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もちださんの鎌倉リポート No.391(2021年2月19日)



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一日のはじまりについて


 流布本「太平記」では、新田義貞は「(元弘三年五月)廿一日の夜半ばかり」「明け行く月」「其の夜の月の入る方」に稲村ヶ崎での秘蹟をおこなったという。「夜半」は「子の刻」、つまり午前0時前後だから月はまだのぼったばかりで、下弦の月だから沈まない、不審とされる記述だ。当時の時制だと午前3時には日付が切り替わるから、史実はどうあれ、「太平記」の記事は高時が自害し、鎌倉幕府が滅亡する「廿二日」の直前として描いている。21日を今風に未明の日付とみなし、「22日までにはまだ丸々一日あった」という解釈は全く当らない。

 一般に一日のはじまりは今も昔も午前0時(子の正刻・夜半)であると考えられ、歴史学者も古典学者も疑おうとしないばかりか、力説する者さえいる。ところが古文献にそのような徴証はまったくなく、たとえば更級日記では「十三日の夜の夢に」と書きだしで、「うち驚きたれば十四日なり」と、明け方に日付が変わる、というような認識が一般。それでも学者たちは、午前0時がぜったいに正しく、明け方に日付変更をもとめるのは、中世以前のたんなる慣習法にすぎない、・・・などと話題を打ち消してごまかしてきた。



現在の稲村道。左が霊山山
 草木もねむる丑満つ時、というように、古来丑の刻と寅の刻の境目「午前三時」が真夜中とされた。十二辰刻に相当する方位占いでもそこは「鬼門(艮・うしとら)」として不吉とされたし、五行では北方「水(黒)」から東方「木(青)」のあいだに裂け目があって中央「土(黄)」につながる。そこに「一日」が死にふたたび生まれるという秘蹟が見い出されたのかもしれない。

 「三代実録」元慶元年四月朔日の条に、「夜蝕」に関する勘文(*学者の意見)がのっている。中世までの天文学は、洋の東西をとわず「占い」の要素がおおきかった。国家にとって不吉な予兆、とされた日蝕は新月、すなわち太陰暦では朔日(ついたち)前後におこる。したがって天子は朔の無事な日の出を監視し、ひとたび日蝕が起これば、いちにち「廃朝」(*謹慎)しなければならなかった。わたしたちがいまも「初日の出を拝む」のは、こうした風習のなごりなのかもしれない。このため、天皇の秘書官である中務省陰陽寮の天文学者らは、過去の周期などから厳密に計算し日蝕の出現時刻を予測。「日没後」「日の出前」の日蝕というような、理論上にしか存在しないものまで議論された。

 こうしてはじき出された「理論上の日蝕」の時刻が、虧け初めから虧け終るまで、前日(晦日)の丑の刻にとどまるならば日蝕は前月の晦日に属し、晦日が「廃朝」。丑と寅とにわたるばあいには、晦日と朔日の二日分「廃朝」すべきとの意見も出た。こうした記述から、律令時代の宮中では、零時ではなく午前三時、寅の初刻が正式な一日のはじまり(朔)だ、ということが確定的になる。



内閣文庫本「史記抄」から
 次に引用するのは、桃源瑞仙(1430−1489)という僧による「史記・周本紀」の注釈(史記桃源抄)。ここにもはっきり、「丑の刻(雞鳴)までが昨日、寅の刻(平旦)からは今日」と明記している。

○ 改法―法度は法則・度量ぞ。正朔を制すとは、正は正月ぞ。周正月は十一月、建子月を正月と為すぞ。殷正月は十二月建丑ぞ。夏正月は今の建寅月なり。朔は、夏朔は平旦の寅(*日の出=寅の刻)。殷朔は雞鳴の丑。周朔は夜半の子なり。朔といふは日の始めぞ。其の時より今日の中(うち)ぞ。建子を正月にすれば子時を朔にするぞ。亥時までは昨日、子時から今日ぞ。今は夏正を用いるが程に、平旦寅の時が朔ぞ。丑時までは昨日、寅時から今日なり。

 このような傍証は数多く、逆に一日のはじまりは午前0時、などとする文献はない。近現代の学者がテキトーに書いたものか、それを孫引きしたものだけだ。Wikipediaによれば、前漢以降「現在に至るまで2000年以上にわたって中国暦(旧暦・農暦)の年始には夏正が用いられている」のであって、日本の旧暦(民間暦)もほぼおなじ。学者ならWikipedia程度の知識はあってしかるべきだろう。



