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もちださんの鎌倉リポート No.389(2021年1月29日)



No.388
No.390



中世を生きた和尚たち・記主良忠



良忠廟所。古い肖像はのこっていない
 浄土教は聖徳太子の昔からあり、専修念仏をとなえる法然上人の【浄土宗】が成立して以後も、真言浄土など各宗派でそれぞれの形で浄土信仰がはやっていたし、源信僧都(天台僧)の「往生要集」はいぜんとしてバイブルとして尊ばれ、鎌倉時代以降なんども板木をあらため刊行された。宗派のちがいにとどまらず、当の浄土宗からも浄土真宗や時宗などが分派し、宗内においても浄土四流をはじめとするさまざまなセクトに分かれ、対立・融和がつづいた。

 現在の浄土宗は「鎮西派>白旗流」の流れをくむ知恩院を中心に江戸〜明治に定着した一派であり、その系譜のみを辿ってゆくと法然―聖光房弁長(鎮西)―良忠―良暁(白旗)・・・となって、鎌倉光明寺の開山・いわゆる記主禅師こと然阿良忠(1199-1287)が第三祖、ということになる。もちろんそれは結果であって、その当時は無数にあった浄土系寺院・浄土宗内における一派閥の一頭目にすぎなかった。現代の宗派区分は後世の寺請制度などで管理しやすいよう、各派閥を整理統合し簡略化した幕府や明治政府の意向でしかなく、百家争鳴のその昔を忠実に反映しているわけではないのだ。



弥陀の「十念」(東京・九品仏にて)
 浄土三部経などによれば、阿弥陀仏は頭がアフロになるまで思索をつづけ、すべての人がもれなく極楽に往生するまで「けして仏にはならぬ」と誓った。つまり阿弥陀仏が仏様であるかぎり、いきとしいける全ての人の極楽往生はすでに【決定している】のであり、それはそのことを信じる信心によってのみ、保証される。その信心を示す呼びかけが、なむあみだぶ(南無阿弥陀仏)なのだ。

 すなわち信じる心さえあれば「もうなにもしなくていい」(一念義)のかもしれないし、「常時不断に念仏を唱えてこそ、その信心は確信に変わる」という意見(多念義)もでてくる。「阿弥陀さま以外の仏を信じたって阿弥陀仏の誓願は変わらないし、むしろそれこそが阿弥陀仏の真意」(諸行本願義)という説もあれば、「念仏以外の行いはすべて邪説」(専修念仏)という主張もある。諸行本願義をたてた長西(1184-1266)は法然の弟子ながら天台の学僧でもあったため、俊芿(律宗)や道元(禅宗)にもすすんでまなんだらしい。また、「念仏の功徳は自分以外の他人や亡者の信心をも助けるはずだ」、という考え方(融通念仏)もふるくからあった。

 もっともラディカルな主張は「なにもしなくていい」、なかには本願誇りといって、これみよがしに戒律も守らず、破廉恥行為をほしいままにする者もあらわれる。「念仏以外は邪道」という主張も、他宗派からみれば教義の否定となり、信者を奪うため強い反発や弾圧の原因となる。したがって浄土僧らはその立場・環境にしたがって多様な教義をたてた。良忠の弟子で名越朝時の子とされる良弁房尊観(1239―1316)は一念義(名越派)をとなえたし、良忠の実子ともいわれる寂慧良暁(1251-1328)は多念義(白旗派)をとなえ、信者をあつめた。鎌倉大仏を管理した忍性(真言律宗)などは、さしずめ多様な宗派活動を抱合できる諸行本願義を受け入れていたのであろう。思想的には矛盾・対立したこの三つの流義も、もともとの人脈は密接であり、それぞれ異なったフェーズ(phase局面)にしたがって住み分けをはかり、軋轢内訌というよりはむしろ、全体の利益を調整していたのかもしれない。



