた。


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