トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第400号 


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もちださんの鎌倉リポート No.400(2021年6月4日)



No.399
No.401



高峰顕日の墓―塔頭について・4



高峰顕日像(建長寺正統院)
 高僧の塔所は、いくつか発掘調査されたものがある。建長寺正統院の高峰顕日(1241-1316)の墓は、明治初年、王政復古の号令のもと、天皇陵や皇族墓の整備がおこなわれたさいの絵入りの記録が国立公文書館にのこっている(下)。

 高峰は南北朝両統の祖先・後嵯峨天皇の御落胤であり、当時南宋最大の高僧であった無準師範の「伝衣」を、渡来僧・無学祖元から直接さずかった唯一の人物。幼くより無準の弟子である円爾(京都・東福寺)・兀庵普寧(建長寺)にまなび、栃木の那須雲巌寺に隠棲したが、無学に師事し後継者としてみいだされる。やがて幕府のつよい要請により浄妙寺1300・鎌倉万寿寺1303(再1307)・浄智寺1304(再1312)・建長寺1314に出世。門下からは、かの夢窓国師が出て足利幕府の庇護のもと一大派閥を築くが、夢窓は高峰の正嫡の弟子ではなかったから、仏国(高峰)派・仏光(無学)派はその後も存続し繁栄しつづけた。


 高峰は雲巌寺に没し、多くの弟子が拠点とした浄智寺正統庵に分骨。のち夢窓が建長寺にあった無学祖元の塔所「正続」庵を円覚寺にうつしたことから、高峰の「正統」庵はその跡地に移転した(#レポ385)。墓所には祖師堂「常寂堂」が建てられ、現存する高峰の頂相彫刻(図1)が安置された。だがいつしか祖堂の地下にあった墓所の存在は忘れられ、江戸期には完全に所在不明になったと考えられていた。

 そこで天和年間、1680年代に那須の雲巌寺からふたたび分骨し、祖堂のうしろの巌窟中に卵塔を建てて新たにまつった。絵図(右図)の巌窟は中世のやぐらにはあまり類例のないアーチ天井なので、たぶんこのとき整備したものと思われる。ちょうどそのころ、建長寺では西来庵の開山堂が再建され1689、地下から蘭渓道隆の遺骨をおさめた石槨と骨蔵器を発見。遺骨は野外に建つ既知の石塔の下ではなく、開山堂の地下、蘭渓の木像のほぼ真下にあることが明らかとなった。

 中国では六祖のミイラなるものがあり、日本でも、たとえば明月院につたわる塑像の北条時頼像は粘土に遺灰をまぜたもの、といわれる。空海は高野山奥の院に即身成仏し、いまも生きているごとくに食事などをささげるが、禅宗のばあいにも「精しく堂室を構へて床座・臥具の備はらざる所靡(な)く、尊厳の像を設け生けるを以て之に事(つか)へ、蒸嘗(*食事)の礼を為すことを獲る」(竺仙「天源庵記」)という事例がみえる。かりに頂相彫刻がミイラの代用物であり、生死を超越した生き身の祖師であるとするならば、それは真下に実在する本物の遺骸ないし遺骨によって担保しなくてはならない。つまりどこを掘れば失われた祖師の遺骨に掘り当るか、といえば祖師堂があった跡の真下あたりをさぐればいい。じっさい、建長寺では伝燈庵(現・天源院)にて西澗子曇の1732、龍峰庵にて約翁徳見の1738骨蔵器が再発見されてゆく。


 正統庵にて高峰顕日の本来の骨蔵器が発見されたのは1755年。それより先、再建された巌窟内の卵塔が1703年の地震によってくずれ、前面にあった祖堂も倒壊して高峰の頂相彫刻が転げ出すという惨事がおこった。このとき近世に分骨された骨も散乱したらしく、その後、高峰の四百遠忌に際してどうにか土砂のなかから掻き集め、やがて祖堂があった場所に埋め、目印に観音像を置いておいたという1715。この中途半端な措置を憂えたつぎの庵主が、四十年後にその場所を掘り返したところ、その近世の骨壷とはべつに、「大磐二片」の下から旧来の骨蔵器がはいった石郭(左図左)が出土した。

 中央の穴のなかには卵型の銅器(下図右)があり、そのなかに青磁の骨壷がはいっていた。そこで当時の和尚は、銅器の下層部分に近世に勧請した分骨をともにおさめ(下図左)、祖堂を再建して須彌壇下にあらたな石郭を組んで安置した。明治時代の公文書1875では、「御像堂へ安置し、年来其の侭打ち過ぎ候」とあり、「此の侭御差し置き相成り候ては、御不体裁のみならず、取締り方もこれ無き候の条、右は早々御本墓へ御還座仰せ付けられ候様致し度く」などとしている。