廟所ちかい光明寺の裏山から
 さて、良忠には「看病用心鈔」といって、死にゆくものを送るためのマニュアルを記した著作がある。これは看護学に関する日本最古の書としてしられるが、鎌倉時代の人物の死に様を語るものとして、禅僧の伝記などとともに貴重なものだ。禅僧の伝記では、だいたい@病の徴候にみずから死期を予言し、医師の薬を断わる・A見舞いの人にも平時と変らず端然と対応・B身づくろいし、「臨終の偈」を書き、そのまま筆を擲って息絶える・C死後も生けるがごとく、荼毘して灰のなかに五色の舎利がみつかる・・・といった紋切り型の記述が多く、どこまで事実かはわからない。正確な記録というよりも、まず「臨終の偈(辞世)」の掛け軸が残っていて、それにまつわる伝説として伝えられた話が多いように思われる。

 いっぽう「看病用心鈔」では、名も知らぬ病人一般の臨終のためのセオリーが語られる。「九相詩絵巻」などにみられるように、一般には死はおぞましいもの、と考えられていたが、浄土教における死とは「浄土に生まれる」ことだから、むしろ喜ばしいこととされる。もちろん誰もが現世にまんぞくし、死を受け入れてもいいという境地に達しているとはかぎらないから、看病人は浄土を信じる病者の心を、より安らかな確信にたかめてやる工夫がひつようになる。

 部屋に仏壇をかざり、指に五色の糸をつけて仏像とむすんでやり、仏像がつねに見えるよう明かりを絶やさないこと。病人は介護者を仏とみているので、けして叱ったりせず、心休まるようにつとめ、彼我の心を乱してはいけない。病人の話に耳をかたむけ、けして他言してはならない。同性の看病人と僧侶三人ていどのほかは、家族といえども近づけてはいけない。往生をさまたげ、この世への執着となるからだ。病は往生のための良い機会であり、治療は延命のためでなく苦しみを除くためのものにすぎない。排便の世話をいやがってはならず、つねに清潔にすること。・・・



九相詩絵巻(鎌倉時代)
 「知識(*僧)一人ばかりおはしまさば、常に病者の眼の気色、息の出づると入るに目を離たずして、鉦を打ちて念仏を勧め給ふべし」。僧がそばにいる時は、まだ意識がある頃合いを見逃さず、念仏を唱えさせる。最後だから酒魚といった不浄なものを食わせろ、などと病人にわがままをいわれても、言葉をつくして善悪をわきまえさせよ。ただ、同性の看病人に限定、というのは妻帯をゆるした浄土宗らしからぬ保守的な主張であって、ダンテの「神曲」じゃないけど、ウェルギリウス(偉人)なんかに導かれ、気を遣いながら地獄をめぐるより、美しいベアトリーチェ(恋人)についていったほうが、より安らかに天国に行けるような気がするのだが。

 念仏で死者を見取ることは現代ではほとんど行われていない。雰囲気を味わいたい方は藤沢の遊行寺の初詣などで、上人の念仏札をいただくといいかもしれない。時宗では常時を臨終と考えるから、賦算のあいだじゅう「なむあみだぶ」の六字名号を伴僧が唱えつづける。臨終における十念とは、哲学的なむずかしい定義もあるが、法然によればけっきょくは声であり、これを唱え、または唱え聞かすことによって信心は成就するとされた。それゆえに往生を確信するためには、死の直前まで「なむあみだぶ」の片端を唱え・または聞いて理解するだけの正念、つまり正常な意識にとどまっていることが求められた。

 信心の強要、これは他力思想に逆行し、そのはては自然死ではない臨終・・・自死とか、あるいは後世、一向一揆による玉砕を強制、さもなくば地獄行きとして裏切り者を極刑にさえ付した、浄土真宗の思想にもつながってくる。成仏したからには仏として清く正しくふるまわなくてはならない、還相といって、その実践を生きているあいだにも要求する。ひとくちに鎌倉新仏教、とはいっても浄土教それ自体の歴史はふるく、細部においては聖徳太子(574-622)とか、浄土五祖に数えられた唐土の曇鸞(476-542)・善導(613-681悟真寺)とかいう大昔の人の説に準拠することも多かった。基礎学力をつけるため、禅宗や日蓮宗においてさえ、年若いうちは比叡山に学ばせるようなことも、ままおこなわれた。学識があればあるほど、マニュアルどおりの旧説に拘泥するし、古い考え方のほうが保守的な信者にはむしろ「正統的」だと、好意的に受け入れられたのかもしれない。



