トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第392号 


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もちださんの鎌倉リポート No.392(2021年4月23日)



No.391
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秘仏と廃寺・・・2



このひとだけ「撮影可」
 一年ほど前、12年にいちどの御開帳が途中打ち切りとなった、旧小机領三十三所霊場子年観音霊場について触れた(レポ375・378)。それらの仏像の多くが先月まで横浜市歴史博物館の特別展「横浜の仏像 ―しられざるみほとけたち―」で展示され、コロナ下にもかかわらず盛況だったのでごらんになった方も多いだろう。県内に平安・鎌倉仏は意外におおく、たいていは非観光寺院に死蔵されて拝観の機会もなく、調査も修復も文化財指定も、あまりなされていなかったりする。

 去年は最終日に長源寺(旭区上川井)で手間取って、平安仏のある寺山【慈眼寺】(緑区寺山。下写真)の観音堂には間に合わなかった。歩いたのがまずかったのだが、コロナだからまだ明るい内に閉めたらしい。ここは縁起が一切不明、いまの寺(本堂)は別当坊としてあとから出来たものらしく、観音堂はやや離れた高いところにある。本堂裏の不動の滝は枯れていて、その上の畑は開発で切り落とされて、森の台という新興住宅街になっている。むかしの友達がすんでたあたりだから知らない場所ではないのだが、古仏があると知ったのは直前だった。寺山という地名だけに、きっとふるいゆかりがあったんだろう。



寺山慈眼寺の参道。観音堂はさらに左の坂の奥
 残念ながらこちらは特別展には来ていなかった。でも真福寺・西方寺・長源寺など、じっさいの寺で見た仏像のいくつかは明るい場所で木目まで子細に拝めたのだし、ほんものを見る、ということは誰もみたことのない角度とか、印刷された写真にはない質感とかをみつけることだ。和尚や学芸員はテレビに紹介されただの、グッズが発売されたのと、独占的撮影権や著作権をこねあげ、小出しにして得意がっているが、わたしたちはそのようなことを望んだり、羨んだりするわけではない。

 歳をとると花より木が好きになる、とどこかのイギリス人がいっていたが、仏像もまた引っ越したり嫁にいったりしないし、姿形もそんなには変わらない。秘仏をただ誰にもみせたくない、じぶんだけの箱入り娘かなんかのように思っている和尚もいるのかもしれないが、見せなければ価値はつたわらない。災害でうしなわれても、姿かたちが知られていなければ惜しむものはいない。西方寺の観音は小学生くらいのおおきさ、東日本大震災で足臍(ほぞ)が折れて転倒したらしいが、マーメイドラインの衣の裾にのぞく足先をみると、たしかに雑でひどく華奢なつくりであって、後補のようにみえる。

 弘明寺の有名な十一面観音(重文)は、左肩をさげ首をわずかにかしげて、どの角度からみても円空仏のように微笑んでいる。カタログ写真にはない、ななめ下とか、見上げる角度とかに目を動かすと、実にかわいい。鉈彫りといって、鑿ではつった跡を故意に残した独自の作風が注目されがちだが、「かわいくスマイルしてね」と生徒会長が歌っているように、仏像にも愛敬がひつよう。他人の笑顔が見たいなら、じぶんがまず笑わなくちゃ。



ベース‐イメージは博物館HPより
 荏田真福寺の千手十一面観音には発見もあった。この観音の手は八本だが、スクリーンの裏側からのぞいて見ると、後ろの2手は背の腋のあたりに穴を開けてむりくり挿してある。もちろん幹材(原木)からはみ出すぶぶんや細かな箇所は、当初から別材であっていいわけだ。ただ千手観音のばあい、手を植えるための付け根を背負っていたり、あるいは手を植えた光背と連結させる臍(ほぞ)のようなものがあるはずだが、この像の背中にはそのような様子はみられない。肩の鹿皮(着物)にも2手の生え際を示す「第二の肩」のような形状はなく、この2手が当初からあった痕跡はない。また、頭上の「十一面部分」も後補らしい。

 いっぽう前の6手は、左右とも一本の二の腕から三手が肱で分裂しており、定印をむすぶ下の腕は腰にめりこんでいて、中の合掌手も胸に密着、当初から胴と一木であったようにみえる。上の手の掌には穴が開いていて、おそらく日月か法輪・宝塔の類いを戴いていたのだろう。ただ上の手は継いであるので、手先の形は補修後の改造かもしれない。損傷しやすい手先・持物の変化はあらゆる仏像に共通の問題であるのだが、これが千手十一面観音の原型のひとつ、雑部密教時代(奈良時代)の不空羂索観音なら「羂索」、すなわち魔法のロープは必須。ただしこの像のばあい、ひらいた上の手いがいに持つ手がない。「不空羂索観音」はふつう3眼8臂であり、4臂・6臂とする儀軌(唐招提寺)もないわけではないが、定印を結ぶものはほとんどなく、こちらの像には3眼であった痕跡もないので、定印を結ぶ准胝観音などを経て、ごく一般的な千手観音への収斂進化が進んでいるとみなされる。

