トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第390号 


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もちださんの鎌倉リポート No.390(2021年2月6日)



No.389
No.391



中世を生きた和尚たち・日親



浄瑠璃本日親上人徳行記より
 日蓮宗の高僧の武勇伝は数多く伝えられていて、将軍足利義満や義教に直訴して体罰をくらったり、はたまた得宗北条高時の面前で上々の法論をかわしたり、織田信長の御前で敗訴したりと、さまざまだ。祖師日蓮がそうであったように、【弾圧】もまた「真の行者たるあかし」として宣伝になったから、仮に権力者に手厚くもてなされてもあえて反抗、「他宗僧侶の皆殺し要求」などといった受け入れ難い無理難題をふっかけて将軍を怒らせ、茶の湯の熱湯をかけられても黙らず、大音声をあげ、みずからすすんで半殺しの目に遭い、担架(塵取輿)にのって嬉々として帰宅、ついに念願の「弾圧」を受けたと、じまんげに記録するものもいた(日仁・日運「門徒古事」1425)。

 「方々ニ横行シテ法花経ヲ談ジ、諸宗ノ仏法ヲ嘲リ宗論ニ及ブ、ソノコロ無双ノ悪比丘ナリ」(長禄寛正記)とされた冠鐺上人こと日親(1407-1488)もまた、足利義教に灼熱に焼けた「鍋かぶり(冠鐺)」の体罰をうけたことになっている。ただしこれは、日親二百年遠忌にあわせ上演されたとみられる「浄瑠璃本・日親上人徳行記」(1687刊)によってひろまった伝説らしい。同書は「竹本義太夫正本・作者近松門左衛門」とされ、元禄らしい古拙な挿絵が添えられている(左)。



生前に作られた寿像(1484。唐津法蓮寺・国会図書館HPより)
 浄瑠璃本は演劇上の脚色から、一般の伝記類とはことなり、利根川悪四郎という残虐な人物が寅若丸(のちの日親)のいいなづけに横恋慕、酸鼻かつグロテスクな蛮行を繰り広げるという、いわば創作ストーリーが軸になっている。ちょうど他宗の僧たちが将軍義教に日親を讒訴しているところへ、くだんの悪四郎が数々の犯罪を日親のしわざだとして訴え出る。白洲にひきだされた日親は、「念仏を唱えれば赦してやろう」という言葉も拒否し、将軍義教を悠然と面罵、悪四郎の手で灼熱に焼けた鍋をかぶされる。すると、あら不思議、将軍の刀が自然と抜けて宙にまいあがり、悪四郎の頸を刎ねる。「人々あつと見る所に、くだんの鍋は虚空にあがり金色の天蓋に、煙は則ち七宝の瓔珞と輝きける。義教庭に飛んで下り、・・・世尊滅後二千余年、古今未曾有の名僧やと、残らず尊とみ奉る」。

 上の挿絵にみえるとおりだが、「刀剣」が描かれていることに注意したい。この浄瑠璃がつくられた江戸前期には、京都における日親門派の本法寺が、刀剣鑑定・御用研ぎ師として名高い本阿弥家の菩提寺として興隆する。すなわち物語のなかに本阿弥家のアイコン「刀剣」がねじこまれ、本阿弥本光(1435-1534。俗名・松田清信)をおもわせる本名光信という人物もさりげなく登場しているのだ。日親の徳により、死んだ悪四郎らもみな成仏して仏の乗る獅子にうまれた、などとフォローされ、浄瑠璃はめでたく幕をとじる。悪四郎という架空の人物を登場させることで、伝説のキモにあたる「権力者批判」がかなり薄められているのは、公開演劇というフォーマットの限界なのかもしれない。