双盤念仏
 光明寺をはじめとする浄土寺院の秋の風物詩「お十夜」で、双盤念仏というのが行われる。双盤というのは雲板に吊るした鉦のやや大きいもので、ふたつの太鼓を伴奏に四人一組、座って演奏する。空也念仏や一遍の「躍り念仏」ではもっと小さい鉦を叩きながら歩き、乞食念仏の一種「鉢叩き」では瓢箪をもちいるなど、楽器のかなでる音色・音量にも格式があったのだ。大きめの鉦は立派な会場・盛大な法要を前提とし、威儀を正した形式なのだろう。いっぱんに関東の祭り囃子には鉦は主役ではないが、大陸文化ののこる上方では祇園囃子とかだんじり囃子など、リズム楽器として鉦がさかんに活躍する。

 「お十夜」は15世紀、京都・真如堂(天台宗)で盛大におこなわれた十日十夜の別時念仏をヒントにして、鎌倉光明寺九世・長蓮社観誉祐崇(1426―1509)がこれを浄土宗の【恒例行事】として制定、定着した。江戸期には同じく鎌倉光明寺の五十九世・円蓮社義誉観徹(1657-1731)が復興、周辺諸寺にもひろめた。写真の荏田真福寺は新義真言宗(豊山派)であるが、豊山派は弥陀・大日同一説の覚鑁を派祖として奈良・長谷寺や当麻寺などの浄土系古寺にも浸透、もとより浄土宗とも密接な交流があったから、これもおそらく観徹に学んだのだろう。観徹には、龍宮に呼ばれて光明寺ちかくの穴にはいって帰らなかった、などの伝説がある。ここの双盤には幕末・嘉永五年の銘があるが、横浜市港南区の寺院には観徹生前の年号を刻んだものも残っている。

 念仏を音楽としてとらえる引声念仏はもともと、慈覚大師円仁(天台宗)が入唐し、叡山の別所・横川の麓にあたる京都大原を拠点にひろめた仏教音楽・声明(しょうみょう)に由来するもので、もちろん近代以降の「ドレミファ旋法」とはことなる一種の雅楽なのだが、やがて末端では唱導芸能とむすびつき、一連の組曲としてご詠歌や刈萱伝説などの歌詞がはいりこんだりもした。農村では作物を供え、豊穣息災を先祖に報恩感謝する神事に習合し、講中の秋祭にもなっていたようだ。



良忠・良暁・観誉。墓石は近世に再整備されたもの
 「お十夜」を創設した観誉祐崇は、佐助から材木座の現在地へ、光明寺を移転した人物としても記憶される。光明寺の前身といえば良忠がひらいた悟真寺であり、同寺をゆずられた二世・白旗の良暁(寂慧)が鎌倉末期に「佐介谷、本の悟真寺、今は蓮花寺と号す」(良暁「述聞制文」1325)と述べているから、悟真寺は久しく佐介にあったことがわかる。いまの「蓮華寺趾」の碑はトンネル開削でやや谷の口がわにうつされているが、もとは西の支谷・松ヶ谷にたてられていたという。

 悟真寺は大仏朝直(1206-1264)の開基という。松ヶ谷には佐介北条氏による松谷寺及び松谷文庫(佐介時盛は大仏朝直の庶兄)、また安達泰盛邸があったなどの説もあり、それらの詳しい位置関係は不明。また蓮華寺には「執権・北条経時(1224-1246)の開基1243」、ないし「子の時頼がひらいた経時の菩提寺1251」、という異説もある。経時の菩提寺は笹目・遺身院(真言宗)と思われるのだが、現・光明寺には「当山願主・蓮華寺殿安楽大居士・前武蔵守平朝臣経時」の供養塔1720があり、佐介悟真寺が経時の法名をもって改名したという説をとっているらしい。ただ良忠がはじめて鎌倉に入った(1257〜60ころ)のは経時の没後だから、大仏朝直でなく経時(または時頼)が悟真寺の開基だとすれば、良忠は開山ではなくなる。また、良暁が良忠から引き継いだ段階ではまだ悟真寺だったものが、のちにとつぜん経時の法名に改めたという解釈もやや不自然で、別々の寺が合併したのかもしれない。

