トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第397号 


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もちださんの鎌倉リポート No.397(2021年5月22日)



No.396
No.398



鎌倉懐古集・1



大小二冊と題箋(部分)
 「鎌倉懐古集」は、江戸の漢詩人・万庵原資(1666-1739)の遺稿に何者かが詳細な注釈をほどこしたもの。県立図書館にある大小二種類の袋綴写本のうち、大本(20丁・K94.44)にはやぶれた題箋に「万庵禾上(*和尚の省画)・南郭・・・」とかかれ、内容は服部南郭(1683-1759)の連作「鎌倉懐古」七首に、歳のはなれた友人・万庵が同題十首加えたものを主体としている。万庵は芝高輪東禅寺の東堂(前住持)で、幼くより詩にすぐれ、荻生徂徠(1666-1728)やその弟子・南郭らと親しく、寺からみる富士の眺望を愛し「芙蓉軒」と号した。広尾富士見坂にあった南郭の別荘(詩塾)も「芙蕖館」と号したから、まあ似た者同士というわけだ(フヨウもハスも富士山の別名)。

 これにさらに鎌倉・江ノ島関係の詩(南郭・万庵と高野蘭亭・寿山人らの作)・その他が加えられているが、編者は未詳。西尾市岩瀬文庫本「鎌倉襍詩」のように、詩・作者とも大幅に増補追加された写本もあるようだ。末尾には、弟子で書家の松下烏石(1699-1779)が、万庵の数少ない遺品から荻生徂徠(1728没)による跋文がほどされた遺稿を発見し、ここに付した旨がしるされている。ただしこの跋文は「江陵集」など別の遺稿にも用いられており、「鎌倉懐古集」とは特に関係はないらしい。


 大本の特色として、万庵の「鎌倉懐古」ばかりに微細な字で、数ページにわたって異常な量の頭注(詩に引用した故事来歴の考証など)が追加されている(右図左上)。おそらくこれが万庵の遺稿に近いらしい。小本(10丁・K94.44A)には烏石の識語がなく、頭注・傍注の量もほとほどで、万庵の「鎌倉懐古」もこちらでは二首たりない。冒頭の南郭の詩に題名・署名がないほか、達筆なわりに誤字も多く、南郭の詩の下に万庵の作を無記名で配列するなど、編集上の混乱(錯簡)もみられる。錯簡の原因となったページは大本のほうでもテキストの周囲に印刷された枠がないなど用紙がことなり(右図左下)、頭注もすくない。掲載の詩を増補するため、草稿に挟みこむなどしてあとから挿入したページであることがうかがえる。

 詩の行間にある傍注の体裁は、講義テキストの行間にあたりかまわず書き込みをした教員用の忘備録のようなものだ。当時は素読といって、いったん棒読みしてから内容の講釈をした。初心者むけを含む厖大な注釈は、詩を講じて生計を立てようという「編者」であり「書写者」でもあった無名の門人が、地方の筆子(生徒)たちのため老婆心をこらして施したと思われる。たぶん田舎の寺小屋でも、定番の「論語」ばかりでなく、江戸で流行の漢詩を教えろとせがまれることがあったのだろう。南郭13、蘭亭1、万庵15の詩にまじって【寿山人神照】なる無名な人物の詩が一首だけのっている。いまは廃寺となった浜松あたりの住職らしく、この人がたまたま江戸へ出て万庵のもとで学び、その教えを速記したのがはじまり、と仮定して大過ないかもしれない。

 初心者にとって漢詩は厳密な解釈がむずかしく、「雍門の琴」など、「史記」や「文選」などといった古典を引用した故事成語のような語句も多い。頭注にその引用元の説明がなければ、文字面だけでは理解できないこともしばしばだ。たとえば大塔宮の「古堂」などとある場合に、「堂」という漢字の特殊な字釈として「墓ナリ」と傍注があり、これがお堂ではなく石塔を意味して書かれたことがわかる。また小本には「星」と誤記したのを消して「塋」と直されており、これは墓の意味だから、「堂」と「塋」、韻や平仄から見てどちらの本文が正しいのかも問題になるだろう。



徂徠の名にさえ説明があることから、初心者向けに編まれているのがわかる
 収録の詩のうち、もっとも人口に膾炙したものは、江ノ島の稚児が淵ちかくにのこる古碑1805(下)にも刻まれた南郭の七言絶句「江ノ島に遊ぶ(石壁に題す)」。大本・小本の傍注と頭注を読み下して比較してみる。大型本には一部に返り点と送り仮名があり、カタカナで示した。

