トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第395号 


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もちださんの鎌倉リポート No.395(2021年5月11日)



No.394
No.396



髑髏盃・1



大町・教恩寺
 盲目の漢詩人・高野蘭亭(1704-1757)の髑髏盃伝説は、澁澤龍彦さん晩年の短編(短編集「うつろ舟」所収)でもしられる。まずは元ネタとなった江戸の作家・百井塘雨(?-1794)の「笈埃随筆」巻之十二から。

○ 相模国教恩寺に中将重衡卿と千寿前と酒宴せし時の盃あり。大きさ今の世の平皿の如く、内外墨塗にして中に梅花の蒔絵あり。予、東武にありし時、高野蘭亭といひしは盲人にて詩人なり。此の盃を如何にして乞ひ得て秘蔵しけり。又た此の盲人、髑髏盃を拵へんとて、世の常の人の頭は面白からずとて、江の島弁天へ罷りしまま、其の序で鎌倉に有る大館次郎の塚を暴きけるに、忽ち青天かき曇り雷雨夥しかりしを、辛ふじて取りて帰り盃とし楽しみけるが、其の翌年其の月其の日に死したり。平人の墓すら猥りに暴(あば)く事は有るべからず。況(ま)してや勇士の霊、何ぞ其の侭に置くべき。此の者、元来盲人にて詩作などする気質ゆへ、万づに慢心甚だしき故にや、かかる災ひにもあへり。恐るべく慎むべし。(雑説八十ヶ条・廿一)



百井塘雨「笈埃随筆」該当部分
 以下、「因みに曰く」として髑髏盃をつくった和漢の前例の数々、唐土の趙襄子や織田信長などの逸話がつづくが、異本には「嘉栗云く」となっていて、著者・百井塘雨本人ではなく仙果亭嘉栗ら、別人による補筆ないし頭注の竄入とみられる。また写本のひとつには「十方庵遊歴雑記」の著者で紀行作家として名高い釈敬順(1762-1832)の序文があり、複数人が編集にかかわっていたようだ。

 国学者の役割のひとつに、こんにちの民俗学にあたる、民間の口碑・伝説の蒐集があった。旧来の儒学者による史書においては「愚民の説」「ばかげた迷信」として安易に切り捨てられ、あるいは権力に都合がいい「合理的な解釈」に作り換えられるなどして湮滅してしまうような口承・異説のたぐいも、ありのままに記録することが求められるようになった。百井塘雨も、そのような立場から全国を旅行し、「八百比丘尼」などの珍談奇譚を集めまわった。「笈埃随筆」は生前出版されることはなかったが、友人で「近世畸人伝」などのヒット作がある伴蒿蹊(1733-1806)が、随筆集「閑田次筆」の巻四「雑話」で引用・紹介したことにより、蘭亭の髑髏盃はいちやく知られるようになった。

 記事の性格としては、「雑説」「雑話」として書かれているように、学術対象としての民話・伝説というよりは雑多な巷説、正体不明なゴシップに近い。また「高踏趣味で難解な漢文をあやつる外国かぶれの儒学者」にたいする反感や敵意、ひがみ根性も濃厚で、視覚障害にたいする差別的言動にまで及んでいる。これについて、記事の紹介に続き伴蒿蹊は次のように記す。



伴蒿蹊「閑田次筆」版本(国立国会図書館)
○ 蘭亭がことは知る人多し。或は云く、此の盲人、父の他国にあるが許へ文を贈る。代筆ながらその指揮のままに門人の書きたるなり。されば難しくてや、いかにも読め難きによりて用事弁ぜず。問ひにおこせたるに、其の返事に、「愚眼にては読め申すまじ」といひ遣りしとなり。その人柄知るべし。其の頃は徂徠門の者ども、文筆に誇りて放蕩を達とすといへる類ひ多し。其の中にて、此の盲人が如きは殊に無頼といふべし。凡そ小人の才能あるは禍の基なるべし。
○ 人として浄不浄の解らぬことはあらじ。又たもとより惻隠の情なきことはあらじを、かかる穢らしくまた惻むべきことをして快しと覚ゆるは、其の身の奢侈(おごり)にくらみて人心を失ひたるなり。唐も大和も戦国の世は、人畜の差別いくばくならず。さるに今の世にしてかかる所為を弄ぶは、何事ぞや。