 「鍋かぶり」伝説の元ネタとなった本法寺日匠(?-1689)の「真名本・日親上人徳行記」(漢文版)の成立年は定かでないが、序文には日蓮没後四百年1682とあり、浄瑠璃本の刊行年1687とはほとんど差がない。本法寺の大檀那・本阿弥家からすれば、先祖が獄中の日親に帰依しこの寺を開基したことは勲章であり、しかも日親が偉大な名僧であればあるほど自家の名誉なのだから、竹本座での上演と前後して、漢文版「徳行記」を編んだ20世日匠や、一般向けの読み物「仮名本」1704を出版し絵巻も作成した27世日達ら、本法寺代々の住職にも、日親の派手な伝記の作成と流布をつよく求めたのではないだろうか。このころ本阿弥光甫(1601-1682)らは、家伝「本阿弥行状記」を編むかたわら、貴重な日親の自筆本尊などをあつめ、本法寺へ寄進もしている(1675・1699)。本法寺12世正教院日慈(1563-1627)、さらには光甫の弟で18世日允(1619-1692)らは、戦国時代に衰退した門派の総本山・千葉市川の中山法華経寺を兼帯、江戸初期の不受不施弾圧や門閥の深刻な内紛をのりこえ一門の維持に奮闘。本法寺をふくむ京堺の三ヶ寺で中山門主を兼帯する輪番制も定着して、寺格も絶頂期をむかえていた。



本法寺・妙隆寺の日親像
 「真名本」の序文によれば、日親の事跡について、当時はまだ「冠鐺の一事」以外、まったく知られていなかったという。また「日親上人徳行記」に先行する地誌などをしらべてみても、「本法寺は堀川通りを上がってどんつきにある法華の寺」程度の記述しかなく、「冠鐺の一事」についてさえ触れられていない。「真名本」では、天井に釘を植えた牢にいれられたり、空風呂(サウナ)で六時間蒸されたり、失神するまで大量の水をのまされ、竹串で陰茎を刺されたりと、こんにちの日親伝説にもよく語られる、さまざまな拷問がでてくる。ただ、肝心の鍋かぶりについては簡潔だ。ちょっと読み下してみると、

○ 或時は又た、鐺を紅色に焼き師の頭に冠す。而して師、能くこれを忍受し、大きなる悩痛も無くして尋(つい)で即ち本に復す。都下、師を称して冠鐺上人と称すは是れなり。或時は又た大樹(*将軍)命じて舌根を抜かしむ。吏これを憐れみ薄く舌頭を切る。爾来、言語輭滑にして嬰児の如く、冠鐺以後、頭皮攣拘して髪を剃ること能はず、長ずるに随ひ鑷(けぬき)を以てこれを円形に芟(か)り、丫童に似たり。老いるに至つて尚ほ然れば、師戯れに曰く、「老いて再び児に成るとは其れ、日親の謂か」。是の如く、出でては譴責を蒙り、入りては困苦を受けて、囹圄(*牢獄)の中に在ること五百有三日なり。

 「y」みたいな字は「あげまき」と訓じ、いわゆる「みずら」髪の謂いであるが、単に児童一般をあらわすこともあり、童髪には各種あるため、具体的にどんなヘアスタイルを意味しているのかは不明。生前に嗣法の弟子・日祇が作った最古の像【図2】では、法衣の襟がなにやら香水瓶のフチのような変なかたちなのも気になるところだが、もちろん「みずら」などではない。冠鐺(くわんだう)とはかなり特殊な文字で、鐺(こじり)とはふつう、刀の鞘の先端部とか、軒の椽(たるき)の端の保護のために嵌める飾り金具のこと。鐺の字にもたしかに酒を暖める鼎、「なべ」の意味もあるのだが、むしろあだ名が先にあって後から「鍋かぶり」の説話ができたのかもしれない。その他の肖像【図3】は江戸期のものなのであまり参考にはならないが、あるいは生まれつき濃い髪が、うっすら伸びただけで悪目立ちし、ちょうど刀の鐺のように見えたのかも。



