トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第396号 


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もちださんの鎌倉リポート No.396(2021年5月16日)



No.395
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髑髏盃・2



「蘭亭先生詩集」
 蘭亭(*1757没)が円覚寺にいとなんだ松涛館は、陸奥の学者・熊坂台洲(1739-1803)が「西遊紀行」1761に書いたころまではあったようだ。「始めて相中(*鎌倉)に抵る。先づ東里先生(*蘭亭の別号)の墓及び其の営む所の松涛館を問ふ」という簡単な記述があるだけだが、興味ぶかいのは八幡宮から見たという、蜃気楼(海市)の記事。「忽ち斜曛輝きを凝らし島嶼煙を籠むるを覩る。少選(しばらく)は楼台羅列するが若く、これに継ぎて城郭周匝するが若し。俄かにして人馬縦横、又た俄かにて旌旗出没す。光芒煥炳として、眥(まなじり)裂けて晴眩す。已して徐々に蕩じて海水と為る。我輩、大いに以て奇と為す。土人、則ち海市と謂ひて怪しまず」。

 蘭亭の友人・服部南郭の門人だった安達清河(1726-1792)が「相中紀行」1784で「高子式(*蘭亭の別号)の墓を弔ふ」たころには、「艸堂」はすでに「遺蹤」になっていた。また「帰源庵の後ろの山頂に在」る「片碣(*墓石)は年を経て苔蘚封ず」るありさまだった。死後27年が過ぎている。「帰源庵主を訪ふ。語るに子式(*蘭亭)、往日の盟に及ぶ。
 客少くして煙霞の一径幽かなり。 苔橋斜めに虎渓の流れに架かる。
 東林には猶ほ遠公の有るがごとくに在り、 説を為す淵明と同社の遊」。


 これは「虎渓の三笑」の故事をふまえており、唐土の高僧・慧遠禅師(334-416)が白蓮社を催した「廬山東林寺」を円覚寺に、「慧遠(遠公)」を帰源庵主、「陶淵明」を亡き蘭亭にたとえる。慧遠は修行のため一生山を出まい、と固く誓っていたのだが、訪ねてきた淵明・陸修静らと論議に白熱、では門ちかくまで送ろうと、なお歩きながら語りあっているうちに知らず虎渓の橋を出てしまっていた・・・。

 その「虎渓の橋」は円覚寺のばあい、白鷺(はくろ)池にかかる偃松橋のことだろうか。蘭亭本人の詩によれば「瑞鹿山の頭(ほとり)の古梵台、秋寒那んぞ杯を銜(ふく)むを許さざる。諸天歩む毎に東林の月、人は道(い)ふ淵明酩酊して回ると」などと葷酒不許の掟をあわれむいっぽう、酒飲みの蘭亭が「幾度杯を銜めば臥遊に足らんや」と詠んだ松涛館は、存分に酒がのめる位置、すなわち境内の外であったことがわかる。ちなみに蘭亭は、六朝を代表する高名な詩人でありながら白蓮社に入門をゆるされなかった謝霊運(385-433)の不運にひきかえ、自分ふぜいが高僧たちと気ままに交際できるのは光栄だ、という趣旨の詩(「春日、鎌山草堂」)ものこしている。

 この帰源庵主とは誰を指すのだろう。蘭亭じしんは「東山禅師に寄す」という詩で「三笑」の故事をもちいており、これは仏日庵の東山周朝を指していると思われるが、蘭亭と同年代なら、安達清河に昔話を説いたころには80歳になんなんとしていた1784。そのころ円覚寺中興の祖・のちの大用国師(誠拙周樗1746-1820)は首座に就いているから、世代交代は確実にすすんでいた。蘭亭詩集には他にも「東洲禅師」「恒嶽師」「雪山禅師」「順叟・東渓・東山の諸禅師」などの名がみえるが、伝記は未詳。蘭亭は死にさいして自分のところにあった一切の詩稿を焼いてしまったので、手がかりとなる禅僧たちの詠草などは、ことごとく失われてしまったらしい。



帰源院は洪鐘茶屋の下、崖の中腹にある
 この当時、鎌倉の禅林は衰退しており、東山禅師は舎利殿の修復にさいし、誠拙を招き、印可して仏日庵をゆずる1773。そしてようやく復興をはたし、誠拙本人も京の名刹から引く手あまたの名声を博していった。誠拙はもともと、奥州出身で円覚寺の退去寮・横浜市南区の宝林寺に住んだ月船禅慧(1701-1781)の弟子だった。印可といっても形式的なもので、実質的にはもはや円覚寺代々の法脈とはいえないのだが、月船老師は他にも画僧の仙高竅Aのち白隠門下に転じ出世した峨山慈棹など、多くの名僧を育てているから、この月船込みで引き抜いた東山にも、人をみるめはあったらしい。