【大形本傍注】
*風濤は石岸に鳴雷ヲ闘はシム
 *江ノ島に至りてみれば。
直に*楼台ヲ*蕩(とろ)かさんと*万丈に廻ぐル
 *天女の楼台。*震蕩。*濤と岸と、万丈の島を波がめぐる。
*披髪にして鼈を釣る*滄海の客
 *其の雄壮の有り様は。論語の字、又た荘子に出づ。
 *十洲記に滄海島は北海の口に在り水皆な蒼色なり。列子に出づ。
 *仙居の蒼海には此の滄の字は非なり。蒼の字を書くなり。
*三山*到ル処(ロ)波を蹴りテ来たル*
 *仙境の三山。*開く、かと思はる。
【頭注】 列子湯問篇に、渤海の東に底無き谷、名づけて帰墟と曰ふ。其の中に五山在り。岱輿・員嶠・方壷・瀛洲・蓬莱なり。常に潮波に随ひ斬(暫)峙を得ず。帝、仙居を失ふことを恐れ、乃ち禺強に命じて巨鰲十五をして首を挙げて之を載せしむ。五山始めて峙して動かず。竜伯の国に大人有り。一たび釣して六鰲を連じて岱・員の二山、北極に流れ仙霊播遷すと云ふ。荘子に、任公子、大いに釣を為して巨鰲を釣るに、海水震蕩すと云ふ。列子に、巨霊の鰲有り、蓬莱の山を負ひ滄海の中に戯る。



伝説では南郭が岩に直接墨で書き込んだといっている
【小型本傍注】
*風濤は*石岸に鳴雷を闘はせ 
 *雄壮を云ふ。*百千の雷一時に動(はた)らくが如く。
*直(ぢき)に*楼台を蕩かさんと*万丈に廻ぐる
 *風濤に具なひ。*天女の楼台。*取り繞りて。
*披髪にして鼈を釣る*滄海の客 
 *論語の字、滄海披髪客。
 *十洲記、滄海は北海の上に狂(在)り水皆な蒼色。
*三山は*到る処波を蹴りて開く
 *仙境。足に任せて釣を垂るるぞ。*自由自在、其れ神人か。
【頭注】 列子湯問篇に、渤海の東に底無き谷有り。帰墟と曰ふ。其の中に五山在り。岱輿・員嶠・方壷・瀛洲・蓬莱なり。常に潮波に随ひ蹔峙を得ず。天帝、仙居を失ふことを恐れ、乃ち禺強(禺強とは神人なり)に命じて巨鼇十五をして首を挙げて之を載せしむ。五山始めて峙して動かず。竜伯の国に大人有り。一たび釣して六鼇を連ぬ。岱・員の二山、北極に流れ仙霊播選す、と云々。荘子に、任公子、大いに釣を為さんと大牛を飼ひ、巨鼇を釣るに海水震蕩す、と云々。杜句に、知らず滄海の上。 

 詩のいみは、「激しい波浪は無数の雷鳴のように岸壁をとどろかせ、いまにも天女の宮殿を揺り動かそうと延々とこの島を取り巻いている。冠もかぶらず、髪をふりほどいてあの伝説の大亀を釣り、この島を漂流させようとしているのは、滄海より来た神仙たちなのだろうか。仙界は波を踏み分け、この島のあらゆる場所に広がっている」・・・という感じなのだろう。海釣りのおっさんは、いまも波がかぶるような岩の突端の、けっこうヤバイ場所にまで踏み込んで糸を垂れている。そのむかしなら、もっと危うく異様な姿にみえたことであろう。古代の唐土で披髪(被髪)は、鬼か狂人でもなければ仙人に特有の髪型だった。



南郭の肖像はそれぞれが似ていない(国会図書館DC)
 書名にもなっている連作詩「鎌倉懐古」(南郭作)もちょっとみてみよう。「高台に昔日黄金を散らし、幕に入る賓僚滑水の潯(ふち)」。これは「黄金を散らして天下の士を招く」のいみ。第二句は「滑川の銭落とし」でしられる賢臣・青砥藤綱を暗示している。べつの詩では「鎌倉必ずしも山河の固きにあらず、 試みに丘墟に上がり落輝に対す」とのべる。「仁政を行わずしては山河の固きも守らず」で、鎌倉末期には仁政が失われたという認識があったらしい。