 良忠の病を知り、修行なかばにして鎌倉にやってきた良暁は、師に跡を継ぐよう命じられたと主張。やがて良忠上洛のさいにも良暁は良忠の代理として佐介悟真寺にとどまり、大仏時遠(朝直の子)の帰依をうけ、蓮華寺と名をあらためた。このあいだ良忠は京都で知恩院の源智派を糾合、ついに一大派閥を形成し、鎌倉にもどって死没。やがて蓮華寺は三世・良誉定慧(五祖1296-1370。桑原道場)、四世・聖満良順(1328-1409。鴻巣勝願寺)、六世・順誉了専(?-?)、七世・常誉良吽(?-?)、八世・聖誉慶順(?-?)をへて、のべたように九世・観誉祐崇にいたり現在地に移転し光明寺と改称、彼もまた上京して朝廷の崇敬をうけ、勅願寺とした1495という。これが事実なら元弘の乱以降も、佐介蓮華寺は廃絶することなく順調に発展していたかのようにみえる。



GoogleMapより
 のちには浄土宗四祖と仰がれる寂慧良暁は、もともと良忠が故郷にのこしてきた実の息子だという。とくだんの実績もないまま、あからさまに悟真寺を継いだため、良忠の他の高弟、名越の尊観・藤田の性心・木幡の良空・三条道光らの分裂をまねいたとされる。また良暁じしん、白旗派と称してかれらと対峙、白旗(西御門?)に居住したとされるから、佐介悟真寺(蓮華寺)の影はうすい。かの日蓮は然阿(良忠)を良観(忍性)の次に恨んでいるが、大仏殿・長楽寺・浄光明寺などへの誹謗はあるものの悟真寺についての言及はないようだ。「鎌倉年中行事」などの一般史料にもみえておらず、総本山というほどの大寺院ではなかったらしい(ちなみに、いまは小寺院である時宗の別願寺などは、むしろ公方持氏と親しくやりとりした書状や、持氏の供養塔なるものをつたえている)。

 一方、佐介ではなく逗子小坪の正覚寺の地こそ「悟真寺」の旧地であり、良忠荼毘の地(1287没)だという説もあり、観誉祐崇(1509没)もまずここから光明寺を移したとする。あるいは佐介蓮華寺が元弘の乱か禅秀の乱かで全焼、光明寺に遷る以前はこちらに疎開していたとも考えうる。小坪にのこされた「住吉谷の悟真寺」は三浦道寸の住吉落城とともに全焼1512、やがて光明寺十八世真蓮社快誉によって今の正覚寺と改名し再興1541されたという。

 現在の材木座光明寺の寺地周辺には、かつて律宗極楽寺管轄の前浜・和賀江島があり、いくつかの廃寺が分布した。光明寺子院の蓮乗院は移転以前からあった真言宗の古寺とされ、本尊は1299年の作。現在は境内に移された、裏山・地蔵窟やぐら内につたわった地蔵石仏1325の銘文には満福寺・聖尚養寺の名も刻まれている。また米町の教恩寺(時宗)ももとは光明寺境内にあり、近世に所化寮をつくるため、米町にあった末寺・善昌寺が衰えたのを幸いに替地として追い出したものらしい。教恩寺は平重衡所縁の寺とされるから、時宗に改宗する以前からの古い阿弥陀堂だったのかも。善昌寺についても不明で、津久井光明寺(臨済宗)につたわった中世の文書・古地図には善法(宝)寺なる寺があったとされる。江戸期にはこうした事情はみな忘れ去られ、材木座光明寺は江戸幕府の崇敬を後ろ盾に、名実共に「古来からの一大檀林」となっていた。


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