古い絵葉書にみる霊山崎の崩壊。崖下ではかつて海苔採りなどができたという
 暦は古来、王者の権威の源泉とされた。種まきの時をおしえたり、台風の季節を注意喚起したりした、原始時代の村長の慣習が、しだいに呪術化をともない、複雑に厳密化していったのだろう。もちろん木星の位置で星占いをするとか、タグホイヤーのストップウオッチで正確な出勤タイムを計るようなことは、もはや人間生活に必要不可欠ではないのかもしれない。それでもわたしたちの生活は「時間」という慣習、あるいは法令にいまも厳格に支配される。

 古代の宮廷には北京故宮にあるような大規模な水時計があったが、平家が「都落ち」で殿上の間の庭にあった「時の簡(ふだ)」を奪い去って以来、時計にかんする記述はまれになってゆく。もちろん時の鼓や鐘、貝(ほら貝)などの記録はあるから、何らかの方法で時を知り、時刻の報せはつづいた。カレンダーに関しては朝廷発行の具注暦が当時の貴族の日記などに使用されのこっているが、中世には朝廷にかわり寺社が頒布する民間暦も普及。おそらく代々朝廷に仕えた暦家が各地に離散し作成したものであろうが、戦国期には小田原北条氏が伊豆三島大社の暦を採用したとつたえる。

 暦法は王者の権威を表すものだから、その原理の導入元はともかくも、日本では大陸の朔を奉じず、日本独自の元号が定められた。したがって渡来人が朝廷から日本の「姓」を与えられていなくても、たとえば渡来僧が日本の年号を用いていれば、元(モンゴル)への帰属を否定し、亡命帰化したといっていい。南朝では北朝の年号をもちなかったし、また足利・戦国初期には中央権力を否定するかのような、「私年号」というものも行われた。インテリ層も含め、広範囲に用いた例があるから、鎌倉公方府のような大きな政体が関っていた可能性がある。江戸幕府は朝廷の陰陽寮に代り、より精密な暦を作製した学者を後援、天文方を設けて暦の作成に関った。鎌倉幕府にも陰陽師はいたが、作暦に関与したかは不明。・・・



五合枡土塁上からみた幕府方面
 「太平記」はつまるところ文学作品であって、しかも一般によまれている流布本以外にも異本が多いことは、レポ241でも述べた。同時代史料には、各地にのこる軍忠状がしられていて、「十八日より合戦を始め、毎日連々数戦を企て、同二十二日既に鎌倉の凶徒等を追い落としをはんぬ」(結城道忠軍忠状案)。つまり稲村ヶ崎関係では、大館による最初の突入から高時一門の自刃に至る、基本的な日付はどれも一致している。問題は「稲村ヶ崎」を完全に開放するまでの子細な経緯であって、「太平記」にはのっていない激戦が、様々にくりひろげられていたことがわかる。

 新田義貞(1301?-1338)の祈祷による「干潟の奇跡」は、すでに明治38年、久米邦武(1839-1931)が「南北朝時代史」(1905、早稲田大学出版部)において否定していた。文献学者であった久米が用いたのはまさしく軍忠状であった。基本文献のひとつ「和田系図裏書」は当時すでに続群書にもはいっており、特異な未公開文書ではない。いつまでも「干潟の奇跡」にこだわりつづけてきたのは、元弘の「神風」同様、俗説俗論におもねた学者たちの怠慢でもあり、またそれだけ「太平記」の文学的魅力がひろく世間に浸透していたからだろう。では軍忠状にはどのように書かれてあったか。

○ 五月十八日、経顕・経政、最前に片瀬が原に馳せ参り、則ち此の御手に属し奉り、稲村が崎の陣を懸け破り、稲瀬川、并に前浜の鳥居脇まで合戦に忠を(致す)処、若党犬居左衛門五郎茂宗・小河彦七安重・中間孫五郎・藤次男等、討ち死にせしめ訖んぬ(天野経顕軍忠状写)。
○ 同十九日、極楽寺坂合戦に於いて先手に馳せ向かひ、家人丸場次郎忠邦、怨敵三騎討ち捕り、同山本四郎義長討ち死にの事(塙政茂軍忠状)。
○ 同二十日、新田遠江又五郎経政(*新田一族の岩松田島氏)の御手に属し奉り、軍忠を致すに就いて、鎌倉霊山寺の下に於いて討ち死にしをはんぬ(熊谷直経軍忠状)。



