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もちださんの鎌倉リポート No.399(2021年5月30日)



No.398
No.400



鎌倉懐古集・3



日本人がなぜ漢詩を詠むのか
 鎌倉を詠んだ江戸期の漢詩人は数多いが、南郭は「服元喬」、高野蘭亭は「高惟馨」・・・などと、多くが漢風署名になっているので、検索には注意が必要。署名ばかりでなく、漢学者のなかには「古代帰化人の血を引く」などといつわって、外国人になりすます手合いもいた。外国人ならさも生れつき漢学に通じていそうにみえるが、実際には徂徠や南郭の弟子にすぎず、「新撰姓氏録」などにあいまいな帰化神話がある者と単に苗字が一致するだけで、それすら全く血をひかないただの「養子」にすぎなかったりする。

 「鎌倉懐古集」に所収の詩の多くは「新編相模国風土記稿」の芸文編にも載っているので、国会図書館のデジタル‐コレクションHPから、活字になったものがみられる。芸文編には他の名だたる儒者詩人による鎌倉詩も多く、徂徠一門では、南郭・蘭亭とならんで太宰春台(1680-1747)の作が目立ち、春台が安藤東野(1683-1719)・山井崑崙(1690?-1728)らと鎌倉にあそんだ、三者三様の楽しい旅行記も収録されている。しかし「鎌倉懐古集」には、春台の詩はない。南郭と春台はライバルで、しかも馬が合わなかったという。



うしろから二行目「蘐園録稿、疎謬多く候に付き」
 国立公文書館デジタル‐アーカイブHPに、「南郭往来」という、二人の往復書簡を収めた写本がある。徂徠没後、その遺言で弟子たちの詩をおさめた詩集が出版された。これに春台が激怒、「われら一門の未熟な詩を、修正もなく勝手に人様の目にさらした」として、詩の疎漏(平仄などの誤り)を詳細に指摘した、正誤表のようなものを作って南郭に送りつけ、公刊するよう求めた。

 これにたいし南郭は、「むかしの唐土の大詩人にも、このくらいの例外はよくあるものです」と反論し、「徂徠先生は鷹揚なひとでしたから、たとえ生きておいでであったとしても、弟子の詩のちょっとした誤りなど、たいしてお気になさりは致しますまい。でも貴殿がそうおっしゃるなら、お望み通りになさいませ」。

 この返事にカチン、ときたのか、春台は「その例外、というのを是非とも拙者に御教示くだされ」と、慇懃かつイヤミたっぷりな手紙を送る。折節、共通の友人である平野金華(1688-1732)が死に、その息子・彦次郎が南郭に弟子入りしたことをとらえ、「・・・金華は生前、貴殿をこよなく崇拝し、徂徠をも貴殿の弟子にしたがっていたほどでした。ここ数年、彦次郎をわたくしの元に通わせていたのは、単に家が近いからで、決して金華の本意ではありません。いま大先生に入門したからには、金華もあの世でさぞかし喜んでおられることでしょう」。・・・きまじめな儒学者であった春台にとって、詩才だけで名声を博し、年収150余両も得たという後輩はめざわりだったのだろうし、徂徠の寵愛や世評に慢心し、儒学はともかく得意な詩についてさえ忠告を素直に受け入れず、せっかくの親切をみえすいた言い訳でけむに巻こうとしているかのように、春台には見えた。



原念斎「先哲像談」より
 徂徠は才能を見込んだ「見所ある」弟子には、鷹揚な態度をとった。古文辞学を唱え、音韻を研究、詩は訓読せず音読みしたというから、弟子の平仄の誤りなんかは見抜けたはず。自作には厳格で、たった二文字の出典を確かめるため、「漢書」全100巻を「始より終まで」「地獄さがしせられし」ような人だった(蘐園雑話)。「地獄さがし」とはすさまじい表現だが、検索データベースなんかなかった時代には、数千ページを丹念に隅々まで読んでゆくしかなかった。こと学問にたいする春台の偏執狂的な厳格さも、それを受け継いでいたのだろうし、門人の行儀にたいしては徂徠にさえ苦言をした(同)。南郭もそこはわかっていたのだと思う。

 春台の友人で早死にした東野も崑崙も、みな厳格な文献学者だった。若くして崑崙は足利学校にあそび漢籍を調査、その論文は清の乾隆帝勅撰「四庫全書」にもはいっている。三人の旅行記の時点では、東野はその崑崙をからかうちょっと毒舌な先輩で、春台はというと、やや強引で独断専行な面はあるものの、年長者として慕われてはいたのだと思う。50をすぎて春台がますます狷介になっていったのは、こうした友人を次々に失ってしまったからなのだろう。春台は自分が近づけなかった徂徠の病床で、南郭らが勝手に詩を編んで「徂徠の監修」を騙ったのではないかと邪推していたらしい。ただ徂徠は士人への礼節として病床に春台を呼ばなかっただけなのだろうし、春台みずから述べているように、明代以降のあたらしい詩の動向については、自身それほど精しくはなかったようだ。