妙隆寺の開基・千葉胤貞は肥前小城千葉氏の祖
 日親の入牢は1440年、1462年の二度あるが、拷問伝説の舞台となったのは、暴虐将軍・足利義教の弾圧をうけたとする初度であり、翌年、義教は嘉吉の変で横死し仏罰を受けた、というオチになっている。ちなみに同時代資料である日親の自著などには、寺への嫌がらせや禁獄の記述はあるものの、鍋かぶりなどの拷問の記述はない。それどころか幕府としては、蜷川新右衛門(*アニメ「一休さん」でもしられる)など温厚な人物が処理にあたり、いったんは釈放したり、詰め牢の収容人数を大幅にへらして劣悪な環境を改善してやるなど、極力穏便に対処しようとした。にもかかわらず再逮捕され詰め牢にまで入れられたのは、同門であるはずの中山法華経寺七世・日有(*?-1448)が厳罰を要求して手をまわしたのだと述べている(日親「埴谷抄」1470)。「日親は一色伊予守の子息をかくまった」などと、わざわざ自筆の書状で讒訴までした。伊予守とは、永享の乱(1438〜9)に敗れた公方持氏の遺児を奉じて、その年蜂起した残党。

 日親は若くして肥前・光勝寺へ赴任、教化伝道にいそしんだが、布教の厳格さをめぐって本山・中山の貫主としだいに険悪になり、元寇以来千葉から佐賀・小城に本拠を移していた宗門の大檀那・千葉氏と現地で昵懇になったことから、危機感を抱いた日有に破門を言い渡され1437、放火等の圧迫をうけるまでに(日親「折伏正義抄」1438)。そこで日親は京にのぼり、六角富小路に本法寺を建てて独自に布教。「立正治国論」を執筆し、将軍義教への直訴(諫暁)をくわだてるにいたる。日有の執拗な介入は、じぶんたちへの不満を京都でいいふらされたり、直訴に連座することを恐れたからだろう。自著「伝燈抄」には翌年七月まで「預かりの分にて」、また「仮屋に出でて孤独の身となり」云々とのべているから、禁固状態はつづいたものの、獄舎に入りつづけたわけではないらしい。・・・赦免後しばらくして、日親はまたもや九州でいざこざを起こし、他宗の訴えで幕府に召喚され、本法寺は再度破却された1460。ただ現地の千葉元胤が身柄の送還を渋ったらしく、日親は各地で歓待を受けながら、悠々二年もかけて上洛。これには幕府も苦笑せざるをえず(蔭涼軒日録)、このときは細川持賢の邸に8ヶ月あまり拘禁されたという。

 日蓮宗の僧伝がおもしろいのは、近現代のサヨク運動と酷似している点だ。ささいな方針の違いをあげつらって、どこまでも自己完結の正義に執着し、仲間うちでたがいに「反革命分子」「権力の犬」などとののしりあい、毛沢東派だのブントだのと細分化した「セクト間での主導権争い」がエスカレート。疑心暗鬼のすえの凄惨な集団リンチ、ばかげた理由による内ゲバ殺人、はてはテロ国家と懇ろになり、無差別爆破テロ。大企業や官公庁・マスコミ・国立大学などに寄生した「シンパ」とよばれる裕福なエリート信者もおり、ゲーム感覚で資金援助。そのくせ口をひらけば「俺は差別・弾圧されている」。革命とは名ばかり、労働運動とか理想社会の建設などとうの昔に忘れはて、こよなき自己崇拝のその果てに、ひたすら現実世界への誹謗中傷・さか恨み、姑息ないやがらせ行為に凝り固まってゆく。・・・



鬼子母神(大町上行寺)に酷似したテイストの像も(千葉・埴谷妙宣寺)
 日親の「伝燈鈔」1470は、中世の日蓮宗が各派に分裂した由緒をゴシップをまじえて記録したもので、内部対立の事情が赤裸々に語られる。のべたように日親は千葉・中山門流の出身。元祖は日常(富木常忍1216-1299)で、養子の日頂(1252-1317六老僧)が不和になって離脱したことにはじまり、日親の意見に一切耳を貸さなかった日有との義絶をのべる。ついで中山門流が法服の格式で争っていたとき、身延の日叡(1352-1400)が「天台宗の真似だから謗法(裏切り者)の服」だなどと決めつけたことなどが逐一語られる。エリート僧たちは、そんな些細な「いいがかり」にも、いちいちメンチを切り、タイマンを張りあっていた。