 「御本墓」というのは図2の巌窟墓を指しているらしいが、これは天和年間に整備したものだから、本来のものではない。「不体裁」どころか、祖師堂に収めるのが本来の様式というべきだろう。ただし明治の調査では骨壷まで取り出して陵墓調査係の猿渡容盛らにみせていることから、もとどおり石郭に戻して像下の土中ふかくに埋めていたわけではなく、たぶん堂内須彌壇下の取り出しやすい場所に置かれていたことはあきらかだ。これではたしかに、皇族の墓としては「不体裁」にみえたかもしれない。図3にみえる元来の石郭にいたっては、図2では左下、巌窟の前にころがして放置していたのがわかる(そのうしろにある卵塔は「十二代住職海門東和尚の墓」と記されている)。


 大正の関東大震災では鎌倉のほとんどの社寺が倒壊し、円覚寺塔頭の続燈庵が全焼したが、ここでは太平妙準(?−?)の骨蔵器が焼損してしまった。この骨蔵器は明治30年代に掘り出されたとされ、たぶん地上に保管していたがため難に遭った。太平は高峰の嫡弟子で、骨蔵器にはその旨「夢準和尚の信衣を親(まのあた)りに受くるの的子なり」と夢窓国師によって刻まれ、夢窓じしんは「属末夢窓疎石」、つまり同じ高峰門下ながらじぶんは末端の弟子と署名している。

 太平はおもに那須で活躍、鎌倉では浄智寺正源庵に分骨塔をおいた。太平の弟子にあたる芳庭法菊もそこで死んでいるから、太平の分骨塔もしばらくそこにあったのだろうが、いつしか同門・大喜法忻(?-1368)が開いた円覚寺続燈庵に改葬されたものとみられる。江戸前期の「新編鎌倉志」の段階では、浄智寺の塔頭は見山崇喜(?-1323)の正紹菴ひとつのみとなっていた。この人は無学の弟子ではあるが、高峰門下ではない。高峰派の塔頭がみな亡んでしまった時点で、太平の骨蔵器は住僧とともに円覚寺に移り、改葬されたのだろう。

 高峰の二番弟子にあたる樞翁妙環は「鶴見寺尾郷絵図」にかかわり深く、京都の夢窓・那須の太平に代り、実際に鎌倉にとどまって所領の管理などをしながら正統庵の移転を指揮したものと思われる。「浄智寺正統庵」跡地は、たぶんそのまま一番弟子たる太平の正源庵にうけつがれたとみられ、樞翁の塔所は移転後の「建長寺正統庵」のすぐ傍らにいとなまれた。現在はともに廃絶し、樞翁の墓は「鶴見寺尾郷絵図」を伝来した松蔭寺の門前墓地にあるだけだ。現在浄智寺の墓地には、近世の住職・庵主とみられる「座元」銘の卵塔がいくつかある。「座元」とは臨済宗の高僧を示す僧階の最上位ではあるのだが、朝廷から「禅師」や「国師」の号を得るような、すばぬけた名僧ではなかったようだ。



下は天和年間の分骨をおさめた容器
 絵図にえがかれた高峰の骨壷は牡丹の浮紋をあしらった青磁。「高さ二寸二分、径(わた)り三寸四分」とあり、元々小ぶりな香炉として作られたもののようだ。寿司屋の湯のみのようなものは、土砂から採取した近世の分骨で、ほんらいはなかったもの。銅器内のこの分のスペースには、腐朽しやすい木製の数珠や文書類など、べつのものが入っていたのかもしれないが記録はない。

 銅器は「凡そ高さ五寸三分五り、径(わた)り五寸一分」「横の匝(めぐ)り一尺五寸、竪の匝り一尺七寸」、ダチョウの卵程度のおおきさ。石郭は「(縦)一尺九寸八分・(横)二尺二寸五分・(高)一尺九寸六分」、上面の孔は「径り九寸四分・深さ一尺五寸」とあり、やや余裕があるので、ここにも衣類や扇などの副葬品があったかも。これを「厚さ一尺四寸」の蓋石が覆い、「方五尺」ほどの「地下窟」の中央に安置、さらに「横二尺、厚さ一尺三寸、長さ五尺」ほどの天井石二枚で封じていたとする。

