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もちださんの鎌倉リポート No.393(2021年4月30日)



No.392
No.394



大休語録・1



浄智寺にて
○ 守殿、円覚寺開堂にて垂問す。「斎(とき)に饅頭を設く。衆中に咬み破り得る者も有らん、咬み破らざる者も有らんは麼(いかに)」。予、手を伸ばして云く、「快下に将(も)ち来たれ」。仍て一偈を成す。
 当陽に拈出す鉄酸餡、
 普く供ず十方賢聖の僧。
 歯無くして趙州親(まのあた)りに咬み破り、
 也(ま)た知る有箇の人の憎みを得ると。

【大意】 執権北条時宗殿が、円覚寺開堂の儀式について問い合わせてきた。「僧たちのご馳走に、饅頭を出そうと思う。しかし老僧も多いから、噛み破ることが出来ない人もいるかもしれない。どういたしましょうか」。そこで私(大休禅師)は「どうか気になさらずお持ちください」と答えた。なぜなら、
 面前に突きつけられた鉄饅頭はわれら禅を学ぶすべての者にとって、
 古来問われてきた有名な禅の公案じゃ。
 かの趙州禅師なら歯がなくてもバリバリ食ってしまうし、
 幾人かは「これまた心憎い質問をするものだ」と仰天することじゃろう。


 これは内閣文庫の「大休禅師語録」に載っている話。仏源禅師こと大休正念(1215-1290*)は、禅興寺・建長寺・寿福寺・円覚寺などに歴住、浄智寺・大慶寺などをひらき、鎌倉にもっともゆかりふかい鎌倉時代の渡来僧のひとり。右の本は1378年に出版された木板本、いわゆる「五山版」の類いで、林羅山の旧蔵本でもあるという。江戸時代の漢籍とほとんど変らないものが、中世における主要な禅宗寺院の周辺では数多く編纂・刊行されていた。なかには宋・元の名僧に送って読んでもらい、序文を請うなどしたものもある。

 さて、当時の饅頭は、たぶん唐菓子のことで、日持ちがするよう、乾パンやプレッツェル並に硬くつくった保存食、「揚げ餃子」のようなものを指していた。唐菓子はいまでも中華街で「中華かりんとう」「中華揚げパン」などとして売られているし、京都などでは寺社向けに、空海が伝えた古代のレシピにもとづくというふれこみの、奇妙な巾着形の唐菓子「清浄歓喜団」などを売る店もある。これは相当硬いらしい。

 輸入の物はもちろん何ヶ月もの保存に耐える「お供え用」のものだったにちがいなく、これをどのように工夫して柔らかな和菓子の饅頭に進化させたか、くわしい経緯は不明。ただ餡を日持ちさせるには貴重な糖や蜜・飴類をふんだんに使ったであろうから、当時としてはかなり甘く、「お供え用」のほうがむしろ贅沢な珍味であったと思われる。この鎌倉後期の記録では、蒸して柔らかくするのでもお茶でふやかして食うのでもなく、固いまま、ナッツのように歯でかち割って食っていたことがわかる。菓という字はそもそも木の実のことなのだ。



江戸期の寿福寺。「鎌倉攬勝考」挿絵より
 禅の公案にみえる「鉄酸餡」は、皮が鉄で、中身も肉や甘い餡ではなく酸っぱい漬物で、味気なく味わい難いものとして表現される。禅のさとりというものは、けして美味いもの、甘いもんじゃない。未熟な者が執着し、安易に酔いしれるような法味、自分は悟っている、自分は正義だ、などと浮かれるようなものはすべて贋物であり、むしろ禅宗のもっとも嫌うべきものだった。未熟な者にたいしては「おまえの仏など道端で干からびた糞(犬も食わない)」「そんな仏は殺してしまえ」とまでいっている。まずい鉄饅頭を己のちからで噛み砕き、美味いといえるようなものだけが真のさとりに到達できるという、一種逆説にみちた判じ物なのだ。

 大休の交遊は「偈頌雑題」という章にまとめられ、おもに蘭渓・蔵叟朗誉・北条時宗らに贈った詩文がめだつ。蘭渓道隆(1213-1278)はいうまでもなく初めて鎌倉に定着した渡来僧で、歳は近いが文永六年1269来朝の大休より、滞日歴は二十年以上の先輩。蔵叟朗誉(1194-1277)は日本僧で、大休が定住を意識した寿福寺前住の老人であり、栄西派で禅の法系はちがっていたものの、いい相談相手であったようだ。執権時宗(1251-1284)は元寇にさいし無学祖元(1226-1286)に帰依心酔したとされるが、それは最晩年のほんの数年にすぎず、蘭渓が老境に入り、かつ物故してからは、大休がいわば渡来僧の長老格として相談相手になっていたようだ。