 もともと日蓮の門下には六老僧・中臈(十八中老)・若輩などの階級があり、日蓮没後には身延の墓を交代で番をする約束をして、「日興の執筆」による当番表が「鎌倉浜の法華寺」につたわっていたのを、日親も実見した。だが輪番制にもっとも熱心だった日興(1246-1333。六老僧)は他の五老僧からきらわれ、身延の大檀那・波木井六郎の三島明神参拝をなじるなどして、ついに自身も身延を追われるはめに。波木井と結託した日向(1253-1314。六老僧)門徒はそうして身延に定着した。また日蓮一の弟子・日朗(1245-1320。六老僧)でさえも、(敵である)鎌倉幕府から土地をもらってお礼に経を読んだ、として非難される。さらには、日朗派の鎌倉妙本寺・池上本門寺と、かの身延山とを統一した日叡はいったい、日朗門流と日向門流、どちらを択んだのかと疑問を呈す。

 日朗の門流は、もとより九鳳といわれる高弟たちに分かれていた。名越松葉谷の日印(1264-1329)は北条高時の面前で「鎌倉殿中問答」1318を勝利した、といわれる人。日朗の没後、比企谷妙本寺を継いだ日輪の母から日朗の遺品をだましとって「三箇の重宝を相続するあいだ、我こそ日朗の正嫡なれ」と主張。まず「名越谷に本勝寺と云へる寺を立て」、また鎌倉妙法寺・京都六条本国寺を拠点とし、公方持氏による弾圧を不当に免れるため、みだりに勅願寺と称したという。また「上杉禅秀の乱の敵味方供養」にも他宗にまじって参加し、「弥陀・薬師・観音・地蔵を立てながら本尊を懸け」るなど、「謗法の振る舞い」は数えられないとしている。妙法寺には「薬屋四郎次郎と云へる薬商人」がスポンサーとなっていたとか。また京都には四条妙顕寺の日像(1269-1342。日朗の弟)の門派が栄え、権力がわに立って禁固中の日親と法論をおこなった。のちに信長とともに灰となった本能寺もその派閥。



かつて日什派の本山だった本興寺
 六老僧の長老であった日昭(1236?-1323)門流については、もともと保守的な傾向で日蓮集団をまもってきたこともあり、他宗にどこまでも融和的で、「その根本は叡山の戒壇を踏む故か」と批判。「日親と両度問答して詰まり給ひ」「浜の本堂にして頸をくくり」死んだものもいたとか。前述、身延を追われた六老僧のひとり日興は、自分を排除した他の五老僧をふかく恨み、富士大石寺で「五人謗法」とする独自の門流をひらいた(*現在の創価学会もその末)。それも一理あるとしながら、「日親として同意の義を以てこれを談ずるに非ず」とも書き添えている。

 六老僧以外には、日什(1314-1392)なる者が中山門流に学び、派遣先の京都で勝手に独立。「六老僧堕獄の義を立てて、直授日什」、すなわち日蓮の精神を書物から直接学び、じぶんだけが受け継いでいると主張した。日親はじぶんが破門された経緯もあってか、日什らの立志独立の風は多(おお)としながら、一門が寺に多宝塔や五輪塔・各種仏像をたてるなど「先師の遺誡を破る」点を非難。「殊更、品川の妙国寺」の「大檀那たる鈴木源三郎」「親父道印、祖父道永、何れもしかじかと信心は無き者」で、商業で得た利益を背景に雑多な仏事を営むなど「一向謗法の振る舞いを本とする」と断じている。鈴木道印といえば連歌師・心敬を招くなど、中世品川の大商人として知られ、いまも巨大な五重塔の礎石が天妙国寺に残されている。日什一派については冒頭にも触れた「門徒古事」などの武勇伝がのこるほか、「鎌倉埋橋に本興寺」をかまえたものの、江戸期には不受不施の科で同寺を没収、他派にさげ渡されるなどしている。