 蘭亭の生家は豊かな魚問屋で、父・百里は芭蕉門の俳人としても知られていた。少年のころ、可愛がられていた使用人の小憎に嫉妬して盗みの罪をきせ、自殺させてしまった後悔ゆえに、子供心に自ら治療を受けず、眼疾を手遅れにしてしまったという。鍼灸医にでもなろうかと師の荻生徂徠(1666-1728)に相談したところ、詩人になれと即断された。やがて父が急逝、遺産をとりくずしながら、ほぼ詩作や唐詩の教授だけで生計をたてた。日常の所作は「相者(手引き)」の指示にまかせ、手紙や詩などの浄書は伊藤華岡という人が秘書として受けもったという。つまりほとんど見えていなかったのだが、蘐園派(徂徠門下)はもともと唐土の古典を貴び、その詩風もいわば「本歌取り」するところが多かったから、厖大な漢籍の数々を、まだかすかに見えるうちに暗記していったのだろう。

 のこされた詩篇だけからは何とも言えないのだが、同じような情趣・語句・表現が繰り返されるのはよく言えば平明、意地悪くいえば単純。目開きの服部南郭のように古典から難解な語句を次々と発掘し繰り出していくような先鋭的な高踏趣味はない。その南郭と並び評されたのは、素読でも比較的理解しやすく、教養よりもまず詩人の魂が感じられ、初心者にも学びやすく親しみやすい点が受けたのかもしれない。「詩は盛唐に学べ」と主張した明代の古文辞派の詩論を支持したのはおなじだが、古文辞派のなかでも蘭亭は格調派とよばれる李攀龍(1514-1570)の詩をとりわけ高く評価していた(蘭亭詩集・釈禅軾の識語にくわしい)。



教恩寺は肉屋のわきを入ったところ
 古人の杯を将(も)つこと莫かれ、
 能く古時の宴を想ふ。
 縦(たと)ひ英雄の心を壮とすれど、
 涙は美人の面に濺ぐ。

 これは「鎌倉に遊び、平中将の幽囚にして美人と対酌の杯を観て、慨然として懐古の感有り。卒爾に賦を為す」と題されたもの。米町・教恩寺にあった「平重衡が死刑になるまえ、頼朝から酒宴を賜り、白拍子・千寿前らと飲んだ盃」をみて即時に詠んだという。盃は17世紀の「新編鎌倉志」に一口、蘭亭の時代をはさんで19世紀の「新編相模国風土記稿」には三口と、むしろ増えているわけだが、蘭亭が持ち出したというような形跡はない。

 重衡は一の谷で早々に捕虜となったため、情報を引き出すため一年あまりのあいだ頼朝の管理下に歓待されたとみられるが、用済みになって奈良の僧兵たちに引き渡され露と消えた。「平家物語」によれば千寿は手越の遊女とされ、重衡の没後やがて出家、後生をとむらった。「吾妻鏡」では千寿は政子に仕えた女房で、やがて急死。亡き重衡を思い恋死にしたと噂された、と記述されている。蘭亭がいずれの伝承を信じたかは不明ながら、盃を手に取った瞬間、かつてこれを含んだ女の面影をまのあたりに感じ取っていたのはたしかなようだ。盲人にとっての「観て」というのは、そういうことなんだろう。



建長寺の十六羅漢
 老いて人間(じんかん)に跡を去り未だ休まず、
 禅関に握手して暫し相留どまる。
 詩を題して別れんと欲す嵩山の曙、
 笈を負ひ重ねて期す給苑の秋。
 長く風塵に向かひ何処(いづこ)にか住まん、
 知るべし天地に此の生の浮かぶを。
 居を卜(うらな)ひ儻(も)し招提の境に寄らば、
 法を問ひ時に万劫の愁ひを銷(け)さん。

 これは前号にもすこし触れたが、「建長寺の玉雲精舎にて諸上人に留別す」という詩。玉雲庵はいま「正受庵」の表札があるところで、玄関に「玉雲庵」の看板をかかげることもあるから全く廃絶したというわけでもないらしい。蘭亭は46歳のころから老いを自覚、隠居を期して鎌倉に入り浸るようになり、まず「瑞泉寺」「玉雲精舎」「帰源精舎」「画島(江ノ島)」などに宿った。すでに蘭亭の文名は名高く、禅僧たちが野次馬のようにあつまり、高僧を紹介、自然と詩筵が開かれたのだろう。

 【廃仏】を掲げる朱子学者が全盛の時代には、詩文をもてあそぶ腐敗僧などとして、禅林文学は必要以上に否定されていただろう。そのうえ「唐詩選」などにうかがえる古文辞派の歴史観からみて、漢詩は中唐以降衰え(白楽天・杜牧などを全否定)、宋元代はまったくすたれ、明にいたって古文辞派によって復興したことになっていた。たしかに五山文学は宋元代の禅僧によって移植されたものだ。ただその時代にも杜甫・李白を愛し顕彰する流れはあったし、五山後期(公方府時代)には明でまなんだ僧もすくなくない。たぶん蘭亭にとっては「食わず嫌い」で済ましてきた未知の領域だったはずで、新鮮に感じるなにものかがあったのだろう。禅僧たちの詩があまりに幼稚なものであったり、蘭亭の詩論にてらして虫唾の走るような腐敗したものであったのなら、かれはこんなにも夢中にはならなかったにちがいない。



