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もちださんの鎌倉リポート No.398(2021年5月24日)



No.397
No.399



鎌倉懐古集・2



今小路あたり
 維れ昔し奔鯨を海崎に曝し、
 君王枕を高くして戎衣に付す。
 中原の宝鼎に軽重無けれど、
 百世の名器に是非有り。
 一たび黎民の将略に帰して自(よ)り、
 遂には赤子をして兵機を弄ば令(し)む。
 鎌倉必ずしも山河の固きにあらず、
 試みに丘墟に上がり落輝に対す。
(南郭「鎌倉懐古」一)

 漢詩はむずかしい。「君王」だの「中原の宝鼎」だの、まるで唐土の原始時代を思わせる。注記によれば「奔鯨」とは平家をさす判じ物であるらしい。大意はこうだ。「むかし平家を西海に倒し、皇室は武家によって守られた。しかし神器の宝剣がうしなわれて、皇位継承の何かが変わってしまった。ひとびとはいったん武家に帰順したが、とうとう忠節の者が挙兵するにいたった。仁政を行わずして堅固な地形も守りにはならなかったのだろう、丘にのぼり落日をながめながら、想いをはせる」。



北条実時墓あたり(称名寺)
 鳥合原の頭(ほとり)黄鳥飛び、
 荒山に春老いて草初めて肥ゆ。
 穆公一たび去りて秦良(や)や尽き、
 限り無き丘墳知る者稀なり。
(南郭「相中覧古」三)

 「鳥合原」とは北条高時が闘鶏をした場所で、八幡宮の東、いまは学校があるあたり。「黄鳥」はウグイスのことらしい。これには故事があって、春秋時代の秦に覇をとなえた穆公(?-前621)が、その死にのぞみ多くの臣下を殉死させた。そのため秦の覇権はいったん傾いてしまったのだという。「詩経」にある黄鳥という詩は、穆公のために殉死させられた者の悼歌だから、「無限丘墳」と照応しているわけで、ここでは鎌倉幕府のために犠牲となった名もなき人々の墓、たぶん無数の「やぐら」や五輪塔をさしている。

 春秋時代とは唐土の国家以前の段階で、盟主にあたる「周」というクニを中心に多くのムラ(都市国家)が分布し、それらの酋長が「侯」と称して周に仕えるという封建体制であったが、いくつかの「侯」が実力者として覇をとなえ、やがてそれぞれが自立して「クニ」を唱え、互いに争う「戦国時代」へと突き進む。日本の中世史は「史記」や「春秋」のような神話的伝説とは比較にならないとはいえ、武家や戦国大名の栄枯盛衰をものがたる上でのテンプレート(ひな型)として捉えているのだろう。神話とはそもそも、時代を超越したものなのだ。南郭の時代にはまだ大名がいたから、周の封建体制を江戸の泰平とを重ねわせ、つぎのように謡う。


 元弘の天子龍顔を動かし、
 地を相し槍を攙(さ)せば此の間に墜つ。
 玉几終(つい)に帰りて北極に憑くも、
 翠華忽ちに聴(ゆる)す南山に狩するを。
 言ふ莫れ海外の夷守ること無く、
 応に京師の為には朔を頒たざるべしと。
 誰かは識らん文王今日の政、
 農桑四布して郊関を闢(ひら)く。
(南郭「鎌倉懐古」七)

 元弘の天子とはもちろん後醍醐天皇。挙兵に成功し「北極」、すなわち帝位に返り咲いたが、「翠華」(天子の旗)はたちまち吉野に追い落とされてしまった。「狩」とは巡幸を洒落ていうのだが、ほとんどがこうした敗戦にともなう天子の流竄を韜晦する表現に使われる。けっきょく南北朝の内戦は、外国への備えを忘れ、国民の分断に終始してしまったのかもしれない。ただ周の文王の如きこんにちの善政を、当時はだれも知る事はなかった。かつての悲惨な戦蹟を、今は農民が平和に開墾している・・・。

 ここでは「今日」、すなわち徳川の泰平を中世までの戦乱と比較して「聖代」といっているのだが、「聖代」という記号を媒介に、文王の世を徳川時代の社会とおなじものだと類推することはできない。「文王(伝紀元前12〜11世紀)」の時代とは、いうまでもなく孔子なんかよりはるか昔の、人食い部落の酋長の話だから、ほとんど正確な記録なんかありはしない。ただ儒教徒たちが文辞上の記号として、戦争のない理想の世と美化してきただけ。徳川時代にしてもおなじだ。徳川にごまをするのは当時の儒者の常套句だが、南朝の正義を執拗に賞賛してやまない朱子学者の潮流に比較すれば、正義より「現在の平和」を優先し、後醍醐を暗に批判するこうした意見はあたらしい。徂徠一門は赤穂浪士の狂信的な仇討ちなんかも、法の秩序を乱すものとして否定していた。