浜の大鳥居
 軍忠状とは恩賞を申請するための申し状で、当時は先陣・手負い(怪我)・討死になどが軍功評価の基準になっていた。18日の大将は「梅松論」では新田大館宗氏(1288-1333。義貞祖父の従弟)としている。「五月十八日未刻ばかりに、義貞の勢は稲村崎を経て前浜の在家を焼き払ふ・・・高時の家人諏訪・長崎以下の輩、身命を捨てて防ぎ戦ひける程に、当日の浜の手の大将大館(を)稲瀬川にをいて討ち取る。其の手引き退いて霊山の頂に陣を取る」。すなわち大館は稲瀬川附近で死に、長谷新宿の大太刀稲荷がその故地というが、定かではない。

 一方の「太平記」では大仏貞直の部下・本間山城左衛門の軍忠として、「五月十九日の早旦(*寅刻、午前3-5時)に、極楽寺の切通しの軍」を破って攻め入ろうとしていた「大将・大館二郎宗氏が三万余騎」を打ち破り、七里ヶ浜に押し返したすえ、ついに大館を討ち取った、としている。現在の十一人塚はこの説にもとづくようだ。「干潟の奇跡」のあと、鎌倉に進撃した人数のなかにも「大館」の苗字はみえるが、「大塚員成軍忠状写」によればこれは子息・孫二郎幸氏であるらしい。

 これら軍忠状に依るならば、18日に前浜まで攻め入ったのは明らかだし、ぎゃくに鎌倉側から押し返され、19日の極楽寺坂合戦も史実、その後諏訪・長崎らが「霊山の頂に陣を取」ったため、20日以降、その霊山仏法寺附近で激闘が続いたことも裏付けられる。わからないのは大館がどこに在陣し、いつどこで死んだかについてだ。霊山合戦について、「太平記」はほとんど何も語らない。



崖下はすでに埋め立てがすすんでいる。調査報告書は図書館・市役所などで
○ 右・俊連(三木村惣領)、同行俊・同貞俊(*ともに弟)、并びに一族・申承せる(*付きあいのある)傍輩等に相触れ、当国の者を引率せしめて罷り立ち、一番に日の(*当日の)大将軍・新田蔵人七郎氏義(*新田一族、里見大井田氏義かという)に属す。去る五月二十一日、引き籠る敵、霊山寺の大門にて、大手(稲村崎)の軍勢を散々に射るの間、打ち入り難きの処、俊連、峰より折り下り、先を懸けて敵の籠る大門の挿し板を打ち破り戦ふの間、若党・羽生田九郎太郎盛政(右肩を射らる)、藤木田太重連(左腕・右かいかねを射らる)、中野卿房良賢(左腰の上を射らる)、数輩疵を被ると雖も、身命を捨てて戦ふの間、朝敵を追ひ落とし訖んぬ。将(は)た又た俊連、霊山寺の峰に責め上り、夜闇に及んで戦ふの処、又た若党・奥富兵衛三郎俊家(右肩の上を射らる)、疵を被る事。巨細勒して目安とする所なり(「和田系図裏書」所収・三木俊連申状案)。

 稲村道を扼する霊山崎の頂上には、五合枡という土塁がのこる。その下には五合枡遺跡という平場が極楽寺坂にむかって続き、さらに海側にも、霊山仏法寺跡の平場が展開する。現状、何千人も籠るような要塞ではないが、当時はたぶん道がせまく、ここを陥落させなければ、多人数が容易に府内へ攻め込むことはできなかった。で、21日の「夜闇」にいたる激戦により、ようやくここを占拠。新田軍はさまたげなく府内に動員できるようになった。まだ日付が21日の段階で前浜・浜の大鳥居に至ったとする軍忠状もいくつかあるが、午前3時以前に突破していれば日付はそれでいいわけで・・・つまりこれが「干潟の奇跡」の実体だったのだ。

 稲村道は極楽寺切通しができる前の本道で、「海道記」などでも、とうぜんこちらを通っている。稲村道に相当するルートはすでに舗装道路になっていて、大仏坂や朝比奈・名越切通しにのこるような険峻な切通しの痕跡は、もはや確認できない。仏法寺跡は大正時代に公園になるなどしたが、大正震災で南側が大崩壊するなどして荒廃、現在は立ち入り禁止。海側にあったであろう「大門」の位置もさだかでなく、東勝寺跡で発掘されたような石段や石垣などの遺構があったにせよ、700年の歳月を経てすべて崩落してしまったにちがいない。調査報告書の表紙写真(左)にはその崩壊面があきらかだ。


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