 太宰春台のおもな業績といえば、赤穂浪士や犬公方を批判するなど、詩というよりもまず第一に経世学で知られる。気難しく、論敵も多かったはず。詩塾が繁昌し、人当たりも良く羽振りもいい南郭とは、一門のあつまりでなんども顔をあわせる機会がったのだろうが、うちとけるきっかけはなかった。ただ、徂徠門下(蘐園派)の逸話をあつめた「蘐園雑話」によれば、「其の後、服子も(春台の忠告を)守られし由」とあり、南郭は春台の墓誌も書いている。・・・



国常立尊の碑(北鎌倉)
 蘐園派が準拠した明代の古文辞学派の歴史観では、「宋・元の時代は漢詩・漢文の衰退期」とされた。明代の学者が前代の宋・元を否定し、悪くいうのはとうぜんのことなのだろう。しかし日本にとっては五山文学がもたらされた重要な時期にあたっている。鎌倉時代の禅僧の漢文には、南宋で当時はやっていてた黄庭堅(1045-1105)ら北宋時代の詩のほか、「三国志」から南北朝にかけての六朝時代の話題がおおい。南宋の都は江南にあったため、六朝文学は地元が舞台でもあって、陶淵明・王羲之らさまざまな文化人が活躍、禅祖・達磨が最初に唐土にきたのも六朝末期、梁の時代だったからだ。

 いっぽう、蘐園学派の詩文には春秋など、紀元前の文献からの引用がおおい。古文辞学をとなえた徂徠(1666-1728)は、論語などは古文であって、中世、宋・元の時代に成立した朱子学による紋切り型の道徳を通してでは正しく理解できないとし、まずは上古の文献を直接読み(素読)、古代の言語を精しく学ぶことを重んじた。徂徠は畢竟、詩とは情であって朱子学者のいうような「意味・教訓」ではない、とした。したがって才にめぐまれた弟子に対しては鷹揚で、あえて品行方正をもとめなかった。

 この当時、国学においても、中世の朱子学や儒家神道にゆがめられた歴史観を批判。古語を熟知するため、万葉や古事記をありのままに読むことを推奨。かの本居宣長(1730-1801)も、徂徠の方法論は参考としていたようだ。本居が批判する「漢意(からごころ)」とは、たんに漢学者一般をさすのではなく、後世の者が善悪や主君の都合、みずからの親疎に辻褄をあわせて歴史伝承を作り変え、創作を重ねる「さかしら」を指していた。たとえどれだけ進歩史観に見せかけていたとしても、記紀神話の排除それだけが目的なら「天照大御神はウラル山脈から北部九州に舞い降りた騎馬民族の女王卑弥呼」「素戔嗚尊は稲をもって大韓民国から来た徐福」「信じない者は右翼」「これ定説」などというような、あらたな独善と蒙昧とを生んでしまう。自説を補強するため、学者たちは偽作の古文書や古代文字をでっちあげたりもした(レポ331)。トンデモ史観、といわれるような「新説」は、どの時代にもあったのだ。



中巌の「藤谷山崇福禅庵」があったあたり
 南北朝時代の禅僧・桃源瑞仙(1430−1489)は「史記抄」のなかで、「・・・中岩の日本紀を撰せられたに、国常立尊と云ふは呉太伯の后裔ぢや、なんどと云ふは合はざる事ぞ。中岩程の人ぢやが、うつくしうも合はざる事をせられたぞ」、と述べている。これは中巌円月(1300-1375)が元への留学後、東明門弟たちとのいざこざを経て、ひとり鎌倉藤ヶ谷にこもって書いた「日本書」(*1341、現存せず)という本の一節で日本史を否定、世間の顰蹙を買った事件をつたえる証言だ。

 もともと呉太伯の子孫、というのは漢籍の説にもとづいたもので、魏略(「翰苑」所載逸文)にいう「其の(*倭人の)旧語を聞くに、自ら太伯の後と謂ふ」が初出。これを「晋書」「梁書」が引用、中巌も留学中、「梁書」にふかく親しんでいた。呉太伯は「周王朝の王位を弟に譲って呉にくだった長男」なのだから本来の正嫡であり、「史記」でも最高の名族として、世家の筆頭においている。「扃幌(*閉門)して青史に対し、師古の心聊か舒ぶ」云々と修史への抱負をかたった中巌の思いとしては、「いまでこそ唐土は、青犬の子孫を名のるモンゴル人に隷属しているが、むしろ周本来の嫡孫にあたる日本人こそ、正統な王ではないのか・・・」という強い認識があったのかもしれない。