奥の山には霊山五合枡砦
 「漁父樵童の歌未だ畢らず、泫然たり啻(た)だ雍門の琴のみならねば」(南郭「鎌倉懐古」三)。これも実際にきいた舟歌や木挽き歌というよりは、南郭の頭のなかで響いた古典のしらべだ。昔、琴の名人であった雍門周が、美妃・孟嘗君に世の移り変わりを説いて泣かせた故事があるらしい。想像してごらん、みずからの栄華が尽き、荒れ果てた墓すら森に覆われ、何も知らない若い木樵たちがその上でたのしそうに謡い踊っているさまを。・・・このように、古典を引用して多重のイメージをつむいでゆく技巧を、和歌では「本歌取り」といっている。今、昔、古代の唐土、それらが綯い交ぜになって「余情」をかきたて、一見ありふれた海や山、夕陽などのけしきのなかを、去来する。

 解りやすくするつもりで、読み下しで例示してきたものの、蘐園学派の詩は高踏的でよみにくいものだ。鎌倉をうたいながらも、写実的な描写はない。試みに該書にみえる具体的な名所をひろってみると、頼朝館跡・御馬冷場・琵琶橋・滑川・源氏山・星の井・八幡宮・宝戒寺・江ノ島弁天窟・鳥合原(以上南郭)、稲村ガ崎・大塔宮土牢・同墓(万庵)と数すくない。ただ、名もなき海や丘、畑となった遺跡、山中の荒れ果てた墓、といった基本イメージは鮮やかだ。「野翁猶ほ自ら人を迎へて説き、指点して徒(いたづ)らに客子をして愁は令(し)む」(南郭「鎌倉懐古」四)というから、たぶんシルバー‐ガイドを雇っていろいろと精しい質問を交わしたりもしただろう。旅行記・メモのたぐいはのこっていないが、御馬冷場(「馬空窟裡留寒影」)・琵琶橋のような、あまり人の行かない地味な地名もみえ、詩興をそそる場所を探しもとめて、実際にはかなり詳細な観光をしたはず。

 詩というものは、含蓄があって、すこしくらいわからない点が残るほうがおもしろい。歌謡曲の歌詞だって、厳密には何をいっているのか、よくわからないままに聴き、飽きたり不意に感動したりする。言葉のたりないぶぶん、理解のたりないぶぶんは聴き手の空想が補っているからであり、文学者はそれを「余情」といっている。日本人は議論が苦手といわれるが、つねに相手を忖度し、「食人鬼にもそれぞれ人生がある、だから鬼とも仲良くできる」、そんな漫画までもが人気をあつめる。良かれ悪しかれ、それもまた文学的伝統のもたらすものなのだろう。



「ただ見へるものは、長江の天と一つになつて、流るるのみぢや」
 蘐園派の詩は唐土の学者からも高く評価されたらしい。清末の兪樾(1821-1906)ははやくから徂徠をよみ、岸田吟香らの依頼で編んだ「東瀛詩選」では、数々の日本人の詩を発掘・紹介しているが、南郭・蘭亭らの詩は各々100首をこえている(もちろん細かな部分では、清国語として気になる字句の訂正もあるようだ)。

 はじめ林家の朱子学をまなんでいた徂徠が一転、古文辞学に思い至ったのは、明の文人・王世貞(1526-1590。元美)・李攀龍(1514-1570。于鱗)らの主張を読んだからだという。かれらの主張のひとつ、「文章は秦・漢」「詩は盛唐もしくは漢・魏を精密に模倣せよ」という擬古主義が、徂徠門下(蘐園派)にもうけつがれていた。李が編んだという「唐詩選」は南郭による平易な解説本の出版によって日本にひろまり、今に至っている。ちなみに蘐園というのは徂徠が古文辞学に開眼し、致仕後にいとなんだ同名の家塾1709が江戸茅場町にあったからで、蘐(けん)とは茅とか萱とかの雅字(異体字)。

 周知のように唐土の言語は時代ごとにことなっており、歴史はミルフィーユのように何層にもかさなり、単純に古語文語と現代中国語との二分類におさまるようなものではなかった。現代の感覚で古典をよむことは難しいし、古典の感覚で現代を語ることもできない。南郭や蘭亭らは徂徠の指示どおり杜甫・李白といった「盛唐」の詩や、元美・于鱗といった明代古文辞派の詩を愛読したようだが、それは詩句に凝結したイメージの寄せ集めであって、実在した唐や明ではなかったし、同時代の【清】には、ほとんど全く関心がなかった。