 観音のさまざまなすがたは「多様な褒め言葉」を形象化して付加したものなので、なにが正解で正当、とかいうものではない。千手十一面観音の奇怪なすがたは、もともと「観音様」のもつ絶大なパワーをインド最強の神・シヴァ(大自在天・摩醯首羅マヘーシュヴァラ)に喩えて賛美したのがはじまり。ちなみに、シヴァ神の姿がもつ狂暴凶悪な部分は、おなじく羂索をもつ不動明王や蔵王権現などの形態にも転用されているほか、摩醯天頂眼は禅語にもみられる。


 さきに、ぞんざいに紹介しただけの長源寺の観音像は「鎌倉〜南北朝」のものらしく、ルージュを引いたようなきれいな彩色や、よく透き通った水晶ビーズなどの宝飾類は明治の修復時につけられたらしい。それで明治頃の擬古作のようにもみえたのだが、たしかにいわれてみれば、明治の研究ではここまで忠実に中世風にはできないかもしれないし、また大事に厨子にしまってあったなら、胸から下を「古色仕上げ」になんかしないだろう。

 後世の彫刻家は古仏のうちでも、優れた作品のすぐれたぶぶんしか吸収しない。ぎゃくにいうと、きれいに塗られてしまった場合、まねされ易い優作レベルの仏像では、かえって年代判定がむずかしくなる。そのうえ長源寺の観音像は「風土記稿」に一尺五寸とあり、子供大でゆうに三尺はある該作とは明らかにサイズ感が異なる。この寺も、参道の中軸線にあるのは観音堂で、右隣にあたる本堂は別当寺としてあとから出来たものらしい。ただ中世からあったとしても、村の堂の仏像としては出来がよすぎるから、あるいはこれも、称名寺あたりから移されてきたものかもしれない。

 現地でとった観音堂の写真にちいさく映っているのを限界まで拡大してみると、まあ古いデジカメでの解像度はこの程度なのだが、なるほどピンボケでみたほうが実際の印象より、ぐっと古くみえる。よく「後世の修復で像の印象を損ねている」という解説を目にするが、この像に関しては比較的よい方。展示されたいくつかの仏像では、金箔がぎらぎらに貼られていたり、真っ黒すぎて細部がよくみえなかったり、いぜんスペインで話題になったような、稚拙な彩色が全身をおおっている例もあった。そのいっぽうで、剥がれおちた当初の金箔などが斑模様になって目鼻立ちをうかがいにくくしていたり、あるいはぶきみな隈取りになってホラー感をただよわせ、しぜん見た目の印象を劣化させているものもあり、どう修復すべきかも考えさせられる。


 会場内は撮影禁止だったので、これは本牧・八聖殿にあった明治の仏像の例。よほど保存状態がわるかったのか、まるで古仏、しかもいい按配に古色をかもしだしている。ひだり側は右手にのこる彩色の剥落とうきあがった木目、衣の金彩紋様を写したもの。みぎ側は右腕にのこる鑿跡に注目してみた。ちいさい写真で見にくいかもしれないが、こうした細部の肌合いにも、作り手の技術がうかがえる。

 特別展では、こうした細部の「どアップ写真」もいくつか掲示されたりと、マチエールにも注目があつまっていたようだ。たとえば素材が神木だったばあい、かならずしも彫りやすい木だとは限らない。実際に彫刻を彫ってみると、木材によってはウエハースのように柔らかくスカスカの部分があったり、目が詰まって竹のように硬く粘っこいぶぶんがあったりと、けっこうむずかしい。翻波式衣文がなんちゃら、といった専門的な解説よりも、木そのものの素材感・扱い方のほうが気になる。

 展示室のいりくち附近には寄せ木造りの仏像(平安時代)の残欠【写真1】があって、これだけは撮影可。ただし大正震災でバラバラになったものらしく、紐などでむすび仮組みしてはいたが、もはや風化欠損して穴だらけ。寄せ木造りのばあい木地が薄いので過度に乾燥し、衝撃により一部が粉砕されてしまったのだろう。鎌倉図書館のHPにも円応寺や覚園寺におけるバラバラ遺体の古写真がみられる。覚園寺の諸仏は戦後までじっくり時間をかけ、古色をのこしながら文化財として上手に復元されたのだが、いまも金属の支柱にワイヤでとめてある。当時の和尚の意識が低ければ、さっさと安い仏具屋に任せて、ケバケバに塗られてしまっていたかも。岡倉天心やフェノロサによる美術教育の意義はおおきかった。