 いまは円覚寺にある大休の塔頭・蔵六庵は、はじめ寿福寺にあった。霊夢にみた観音のお告げにもとづき、ここを臨終の地とさだめ、「寿福に於いて、巌壁を鑿開し殿宇を建て、聖像を立てて」云々、といっている。当初の蔵六庵はのち弟子・険崖巧安の悟本庵にうけつがれたとみられ、故地は本堂南西、いま石壁のように削られた尾根筋にいくつかの廃トンネル(帰雲洞?)や源氏山登り口のあるあたり。また石切山の半腹に観音堂、頂上にも小庵と寿塔がたてられたという。同寺には蔵叟朗誉も開山塔にあたる逍遙庵(*現在の墓地附近)をひらいていたから、退官後はじじい同士、「物外に逍遙して世慮を忘れ、筇(つえ)に倚(よ)りて閑看せん白雲飛ぶを」・・・といった、のどかなご近所くらしを楽しもうと思ったのかもしれない。



当初の蔵六庵があったあたり(GoogleMap)
 蔵六とは「亀」のことで、足の四つと頭尾、あわせて6つを硬い甲羅にしまっているから、身を隠す場所、入定の地という意味にもなる。寿福寺の山号は亀谷山である。観音のお告げでは「強に逢はば則ち止む」となっていたが、大休は「強」の字を「亀」と解した。「強」の字は一説に「彊(剛弓)」と「虫(爬虫類)」が合体して生まれた文字とされるから、剛い爬虫類といえば亀、・・・最後は亀谷山寿福寺で生涯を終える、と理解したようだ。いまの感覚からすれば意外と迷信深い感もあるが、当時は易学とか天命だとかいうものは哲学宗教とは別次元の、物理科学の法則のようなものと固く信じられていた点も考慮する必要がある。

 時宗との交流は、「守殿の府中にて雪韵を賦す」「斎粮を送るを謝す」「守殿の示至する白居易の長編の韵、以て自づから意を見て和す」「守殿に新茶二を送り、兼ねて恵茶を謝し、趙州と同列に問ふ」「守殿の剳子紙を送るを謝す」「菖蒲石を送るを謝す」「守殿の斎に接見せざるを謝す」「筍を送るを謝し韵に和す」「守殿の銅獅の香炉、師児に対するに題す」「守殿の柏樹を送るを謝す」「小袖を送るを謝す」「饅頭(前掲)」・・・などとつづく。

 時宗は30ちょっとで死んだので、これらは元寇前の20代のことと思われる。詩筵で賦をつくったり、贈り物の礼状に偈頌を添えたりと、実質的には韻の踏みかたをはじめとする漢詩のつくりかたを教授していたようだ。時宗が示した白楽天の詩は日本でだけ流行っていたもので、宋・元では廃れ、宋詩では黄庭堅、唐詩ではこんにち同様、杜甫の評価が高かった。禅の教えとしては、「趙州喫茶去」、むかし趙州という名僧がだれに対しても「茶でも飲んでいけ」といった故事を示すなどしている。趙州の真意は相手を親疎とか身分、見識の長短とかいったもので先見をもって評価・差別してはならぬ、法もまたおなじだ、ということらしい。これは茶道の原点にもなった。



石塀状に刻まれた尾根(点線)には「やぐら」がある。中央付近にはトンネルも(同)
 「守殿、大会に般若経を書かんとて、垂問す。般若は大火聚の如くにして、これに近づけば則ち面門を燎却す。諸人は如何にして筆を下さん。師、手を以て空中に点一点せよ」。この般若経は600巻もの大部におよぶ大般若経のことだろうか。おおきな法会には「如法経」といって、諸人が分担して書写し、各人がその能力にしたがって供養するということがあった。いわゆる「平家納経」もそのひとつだ。

 時宗はいう、「般若は大火焔のようなもので、安易に近付けば大ヤケドするといいます、私たちはどう書写したらいいでしょう」。この「般若如大火聚、近之則燎却面門」というのは禅語の引用であるらしく、大正蔵テキストデータベースという検索サイトでしらべると「大慧普覚禅師語録」「密菴和尚語録」というのがヒットした。「般若如大火聚」というのはもともとの経典では、さまざまな災いを焼き尽くすありがたい経典、という肯定的な意味で使われた。しかし禅では、経文はおしなべて初心者が好き勝手に解釈する余地があり、けっきょく自己満足の迷妄に囚われてしまう原凶であって、読む者の人生を死ぬまでスポイル(腐らせる)するものだと断定。「圜悟心要」には「得たる底(*理解したつもり)の人は、ただ閑々地たるのみ、・・・甚(なん)の道理をか得ん。若し針鋒許りの有無得失、我見我解有らば、則ち命根を刺却す。須らく知るべし、猛火聚の如くにして、之に近づかば則ち面門を燎却す、と」とある。

 大休の返事は「手に信(まか)せて毫端に軽く点著するも、真金は火に入り転じて輝きを増す」、つまりあなたはちゃんと解っていらっしゃるのだから大丈夫、というものだった。時宗はおそらくこれらの語録を大休に学んでおり、今回の如法経書写について大休がどう思うか、心配になって問い合わせたのだろう。普覚禅師こと大慧宗杲(1089-1163)、密庵咸傑(1118-86)はともに「碧巌録」をつくった圜悟克勤の弟子筋にあたる。当時唐土ではまだ「碧巌録」は禁書だったので手に入らず、大休は宋版の大蔵経(東禅寺版・開元寺版)などにも収められ、比較的手に入りやすいこれらの語録を講義のテキストにしていたのだろう。ちなみに「碧巌録」は13世紀最末年に復刊され、日本には竺仙梵僊(1329来日)が広めたという伝承がある。ただそれにさきだって、早々に引用したとみられる板碑などの金石文もあるようだ。