 清代には「三国志演義」「水滸伝」「西遊記」「金瓶梅」といった任侠ものの大衆文芸がはやっていた。唐土の人民の多くは文字を知らず、詩を書く君子・隠者などというのは干し草の中の針のようなもの。弥勒菩薩が出現するという白蓮教徒のとりとめもないデマにとりつかれ、あるいはキリストの生まれ変わりと称し太平天国をうたう気違い学者に煽動され、殺戮のかぎりをつくした。民衆はいまも貧農出身の毛沢東が数千万の金持ちを虐殺してくれたと感謝しているし、「正義」と称する暴力(ジェノサイドgenocide)が代々の革命や恐怖政治の原動力となってきた。

 唐土にあこがれる儒者たちは、文献上の美しいぶぶんだけをみて、ただ心酔だけしてきたわけではない。たとえば「孔子・荘子がいま日本に攻めてきたなら、先哲であろうと躊躇なく首を刎ねる」「唐土はなんども王朝が変わったのだから、いまに残るのは逆賊だけ」というような認識もまた、ふるくより共有されていた。その当時、康熙(1661〜)・雍正(1722〜)・乾隆帝(1735〜)というツングース族の国王3代は、唐土につづいてチベットや東トルキスタンを侵略。好戦的な征服王朝・清の「最盛期」を築いたとされる。それはしかし一般庶民にとっては過酷な搾取によって築かれた砂上の楼閣にすぎず、諫言するものにたいしては文字の獄、といわれる思想弾圧も敢行。乾隆の死後、白蓮教の乱(1796-1804)、太平天国の乱(1851-70ころ)などの「革命運動」が相次ぎ、ゆきすぎた中華主義から阿片戦争1842・アロー号戦争1857なども誘発、清国は自滅の時をむかえる。

 たしかに、現実と比較してみれば詩なんてものは上澄みでしかない。既存の記号からでは知覚出来ないものはいくらでもある。ネットがある現在においてさえも、観たいもの以外を検索するひとはけして多くない。スマホの会話・画像等が近隣の人権抑圧国家にすべて保存・監視されていた事件でも、マスコミ各社は「LINEは安全」「100%日本の企業」だなどと庇ってきた。なんの興味もない「嫌韓書籍」などの広告が一方的に表示されるのはつまり、おまえの思想は常に監視している、というメディア側の脅迫なのだ。


 武侯英曹にして画熊の車、 
 黎元の為に怨嗟を解かんと欲す。
 能く「豳歌」をして八月に同じからしむも、 
 何ぞ「雍徹」を将(も)つて三家を擁(たす)けん。
 咸厨は塵の釜に生ずるを問はず、 
 巡県誰か知らん雪の蓑に満つるを。
 奈(いかん)とも無し百年天命の定め、 
 元弘の将士繁華に競ふ。(万庵「鎌倉懐古」九)

 さて、こちらは年少時、「文殊小僧」とよばれた芙蓉万庵の詩であるが、技巧に凝りすぎ、テキストからはもはや、何をのべたものか訳がわからなくなっている。「英曹」はすぐれた名臣。「画熊」は熊の紋をえがいた驢馬車で、「武侯」こと諸葛孔明が「黎元(民衆)」をくらしを視察するために乗ったのだという。「豳歌」は聖人・周公がつくったという農事歌で詩経にでてくる。「雍徹」は論語の引用で、これは天子の祭りにもちいる音楽の名であって、諸侯のそのまた家老(三家)程度が用いるものではない、と孔子が諭した故事をふまえる。そしてこの詩は北条時頼廻国伝説を暗示しているのだ、と頭注でのべている。

 すなわち時頼が民を憐れみ、農事を奨励したことは諸葛孔明を髣髴とさせるが、しょせん身分は三太夫(幕府の執事)にすぎず、いくら天子の宗廟である鶴岡八幡をまつったところでなんの効き目もない。みずからは倹約を尽くし、大雪の日に貧家をたずねた「鉢の木」の話など、善政に努めたことはみとめざるをえないが、天命が尽きるのはどうしようもなかった。けっきょく曾孫・高時の元弘年間に至って、かつて繁栄したこの都市はほろんだ。・・・暗号解読のようだけれど、そんないみになるらしい。

 昨今、「AIで古文書解読」なる新聞記事をよくみかけるが、たんなる文字認識ソフトの草書版にすぎず、その認識率もいまだ初心者レベル。けっきょく専門の学者がいちから訂正し、まるまる「解読」しなおすようなら、最初からかれらが直接読んだほうが、たぶんずっとはやいのではないだろうか。認識した字句を解釈する能力はAIにはなく、従来どおり地道にGoogie検索するのが有効。ただし難解な語句は中国語サイトにしかでてこないことも多い。


No.397
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