イメージ(秋明菊の浄智寺)
 松濤館(鎌山草堂)でのくらしはのどかだったようだ。「覇図陳跡に草萋々、緑樹陰々として滑水西す。春尽きて鶴陵の花已に落ち、青山に惟だ子規の啼く有り」(鎌台雑詠2)。もはや名所をめぐるでも花を見るでもなく、なんの気負いもない詩がめだつ。「病起きて千峯は臥遊に供し、朝来高枕して草堂幽かなり」(鎌台雑詠1)とあるように、館を一歩もでないこともあった。

 いっぽうで弟子たちの来遊をしきりにさそったり、また自分が江戸から松濤館に行くのに送らせて、ともに遊んだりした。「才子中原に彩毫を弄び、賦成りて何処にか吾曹(われら)を念はん」(鎌山に子祥を懐ふ)。孤独を愛しながらじつは寂しがり屋のすがたもかいまみせている。子祥とはのちに墓碑を書いた、弟子の山惟熊こと藤山秋水(1729-1786)。「憐れむべし一片千峯の月、流れて空閨を照らし独夜長し」(鎌山草堂にて家人に寄す)。家人とは当時の妻いがいにいなかったが、それは江戸に置いてきた。

 やがて病に臥した蘭亭は鎌倉の草堂にも行けなくなって、空想に耽るようになる。「群峯高く鎖し草堂幽かなり、病に臥し蕭然として臥遊を恋ふ。石径は斜めに蒼蘚を侵して合ひ、柴門は碧なる渓流を負はず。白雲に空しく夢む山中の色、明月に相思ふ海上の秋。早晩南窓は寄傲するに堪へん、黄花重ねて破る主人の愁ひ」(鎌山草堂を憶ふ)。「南窓・寄傲」は陶淵明の「帰去来辞」の引用だから、もはや鎌倉は帰るべき場所、懐かしい故郷の家の、よりかかって庭の菊を眺め寛いだ、ここちよい南側の窓のようなものになってきていたのだ。



蘭亭は日本橋小田原町の生まれ(図右上辺)。転居した茅場町は徂徠の蘐園塾があったところ
 蘭亭の遺稿は臨終に際して本人によって焼き捨てられ、弟子の藤山秋水・横谷藍水(1720-1778)・竹川政辰(1841-1805)・松崎観海(1725-1775)・釈禅軾らが日頃記録しておいたものなどを集め、「蘭亭先生詩集」として、明月楼名義で出版された。それがすべてではなく、生前に他の諸家が写しとった詩もかなり残るらしい。これら高弟のうち、藤山・竹川・松崎らは江戸詰めの藩儒であり、それぞれ各藩邸での公務もあったはずで、文卿こと横谷は盲人であったが鍼灸医でもあって、つねに遊んでいたわけではない。

 「白髪なり萱洲の老処士、称すべし大隠は朝市に隠ると」。パトロンのひとり、壷山老公こと本多忠如(1712-1773。大名)は蘭亭をこう評した(蘭亭先生詩集・序題【写真1・左】)。これによれば蘭亭は「処士」、すなわち町人ではなく致仕した武士のごとく扱われ、もちろん按摩医者のような法体でなく、54歳で病没するまで白髪に髷をむすんでいた。萱洲とは明月楼を営んだ江戸茅場町のことで、繁華な市中にいながら毎日酒をのみ詩吟にあけくれ、時折少年に詩をおしえたり大名屋敷に出向いて唐詩の講義をおこなったりと、すでに隠者のイメージをただよわせていたのだろう。もとは本名にもとづく高惟馨または高子式、号は東里ともなのっていたようだが、徂徠門を離脱し陽明学に傾倒した中根東里(1694−1765)などとの混同を避け、しぜん蘭亭が定着していったようだ。

 妻は六人(先哲叢談)とも十人(蘐園雑話)ともいうが、子はなかった。身の回りの世話などを心配する人々から、勧められるままに貰い受けてはうまくいかなかった、その繰り返しだったのだろうか。「性、酒を嗜み、豪宕にして奇を好む」「雄壮の形にて、甚はだ行儀正しく、胡坐(あぐら)などせしことはなき人」とされ、髑髏盃以外に特に性格に問題があったようには思えない。盲人としての見得もあってか、家事の才や人柄にかまわず、ただ容色で相手をえらんだという証言もある。女のほうが物足りなくなって出て行ったのかも知れず、蘭亭じしん、はやくより家庭を築くことをあきらめていたのかもしれない。「詩を人に見せざれば餓死す」と語っていたように、悠々自適をよそおってはいても、亡父の資産も売り、自身病弱で、詩のみで生活するのはけして楽なことではなかったようだ。先妻らの消息は知られていない。明月楼も、やがてあとかたもなく消えてしまったと、もっとも親しかった横谷藍水が詩にのこしている。


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