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もちださんの鎌倉リポート No.401(2021年6月18日)



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無名寺社紀行・15


 いぜん「鷺姫」の項などで触れた、東京都世田谷区にある駒留八幡の本社には、左近太郎入道成願という人が「徳治参年」1308に埋めた「経筒」が、17世紀後半に石段整備のさい掘り出され、神体とともに祀られているという。この成願は執権北条氏の一族であるとされ、俗名や系譜は同定できないが、左近はおそらく左近将監、すなわち代々親王将軍に随身として近侍した家系の長男で、この周辺に領地があったものと思われる。

 その成願の庵跡とつたえる寺が、やや離れた場所、環七と246とのひどい渋滞で知られる「上馬」交差点にある。【宗円寺】というのは成願の戒名「心覚宗円大庵主(1317没)」に由来するとか。寺はもともと駒留八幡の別当寺だったといい、過去帳には成願とともに常盤姫のものとされる戒名「香林院殿海岸宝樹大姉」も書かれているという。江戸期には「正塚の婆」の堂と合併する形で復興され、三途の川の婆さまはやがて「咳のおば様」と混同されて子供の病、風邪や喘息・百日咳に霊験のある寺として人気をあつめたらしい。門前にはちかくの小学校が、ここの寺子屋発祥である旨の碑も建っている。



最乗寺
 中世史の大家・網野善彦さんは「百姓は農民ばかりではない」とか「百姓にも苗字があった」などと書いているが、近世の兵農分離以前は、名主(庄屋)階級はほとんど武士であった。むしろ在地武士が農業や商業、漁業、運送、金融などを手広くいとなんでいた。そもそも大名も名主も語源はおなじなのだ。近世の大名や旗本たちだけが、その地位とひきかえに先祖伝来の土地を返上し、幕府任命の采地において、改めて俸給(地頭銭)としての年貢をえるようになったのだ。

 世田谷吉良氏の旧家臣は武士の株をすてて帰農した。失脚すればすべてがゼロになるサラリーマン旗本なんかより、一定の土地を所有したまま安定した収入を得る名主生活のほうが大事。大庭氏の子孫という大場さんは井伊氏世田谷領の農民代官となり、代官屋敷をのこした。鷺姫伝説の大平氏は吉良氏関係の古文書をつたえた。自由が丘の栗山氏は古民家一棟のほかなんの由緒物もないけれど、いまも都下有数の一等地に大量の分家をのこしている。

 横浜市都筑区勝田の古民家・関氏も吉良の旧臣であった可能性がたかい。ちかくの菩提寺、【最乗寺】は江戸期に旗本医師・久志本内蔵家(神宮出自の漢方薬家)の采地になったさい中興されたというが、境内の銀杏は室町にさかのぼるという。関氏一族のお墓は屋敷墓以外にもこの寺の裏山斜面にあり、使われなくなったむかしの細い石段の名残りなんかものこっている。ふるい参道があるということはそれだけ墓が古いというあかしであろう。そういえば子供のころ栗山家の東光寺にもうでると、墓地参道に近世の甕棺とおぼしき大甕のふちが露出していて、まいどそこを踏んで通ったのを思い出した。



StreetViewより
 コロナ関係の暇つぶしにGoogleのストリート‐ビューをみていたら、子供のころに見た京都の【鳥部野】を思いだした。いわゆる清水坂は六道の辻から登る比較的しずかな坂で、ふつう観光客が観光バスを降りて登るのは五条坂(または茶碗坂)といい、産寧坂の分岐がある上の方で清水坂と合流している。このにぎやかな門前街よりひとつ南、「西大谷廟」の看板がある路地をえらぶと、一面墓だらけの異様な光景がひらけている。

 この鳥部野墓地を登っても、やがては同じ清水寺に行き着くのだが、当時はひどい線香のけむりに巻かれてへきえきし、おはぐろ屋なんかを見つけてびっくりしたりした。坂のとちゅうに日蓮寺院・【本寿寺】があり、鎌倉でもよくしられた、なべかぶり日親の墓が掘り出された場所だという。日親は生前、抜けた歯を堺・本成寺の寿像におさめたり、鳥部野に寿塔1455を用意して「逆修」云々の銘文を刻み、いわゆる弥勒成道の暁に遺骨を残そうとした。ところが戦国時代になって、盗掘を恐れた弟子たちはその石塔を地中深くに埋めてしまったらしい。

 文禄四年(*1595)、これがにわかに発掘され、のち京都における日親派の総本山・本法寺に移された。このころ日蓮宗の主要な本山のひとつ中山法華経寺の日通上人が本法寺に入ったことから長谷川等伯や本阿弥光悦の帰依をうけ、日親の名はおおいに顕彰されるようになる。日通の師匠・日bは安土宗論に負けて信長にブン殴られたのだが、のち家康には重用されたらしい。「権力にさからう日親」は、むしろ権力に従う側の和尚によって演出された、コントロールされたイメージだったのかもしれない。