 伴の筆致は「髑髏盃」の民俗学的考察から逸脱し、「蘭亭は盲人のくせにうぬの才学に溺れ、自分の父親まで愚人よばわりした親不孝者」などと、根拠不明の罵詈雑言、人格攻撃に終始している。そもそも国学は徂徠学と同様、朱子学のゆきすぎた道徳偏重を批判して生まれたものなのに、その朱子学者と口裏をあわせて仁義道徳を唱え、「小人」だの「惻隠の情」だのと観念論に執着。正論であればすべて正しいと思いこみ、激情にかられて理念がことの真偽に優先されてしまっている。そもそも蘭亭の父は江戸の俳人ではやくになくなっており、田舎に父なんていない。愚人よばわりされたと思いこんで一方的に被害妄想をつのらせていたのは、伴蒿蹊じしんなのだろう。原念斎の「先哲叢談」1816には伴の虚言癖を批判し、次のような考証をくわえている。



「大舘次郎の墓」
○ ・・・此れ、妄言を伝聞して他に考へざるなり。蒿蹊これを信じ、以て蘭亭を毀(そし)るは甚だ誤れり。凡そ倭学を修むる者は多く儒学を厭ひ、一味(*ひたすら)漫罵す。蒿蹊も亦た免れず。・・・余(*念斎)聞くならく、「鎌倉には今現に大舘次郎の墓あり、過ぐる者必ず就きて之を弔ふ。奈何(いかん)ぞ其れ、之を発(あば)くことを得んや」と。秋玉山は蘭亭の友人なり。「髑髏杯行」の詩あり、何人の髑髏なるやを知らず、と記す。

 伴蒿蹊がひろめた噂は、事実ではなかった。しかし教恩寺で重衡の盃を見たことは自作の詩によってあきらかだし、秋山玉山(1702-1764*)の詩文「髑髏杯の行」によって、髑髏盃を所持したこと自体も、確実視される。「高子式(*蘭亭)山人は達士なり。髑髏杯を置き時々把玩す。死生を一にし、形骸を遺(わす)れ超然自適す。少年輩、争ひ飲んで豪挙となす。予、独り蹙頞して飲むこと能はず。衆、予が未達を笑ふ。因りて髑髏杯行を作りて自ら嘲り、兼ねて髑髏の為に嘲りを解く」。

 蘭亭はたしかに「髑髏杯」と称するものを所持し、ときどき撫で回していた。蘭亭の塾に漢文を習いにくる若者たちは度胸試しにこれで酒を飲んでいた。玉山はさすがに躊躇したのだが、若者にばかにされたままではまずいのと、蘭亭の深意をかれらに斟酌させるため、髑髏と対話するといった趣向で長編の詩をつくってみた。長いので要点をあげると、「髑髏は生前、大の酒飲みで、むしろ野ざらしの身がこうして大切にされ、死後も飲めることを誇りにしている。生きて功名にあくせくするより、死後のなんと愉快なことだろう」。



蘭亭の山荘があった円覚寺のふもと。GoogleMapより
 「劉伶(*竹林の七賢。酒飲み)や畢卓(*晋書にでる大酒飲み)といった伝説の酒飲みも、死後は一滴も飲めなかったのだから、自分は幸せ者」、という髑髏の言い分はおもしろい。もちろんそれは秋山の空想なのであって、本当にそれが本物の髑髏なのか精巧な陶器なのか、本物だとしたらどこで手に入れ、だれが造ったのかは、秋山にもわからなかった。

 蘭亭ら徂徠一門は「古文辞派」とよばれ、論語をはじめとする唐土の古代を愛した。多くの朱子学者が、理屈っぽい中世の「新儒学」に傾倒していたのを批判、古代の文献をそのままよむことに熱中した。春秋時代、趙襄子が髑髏盃をつくったことは有名で、織田信長が浅井・浅倉の首を髑髏盃にしたなんていうのも、これを元ネタにした与太話なのかもしれないのだが、春秋時代の中国にはまだひろく食人習慣があって、魯迅の小説にもでてくるように、他人の生き肝を食えば「気」が回復し健康になるといった「医食同源」、というより「君の膵臓をたべたい」を比喩でなく実食でおこなう驚愕の思想が、ながくつづいた。