 太伯説のたぐいは日本でも古来より、知られてはいた。しかし、国常立尊とは記紀のいうほぼ最初の神で、すべての日本人の祖とされるこの神が出現したのは天地開闢のころ、何百万年も前の話とされるから、太伯などはずっと後世の人物にすぎない。したがって、「なにしにか代くだれる呉太伯が後にあるべき」(北畠親房「神皇正統記」)、「此れ蓋(けだ)し附会して言ふなり」(一条兼良「日本書紀纂疏」)と、【年代の齟齬】を理由とした否定説が一般的だった。「石器時代」とか「縄文時代」とかいう概念はまだ知られていなかったが、中世にはすでに年代記とよばれる和漢天竺対照年表のようなものがさかんに作られていた。それによれば唐土最初の霊神・盤古は、瓊々杵尊の子・ホヲリ(山幸)のころ出現。人頭蛇身の伏羲・黄帝など、最初の三皇とされる獣神が出たのは神武の父・ウガヤの代。ちなみに神武天皇の即位は春秋のころ、周でいえば17代恵王の代、ということになっていた。



伊勢神宮の旧殿がたつ伊勢山神宮
 親房も兼良もそのあたりは綿密な考証をしていて、なにも中国神話だけを一概に否定していたわけではない。しかし太伯の事蹟が文献にあらわれるのは千年以上あとの「史記」にすぎず、国家未満の「ムラ」の酋長にすぎないのだから、そんな人物が実在したかすらも、さだかではないのだ。そもそもの発端である「魏略」には、倭は周の太伯の末裔というが、むしろ(越の祖になった)夏王朝の王・少康の末ではないか、との異説ものっている(「魏志」は後者をとる)。畢竟、呉や越と呼ばれる米作地帯が、地理的にも人種・風俗のうえでも、もっとも日本に近い、つまり「似ている」、という類推を示す以上のなにものでもない。もとより内陸部の酋長が未開な呉や越を経てわざわざ海をわたる理由はないし、有史以降にもそんな類例はない。そのうえ一万年以上古い縄文人(倭人)の風習を後世の人物である太伯や少康の子が創始した、などという説明にもむりがある。時系列からいえば、むしろ縄文人が呉や越に移住し、刺青の風習や大陸には産出しない宝貝・硬玉などの文化をもたらした、と考えたほうが自然だろう。

 これらの妄説が何世紀もの論争をうんだのは、「世界は中華ただ一つ」などという儒教徒の狂信に由来する。太伯説は江戸朱子学の祖・林羅山(1583-1657)なども信じた。羅山は豊臣秀吉の大唐征伐のさなかに育った。儒学はこのころ、明や朝鮮から朱子学を盛んにとりいれる。地上には人間と禽獣しかいないとする朱子学の強烈な人種主義を知ったからには、日明鮮は同祖でなければけして統一できず、ひとまず朱子学を深く学ばなくてはならない、と考えた。こうした思考法は、戦前戦中の洗脳教育だけでなく、たぶん現代の歴史解釈にも、暗い影をおとしている。

 朱子学の呪縛は、徂徠の古文辞学でも宣長の国学でも破壊できず、むしろ「天命」や「革命」の概念で国学そのものを汚染していったし、明治以降の近代文明・侵略思考とも習合しながら現在にいたっている。江上波夫(東大)の「騎馬民族説」、埴原和郎(東大)の「二重起源論」・・・私たちは歴史をみているつもりが、ある種の宗教思想をみているだけなのかもしれない。いいかえれば歴史には歴史観の歴史というものもあって、たとえば鎌倉幕府にたいする評価も、時代ごとにうつりかわる。大河ドラマではきっと、「宋国や高麗国から来た、頼朝の親友」などといった架空のキャラクターが創作され、ありもしない拡張史観をつむいでゆくのかもしれない。


 二冊の「鎌倉懐古集」にざっと目を通しているうちに、いつしか外は暗くなりはじめた。コロナ禍はまだ終っていない。最大感染者を記録したばかりの一月下旬、図書館はがらがら。それでも「自粛疲れ」からか、街にくりだす人々は日に日に多くなっていたようだ。3密にならない場所は、探せばいくらだってあるけれど、人々は密を求めている。小町通り、渋谷センター街、みなとみらい・・・。

 江戸期の写本はむぞうさに空き封筒に入れられ、厚紙の帙に挿まれてはいたけれど、サイズがあわないため、はみ出したぶぶんが最初からしわくちゃになっていた。それほど大切にはされていないらしい。書庫受付に返し、ロッカーから荷物をとり出して外にでると、ランドマークのうえに、もう月がのぼっている。伊勢山神宮のひっそりとした境内をとおりぬけ、駅にむかう人影まばらな脇道をたどる。煙草好きの人は、常日頃から人権に配慮し、人けのないルートを探しもとめる習慣がある。いまだマスクもつけず、飛沫を吐き散らしながら大トラになって騒ぎまわる、酒好きのひとは、どうだろうか。

 あれからほぼ緊急事態宣言がつづいているのに、人通りはあいかわらずだ。四月・五月になって、汽車道の真上に「エア‐キャビン」が開通しても、なにも変らない。SARS-Covid-19新型コロナウィルスへの対策は、もはや国民全体をまきこむ「人流」とか「密」とかいうフェーズ(局面)ではなく、「ハメをはずした一部の人」の常習行為をどう抑制するかに特化すべき時期なのかもしれない。


No.398
No.400