現在の蔵六庵は円覚寺境内右側の墓地のほとり。五年前には大休の彫像も新造された
○ 青山是の処に骨を埋づむべく、 
意を著すも安排の事転乖せり。
却つて憶ふ西帰に隻履を携へんことを、 
従教(さもあらばあれ)大地に屍骸を露はさんとも。

 これは死期をむかえた大休の独り言。「蔵六庵に感有り、因りて三偈を述べて自見す」と題した詩偈のひとつ。「人間(じんかん)到る処青山(*死に場所)あり、という。ここに骨を埋めようと決意してきたが、計画どおりには行かなかった。むしろ片方の靴だけをもって西の国へ帰ろうとも思う、たとえどこで野垂れ死にしようとも」。「隻履」とは達磨が毒殺された後、熊耳山の墓に片靴をのこして天竺に帰ったことを指すが、これは遷化の暗示であるとともに、元に占領され滅亡した故国・南宋への佯らざる郷愁をもいみしていた。内乱外征が一段落し、元にいちおうの平和がおとずれるのは十数年後、14世紀にはいってから。別の偈には「故国の山川復(ま)た見ること無く、夜来夢に帰して雲煙遶る」という句もみえる。時宗が死んで、つぎの貞時(1272-1311)はまだ子供。知人もだんだん減って来た。それは、唐土に帰っても同じかもしれない。それでも魂の半分くらいは帰りたい・・・。

 「思ったようにはいかなかった」とは、どういうことか。まず日本には蘭渓が来て1246、建長寺をひらく1253。禅に心酔した時頼はさらに翌年、京都から栄西ゆかりの円爾を寿福寺に招いた。やがてふたりの僧は時頼と話し合い、南宋禅宗の大物・兀庵普寧を招聘(建長寺2世1260)、ともに京都に退く。ただ蘭渓は追い出される形で各地を点々、ふたたび鎌倉に舞い戻り、禅興寺をひらき隠棲。が、兀庵が帰国1265してしまったため建長寺に再任、大休が日本に来た1269のはそんな折だった。まず蘭渓の禅興寺に招かれ、やがて建長寺3世となる。蘭渓には宋より同行の弟子などもいたが、大休の経歴を信頼し、託したのだろう。



建武年間の蔵六庵は境内外側、西管領屋敷ふきん
 文永の役1274をへて、大休は蘭渓の弟子・義翁紹仁に建長寺をゆずり、蔵叟のいた寿福寺に遷る。やがて蘭渓が没してその翌年、北条時頼は南宋をほろぼした元から、名僧・無学祖元を招く(建長寺5世1279)。大休が浄智寺の名誉開山1281にされたのは、後から来た無学がその翌年、円覚寺の開山になることを慮ってのことかもしれない。大休は浄智寺の額を書いたりもしているが住山は断わったようで、浄智寺名義の語録はない。やがて無学が死に1286、大休は円覚寺の2世となるが、三年後、そこで病みついて死ぬ(西暦表記では1290*)。そのあたりを「本朝高僧伝」で見てみると、

○ 正応二年(*1289)の冬、円覚に於いて病寝す。十一月、病革まり正観寺に遷る。晦日、偈を書して曰く、「須弥の槌を拈り起こし、虚空の鼓を撃ち砕く。身を蔵(かく)し影踪を没す、日輪正に午に当る」と。筆を置きて化す。春秋七十五。闍維(*荼毘)して霊骨を収む。設利羅(*舎利)を灰裏に得ること算(かず)無し。諸徒奉じて亀谷の塔に閟(と)づ。語録六巻有り。勅して仏源禅師と謚す。

 まだ円覚寺山内に塔頭はなく、大休は住持として方丈に住んでいたようだ。「正観寺」は古絵図に総門の西、いまの北鎌倉駅裏改札ふきんに描かれており、たぶん円覚寺の退去寮として取り込まれた小寺院だったと思われ、西礀子曇もここで没している。「亀谷の塔」とは甲申の年1284、まだ寿福寺にいた七十歳のとき、みずから塔銘もしたため、蔵六庵の裏山に用意しておいた生前墓(寿塔)、「円湛無生塔」のこと。無生とは不生不滅、生死そのものにこだわりはない。心のこりというのは、夢のお告げのままに、そこで静かに死にたかった、ただそれだけだったのかもしれない。その塔があった山頂は景色もよく、望夫石などとも呼ばれたようだが、現在立ち入れない。その展望が災いし、東勝寺に対峙する格好の砦にされるなどして、たぶん荒廃してしまったのだろう、幕府滅亡の直後、蔵六庵は急遽円覚寺の門外・古蔵六に移築され、寿福寺に戻ることはなかった。


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