 そのほか日親は筆を略しているが、天目(1256-1337。中臈)らは「迹門十四品を捨つべし、これを読めば謗法堕獄」、つまり法華経のなかでも都合のわるい14の章を切り捨てろなどと主張し、各派で争論となっていた。日蓮は涅槃経をはじめ他の経も平然と引用しているのだから、そのような厳格さはナンセンスに思える。日親は不受不施、すなわちカネや権力に媚びないことを生涯の信条とした。難解な法華経解釈などに拘泥するよりもまず、【他宗への妥協】を第一の謗法行為と規定し、各門派にたいする評価の基準としていたように思われる。これは積年の遺恨や学説の相違による宗門同士でのつぶしあいをやめ、まずは身近なことから変革し、一致して【外部の敵】に当ることを優先すべきだ、というメッセージだった。不受不施はその後も一時的ブームをまきおこす。ただ、そのような「正義」をひたすら追求したところで、どこかのタイミングで眠っていた法華経のスイッチがはいり、偶然にせよひとびとが幸せになったとか、なんらかの神通力が発揮されたとかいうことではない。ゴールなんてどこにもなく、自分いがいは「謗法堕獄」、ひたすら他者を呪い、人格を否定し、ひとり恍惚として殉教する、はたして・・・それが何の革命だろう?



第一印象は白い歯(妙隆寺)
 鎌倉の妙隆寺は江戸初期、不受不施の科であやうく破却されるところを、慶長の末に京都・本法寺の日慈が総本山法華経寺を兼帯、中山門派の内訌を制圧したことから、一転存続がゆるされた。その本法寺も古くは何度か破却の憂き目にあい、実際その部材は執達吏(解体役)である坂者(非人)に与えられたという(蔭涼軒日録1460)。天文法華の乱1536では全焼、堺に疎開するなど各地を点々とし、今日の伽藍は桃山・江戸初期に活躍した芸術家・本阿弥光悦(1558-1637)らによって、ようやく再興を遂げたといわれる。そのころの檀家には絵師の長谷川等伯(1539-1610)もいた。

 先祖・本阿弥妙本は足利尊氏に仕え、鎌倉で日静(*1298-1369。上杉頼重の子で尊氏叔父)に帰依したと伝えるが、日蓮宗に阿弥号はない。六世・本光(1435-1534。俗名・松田清信)が罪せられ、獄中で日親に出会ったというのは、生没年からみても「長禄寛正記」がつたえる日親二度目の収監1462の時がただしい。本阿弥家はかつて室町幕府の刀剣所に仕えていたため、東山文化への造詣はもちろん、鞘などにもちいる金工・漆芸などの職人にも広く伝手があった。たまたま光悦の父が婿養子で、のちに正嫡が生まれ分家となったため、刀剣を扱う正業が減って美術工芸品販売の道へと活路をもとめたようだ。もともと室町幕府の同朋衆には代々、作庭家・茶道家など、くらしの中の総合芸術をもとめる傾向があったのだ。光悦本人は書道家として名高く、後水尾院をはじめ朝廷ともまじわり、徳川幕府からも洛北・鷹ヶ峯の地をあたえられ、そこに工芸村・芸術家サロンを形成した。

 日親の主張する徹底的な不受不施の立場からすれば、信徒ではない朝廷や幕府をパトロン(金脈)とすることには、いささか相容れない面もあったであろう。もっとも後水尾院は敗北した豊臣家の人脈であり、徳川の世に背を向け退位し、ひたすら耽美的な【芸術世界】に逃避するという隠者的な性格ももっていた。光悦にとってもまた、「侘び」「寂び」は創作上の主要なイメージだった。じっさいには大ヒットした工芸品販売で相応な収入をえていたのだが、ロック歌手が髑髏やゲバラのTシャツなんぞを着て「社会に反抗する孤独なアウトロー」をきどるように、芸術上の立ち位置をつむぎ上げていったのだ。【権力にたちむかう日親上人】の顕彰をはじめとする熱心な法華信仰もまた、あくまで商売上の方便、庶民人気を支えるイメージ戦略、ブランディングの一部だったともいえる。


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