未敷蓮華をもつ聖観音・体は後補の宝冠釈迦
 さて、新型コロナcovid19のいきおいは、いまだやみそうにない。パンデミックが、欧米より一年も遅れてやってきたのはなぜなんだろう。しきりに集団飲酒の喜びを煽る日本の文化人やマスコミが、人為的に引き起こしたと考えるほかはない。ただでさえアルコールが人体に及ぼす害毒は、たばこや覚醒剤、ヘロインのたぐいをはるかに上回ると、英・ランセット(The Lancet)などの主要な医学誌は指摘している。にもかかわらず、いまだ「酒は百薬の長」だなどと、名も知れぬ医師が開化以前のことわざをさも自慢げに教訓し、記者がしきりに感心するといった茶番を繰り返している。スポンサーのステルス‐マーケティングに協力しなければ、メディアはけして納得しない、といった無限ループの構図があるのだろう。

 「飲酒」がクラスター感染の主要な成因であることはどんなばかでも知っているのに、「オリンピックで感染爆発」だの「昼間の小町通りが密状態」などと、他の理由を発明しぐずぐずと話題をそらす。酒飲みの「被害」だけを執拗に尊重、あげく「蔓延防止措置の影響をうけた盛り場」に巨額の損失補填金を投入しろなどと、最初から最後まで、とことん加害者利益の確保ばかりを吼えまわってきた。飲み会は全員参加、拒否するものは協調性のない暗い性格のひきこもりで、社会的不適合者とさえ、決め付ける。そんな烙印を押される恐怖によって、人々は容易に加害者の意思に「同調」させられる。報道各社は責任の所在を転嫁するかのように、中卒・高卒のお笑いタレントらにニュース番組の司会を委ね、台本どおり過激にはしゃぎまわるよう、強要してきた。

 しばらく断酒・節酒するのが、そんなにむずかしいのか。ストレスによって酒をのみ、世界の滅亡を願う若者がいるのはたしかに気の毒だ。だからといって、飲ませようとする社会はただしいのか。「弱者にアヘンをあたえる」ような福祉行為を、はたして善意といえるのだろうか。酒税をひきあげ、物理的に安酒を飲めなくする工夫は必要だと思う。休業要請なんて、未来の税金に重い負担をツケ回すだけ。いやしくも知識人をなのるのなら、そのくらいのことは言われなくても判かれ。・・・


 横浜市歴史博物館の地は、茅ヶ崎杉山神社の旧社地。いま神社は「御旅所」の場所にうつしてある。博物館の傍らにちいさな丘が開発で切りのこされ、吾妻山公園といっているが、これが神社の森のなれのはてだという。ほぼ斜面だけの公園って、それにしても変。

 もよりの市営地下鉄センター北駅の反対側、四面が削られたコンクリの崖のうえにたつ大棚【慈眼寺】は、吉良七ヶ寺のひとつ、「大徳寺」の後身であるという(レポ381参照)。ここにも鎌倉末期という観音像があるらしいのだが、公開はしていないようだ。本堂前の宝篋印塔は文化六年、19世紀のもので「当寺二十七世老比丘専栄」、「六十二はや定命の鐘のこへ・・・」なんて辞世の句も彫ってある。二十七世ということは、まず戦国以前に創建ないし中興されたことはまちがいない。

 まあたらしい墓地には近世の墓石もちらほら整理されているが、中世にさかのぼる板碑・五輪塔などの類はみあたらない。「風土記稿」によれば、元亀年中に浄海なる者の中興、傍らにある大棚杉山神社の別当寺になっていたらしい。それいぜんは大徳寺といって、やや谷戸の奥、いまの駅のあたりにあったようだ。永禄年に全焼し廃絶、たぶん小田原攻め1561のさい、各地を放火略奪しながら撤退したと伝える謙信のしわざのようだ。現存する古文書の写しに、吉良頼康が「吉良七ヶ寺」として重視するようのべた翌年のことで、頼康じしんもなぞの死をとげ、養子が家督を継いだものの、世田谷吉良氏の「血筋」は、実質的にほろんでしまう。こうして祀る者をうしなった大徳寺の記憶は、ほぼ完全に消え失せてしまった。わずかにのこる古仏は、何かをつたえているのだろうか。


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