 別の和尚、蘭渓や約翁徳倹の骨蔵器はややちがっていて、「槨中に石卵有り、卵中に鑞缻を安んず」などと記録されている。鑞とは白鑞(しろめ)、銀細工の代りに用いられる錫が主体の合金であるが、つまり骨壷は青磁などの陶器ではなく、経筒などのような「缶」だった。そして「石卵」というなぞの石造物のなかにあったというのだが、これはどんなものか、絵図などもなく、詳しい形態はわかっていない。蘭渓のものは「ロ径二尺九寸五分」「高さ底蓋三尺六寸」とかなり大きな伊豆石製の球体で、蓋と底ふたつに分かれ、合わせ目を石灰で密封していたという。鑞缻は八角柱で銘文を刻み、「高さ八寸、衡七寸三分」。コアラのマーチの箱くらいな大きさと想像していい。


 祖師堂(開山堂)については通常公開されないことが多いが、杉田の東漸寺では蘭渓の弟子・桃渓徳悟(1240-1306)のものが花祭りの時に拝観できる(右)。おそらく蘭渓の開山堂(西来院)の知見をもとに復元されたものと思われ、供養や礼拝を行う「昭堂」と連結。須彌壇下に空間が設けられているようにみえるが、その床下になにが埋まっているかは不明ながら、解説板によれば背後に「日本で二番目の古さ」の卵塔があるという。また、境内にある凝灰岩の五輪塔は風化が少ないので、これも歴代和尚の祠堂下にあったものが堂宇の倒壊などで破損し、外に出たものかもしれない。

 開山堂には「見性」の額があり、これが塔の名(見性塔)にあたる。入り口には「勅謚宏覚禅師」の額がかかり、「後花園天皇の御宸筆」。昭堂部分の外面には「瑞興庵」とあるが、これはかつての開山塔頭の号。桃渓の塔所には別に円覚寺大仙院があったが、その廃絶後の事情はさだかでなく、背後の卵塔などは大仙院由来の遺物だったのかも。また表からはみえないが、内部に開基・北条(名越)宗長の廟を併座するという。

 この堂には鎌倉後期の五山のビッグネームが名を連ねた貴重な詩板もつたわっていて、没後まもなくつくられたとみられるから、亡き桃渓の霊に捧げる、感謝と友情の寄せ書きみたいなものだったのかもしれない。建長寺一山一寧・円覚寺東明慧日といった渡来僧が編集・制作・奉納にかかわったらしいことも、当初の塔頭のインテリアを想像するうえで注目に値する。



左は大田原市HPより
 正統院蔵・重要文化財の頂相彫刻「高峰顕日像」(図1)はいっけん奇麗だが、後世の補修で布が貼られ漆で固めてあるため、細部の原状をややそこねている。白目がちで上目づかい、神経質そうな表情など、弟子の夢窓の頂相を髣髴とするところもあり、どこまで真をつたえているのかは微妙。たとえば天目山の中峰(元の高僧)と弟子の業海本浄(日本人)の像が似ていたりするのは、仏師の系統が同じというだけでなく、法乳を示すため意図的にそうしたと考えるのが自然。那須の雲巌寺につたわる高峰顕日像(左・重文)のほうが、おそらく真にちかいのかもしれない。

 黄檗の高僧・鐵牛道機(1628-1700)は鎌倉をたずね、各寺の祖師の頂相を拝した。「瑞泉寺に到り夢窓国師の像を礼す」「寿福寺に桂蔭庵の以天老宿を訪ね、引いて法雨塔に到り千光国師の像に礼す」「浄智寺に仏源禅師の像を礼す」「円覚寺に到り仏光国師の像に礼し、兼ねて育王山に伝ふる所の仏牙舎利に礼す」「常楽寺に到り大覚禅師の像に礼す」。鉄牛和尚は「新臨済宗」である黄檗の教え以外に、「旧臨済宗」のなかに何をみいだそうとしたのだろうか。

 頂相彫刻は墓所である個別の塔頭のほかに、仏殿付きの祖師堂に達磨像などとともにまつられることもあり、現在でも塔頭や開山堂が廃絶するなどして多くは仏殿のはしっこに置かれている。非公開のものはむしろまだ遺骨との結びつきが深いのだろう。だからといって、高峰なり無学などの教えがそのままのこっているわけではないし、その語録などの著作がいまもとりわけ推奨されているわけでもない。中世の禅はすでに廃れ、近代の臨済宗は、すべて江戸期に中興した白隠の禅だという人も多い。


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