流布本「太平記」では、新田義貞は「(元弘三年五月)廿一日の夜半ばかり」「明け行く月」「其の夜の月の入る方」に稲村ヶ崎での秘蹟をおこなったという。「夜半」は「子の刻」、つまり午前0時前後だから月はまだのぼったばかりで、下弦の月だから沈まない、不審とされる記述だ。当時の時制だと午前3時には日付が切り替わるから、史実はどうあれ、「太平記」の記事は高時が自害し、鎌倉幕府が滅亡する「廿二日」の直前として描いている。21日を今風に未明の日付とみなし、「22日までにはまだ丸々一日あった」という解釈は全く当らない。
一般に一日のはじまりは今も昔も午前0時(子の正刻・夜半)であると考えられ、歴史学者も古典学者も疑おうとしないばかりか、力説する者さえいる。ところが古文献にそのような徴証はまったくなく、たとえば更級日記では「十三日の夜の夢に」と書きだしで、「うち驚きたれば十四日なり」と、明け方に日付が変わる、というような認識が一般。それでも学者たちは、午前0時がぜったいに正しく、明け方に日付変更をもとめるのは、中世以前のたんなる慣習法にすぎない、・・・などと話題を打ち消してごまかしてきた。
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