 営丘も元は自ら侯伯と称す、
 誰か料(はか)らん終(つゐ)には田氏の功に帰すことを。

 この詩句もわかりづらいが、「営丘」とは春秋の覇都・斉の都を指す。その王はもともと周の「侯伯」であった太公望(姜氏)の末だったのだが、しだいに覇をとなえ全盛期を築く。しかし戦国期には下剋上により大夫の田和(田氏)にとって代られ、ついに周朝からも独立、営丘は斉の王都・臨淄と改名する。これをふまえ、源氏が朝廷の臣下から覇をとなえたこと、やがて異姓の者(北条家は平氏)に天下をうばわれたこと、さらには幕府じたい跡形もなくなり、田夫のたがやす畠(漢語では田)になってしまったことを重ねて表現している。こうした引用例から窺えるように、江戸漢詩は情景をそのまま詠むというより、漢学の知識や儒教理念に傾注するきらいがあった。



戸田幹「鎌倉紀行」。県立図書館蔵
 鎌倉を詠んだ江戸前期の詩の多くは、北条氏を逆賊として非難したり、儒教の「廃仏」の立場から寺院を誹謗するといった独断的な内容が多く、じっさいあまり面白いものではない。たとえば、おなじく県立図書館にある戸田幹(它石子)という人の「鎌倉紀行」1690には、罵詈雑言としかおもえない詩句が目立つ。

○ 未だ知らず此の道の人間に益することを。(建長寺)
○ 怪を隠して俗を罔(あざむ)き口舌を飾る。(五山)
○ 異端の誑誘に我れ何(いか)でか従はん。(光明寺)
○ 彼や大塔宮、 徳無く竟(つゐ)に功(いさを)も無し。(大塔の宮の土の籠)

 戸田の素性は明らかでないが京都の人で、「晦翁(*朱熹)の顰(ひそみ)に效(なら)つて」云々とあるから、明らかに朱子学の徒。跋文によれば、仏説のとおり誰もが妻子を棄てたら「則ち、百年の後に黎民、孑(ひとり)遺(のこ)る有る靡(な)し」などと力説している。何しに鎌倉に行き数多くの寺をめぐったのか、まったくもって不思議だが、啓蒙思想がブームだったその当時、上方落語の「なんでやねん」「アホちゃうか」と同様、いちいち他人のすることにちゃちゃを入れ、ダメ出しするのが快感だったのかもしれない。その意味では、たぶん楽しい旅行だったのかも。きっと地元では仏教批判など、したくてもできなかったんだろうし、関西人は古来関東に対抗意識をいだき、無力感からくる根強いひがみがあった。そのはじまりが鎌倉幕府だったのだから、標的にしてスカッとしたかったのだろう。



「平安・服元喬」は南郭のこと。碑の後ろは義興の塚
 そのような詩にくらべれぱ、服部南郭をはじめとする蘐園派(徂徠一門)の詩文は、技巧的・難解であることはべつとして、叙情的に受け入れられたのかもしれない。徂徠の提唱した古文辞学とは、歴史を批評で裁断・改変することをやめ、古典をありのままに読む、ということだった。歴史にせよ文学にせよ、けして教訓の道具というだけではないのだ。

 東京都大田区の新田神社にある、「矢口新田神君之碑」1746。碑文は南郭の撰・文字は烏石の書で、生前の制作による。篆題はこの碑を発願した守山侯・松平頼寛(1703-1763)の筆。頼寛の祖父は水戸光圀の庶弟で、守山藩(現・福島県郡山市)は水戸の支藩だった。いわゆる大名ではあるのだが、兄が廃嫡となる前、部屋住みとして江戸屋敷にいたころより徂徠に学び、南郭らとは親しかった。南郭は古参の門人で、京都の商家の出ながら歳若くして江戸にくだり、さる大名屋敷に出仕、そこで仕官中の徂徠に出会った。

 碑文は、南朝方の英雄・新田義興が矢口の渡しでだまし討ちに遭い、祟り神になったという伝説を淡々と記し、古い楚辞のような神祭りの詩句で結んでいる。水戸学をふくむ当時一般の朱子学者であるならば、いかに義興が偉大な忠臣であったかをくどくどと記し、その軍功・業績をいちいち列挙顕彰。たあいのない伝説などは一刀両断に否定するのが普通であろうが、ここでは死ぬ場面だけを描き、その伝承の虚実の判定や新田義興への人物評価などは、読む人の知性と感情にすべて託している。それは朱子学と古文辞学のちがいばかりではなく、庶民感情によりそい、ひたすらボケに徹して下町人情の交々(こもごも)を紡いでゆく江戸落語にもつうじる、時代と東西文化のちがいをも、反映しているのかもしれない。


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