 歌舞伎浄瑠璃の「合邦が辻」や安達が原の「鬼婆」にも、生き肝の秘薬がでてくるから、唐土の風習が知られていなかったわけではない。しかし仏教思想の根強い日本においては、牛馬を食べることさえ忌まれていたうえ、「穢れ」の思想は神道にまで及んでいた。敵を無数に殺傷した戦国武士でさえ、籠城で馬を屠殺しその肉を食わざるをえなくなったときの、無念かつ悲愴な気持を語り残している(大河内物語など)。だが「いけにえ」の神饌は諏訪大社など一部ではつづいたし、アイヌには熊送りの儀式があった。平安前期には貴族も狩をし、内裏にも獲物を献上する棚があった。武士の狩に貴族が眉をひそめるのは鎌倉時代になってから。



境内の小流と明月川
 もちろん仏教にも、例外として高僧の遺骨を舎利として珍重したり、極端な例では立川流密教の秘儀として髑髏をもちいることはあった。西洋でも、「モーツァルトの髑髏」などを賞玩したり、古い頭蓋骨に花冠などの装飾を描いたりする風習はないわけでなく、アダムの骨をあしらった、海賊の旗でもおなじみの思想「メメント・モリ(死を思え)」といった、修養の道具にも位置づけられた。また聖人の遺灰・遺骨が崇拝され、西洋の伝統薬には古代のミイラまであった。

 秋山は蘭亭の性格を「死生を一にし、形骸を遺(わす)れ」と書いているが、これは神仙道にいう仙人の境地なのだろう。それは達磨=仙人伝説のように、禅宗にも共通した境地であり、毒殺されたはずの達磨と西域で出合い、墓をしらべると片方の靴しかなかったとかいう話は、武内宿禰や聖徳太子の伝説にもとりこまれているように、日本でも神仙譚として夙に知られてきた。

 蘭亭はどういうわけか建長寺玉雲庵・円覚寺帰源院の僧侶らに気に入られ、「居を卜(うらな)ひて儻(も)し招提の境に寄らば、法を問ひ時に万劫の愁ひを銷(け)さん」とリクエスト。ついに別荘を円覚寺境内の傍らに営んだ。これを松涛館・薜茘門・蕉鹿園・漱玉橋・灌花井と名付けて「五勝の奇」と称した。松涛館には渓流と橋があるので丘上にあったとは思われず、詩に「鐘は空谷を伝ひて響き、僧は落花を踏みて来たる」「石壁斜めに廻る一草堂」とあるから、山腹の寂しい谷戸のどこかであるのはまちがいない。「明月峯前澗流碧にして、柴門深く鎖す桂花の秋」などという句にいたっては、ますます明月谷にある澁澤邸にちかい印象だ。晩年の澁澤さんも、そう推理して小説に描いたのだろうか。



洪鐘弁天茶屋
 以前は古蔵六の奥、古山稲荷あたりを経て、古道が円覚寺洪鐘のある丘へ通っていた。蘭亭はその風光を愛し、「楽しき哉、斯の丘や。死すれば則ち我、焉(ここ)に葬られんと欲す」と語り、死の三年前には大病をきっかけに、寿蔵(生前墓)を洪鐘の傍らに用意した。洪鐘は峯筋の頂にあり、渓流があった松涛館はこれよりはずっと下のほうだ。

 庭の蕉鹿園というのは「列子」にある故事を引いたもので、「蕉鹿の夢」という諺にもなっている。鹿を捕って芭蕉の葉で隠して置いた者が、隠したことを忘れてしまいあれは夢だったと考えた。しかし他人がその鹿を盗んでいる夢をみて、裁判に訴えた。その鹿を盗んだものも、盗んだこと自体が夢である以上、盗ったかどうかは知らないと主張・・・こうして夢と現実の境目は失われ、「人生の栄華など昔見た夢のようなものだ」という喩えに使われる。「却つて憶ふ十年行楽の地、知らず蕉鹿の夢中に過ぐるを」(「山中偶作」)。

 蘭亭は晩年、禅僧との交際に凝ってこの山荘に入り浸り、かねて明月楼を建てて交際の場としていた江戸茅場町の本宅と往復。「来往今は猿鶴の怨み無く、寧ろ汝をして北山の文を勒さしめん(*もはや動物や山の神様からも受け入れられた。つまりほんものの隠者になったの意)」と自負するまでになった。晩年は床につくことも多く、「臥遊」すなわち松涛館のなかに居ながら窓の月をながめたり、空想のなかで附近を散策するという日々がつづいた。ただし死んだのは茅場町のほうだったようだ。


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