ベース‐イメージはGoogleMapより(以下同様)
 厚木市金田の【建徳寺】は依知地区の南側、金田神社の裏手で中津川の河岸寄り。近隣の日蓮寺院、星下りの妙純寺とともに本間重連の菩提寺といい、蘭渓の高弟で建長寺6世・葦航道然(1219-1301、蘭渓の弟子)を開山にむかえたという。本間といえば熱狂的な日蓮信徒であるかのようにいわれるが、代々弓馬の名門として幕府・公方府に仕えてきた関係上、禅を完全否定していたとは思われない。いまの妙純寺が本間屋敷の跡だとすれば、本間氏が衰退するまでそこは住居だったわけで、妙純寺はずっとあとに出来たことになる。本間重連がひそかに日蓮を崇拝したのだとしても、当初は屋敷内の仏壇とか、「星下り」伝説がある近在の別寺院において、だったろう。

 昨年、県立歴史博物館の特別展「相模川流域のみほとけ」でここの葦航像が展示されていたが、すくなくとも本間氏がいた公方府時代の作だという(#レポ386)。葦航とは、梁の武帝に拒絶された達磨が、南京からはるか遠く北魏の洛陽にむかって、揚子江にうかべたちいさな葦の葉の舟で去ったという、神仙伝説にもとづく道号で、蘭渓がつけた名だろうか。閻王寺こと円応寺ゆかり、葦航と同門の桑田道海の場合は、桑畑もやがて大海となり大海もやがて桑畑となる、凡人が嘆く世の変転も、不老不死の仙人の目からみれば大したことではない、というたとえ「桑田滄海」ということわざのもじり。

 246の旧道はやや南の海老名を通っていたから今のバイパスは近代以前にはなく、本間屋敷はいまの妙純寺境内よりも広く北方の微高地にまでひろがっていたはず。南辺には山門から馬場がつづいており、両側に埒(らち≒土塁)がのこっている。本間・海老名は騎射の家としてしられ、平時でも「犬追物」などの騎射イベントをまかされていた。ちかくの牛久保用水も本間重連が開削したとつたえるなど、立地としてこの場所に中世舘があったとして矛盾はない。



やぐら群入り口と寺。StreetViewより
 開山には、もちろんみずから山寺を開いて隠棲しようとした、なんて例もあるが、多くは名義を貸したり、檀家や弟子にたのまれ開山供養のみ行ったり、あるいは一年程度住持する約束を果たして二度と訪れない、なんてことも多い。委しい伝記のある僧にはそんな事情も散見されるのだが、禅僧の伝記は多くが略伝にすぎず、空白がない方が珍しい。鎌倉近隣では幕府親派の領地が多かったろうから、倒幕以降、断縁のため急遽改宗してしまったり、創建の事情や開基の名が故意に抹消されていったとしても、とりわけ強く疑う理由にはならない。

 檀家に頼まれ、既存の律寺を禅に中興改宗したものの、のちに浄土寺院にかわってしまった、なんて例もあるようだ。竺仙梵僊の【三浦無量寺】1338も、運慶仏で知られる芦名浄楽寺にちかい長坂にのこってはいるが、現在は「三浦七阿弥陀のひとつ」「和田義盛の菩提所」、または「鎌倉無量寺の後身」などとされ、浄土寺院となっている。竺仙には「住浄智寺兼三浦長坂山金剛無量寿寺語録」がのこっているから、たんなるリモート住職ではなく、一時的にせよ竺仙本人が滞在し、禅寺として機能していたことが裏付けられる。

 ここは倒幕以後、尊氏の寵臣で猶子にまでなった大友氏泰の治めるところとなったらしく、ちかくにある長坂やぐら群はその一族の墓地かという。大友氏は竺仙や明極の来朝にかかわり、渡来直後から大分に招こうと画策していたので、鎌倉の近傍、しかも浄智寺兼帯という、公方府や竺仙本人が受け入れやすい条件を提示したのだろう。ただ大友氏の撤退後に寺はふたたび三浦一族のもとに帰したらしく、律寺はもともと四宗兼学で真言浄土を含んでいたから、たぶんもとに戻って浄土宗になったのだと推測される。ちなみに大友氏泰は中巌円月の招聘もくわだて、群馬の奥地に吉祥寺をたてている。つまり、そこにも所領の飛び地があったらしいのだが、竺仙や中巌はともかく氏泰本人は大分からここまで、無事遠距離通学できたのだろうか。 



GoogleMapより
 去年、県立歴史博物館でみた海老名・【龍峰寺】の千手観音像は、その解説に「奈良〜鎌倉時代」と表示されていた。レポ293に紹介したように、これは境内中央にある水堂(旧清水寺)の本尊で、水堂は相模国国分尼寺の後身ともいわれる。すなわち奈良時代末期の観音の巨像が鎌倉時代初めの修復によって削り直され、清水寺式千手十一面観音(玉眼入り)に改造された、という見立てだ。縁起1690では京都清水観音の余材で作られたといい、頼朝のころ「延暦中之款識」がある箱にはいったままここに流れ着いたため、水堂清水寺を創建して祀ったのだという。鎌倉長谷寺(新長谷寺)の伝説とほとんど酷似しており、これも新清水寺としてつくられたのかもしれない。

 【現・国分寺】には中世における「国分尼寺」の鐘1292を伝え残している。なぜ「尼寺」のものがここにあるのだろうか。現・国分寺は近世になって、南接する切通しの陸橋をこえた小中学校の傍らにあった別院【薬師堂(上の台廃寺)】を移築して再興したものだが、天正の制札1590には「国分仁(尼)寺」とのみあり、同廃寺に国分尼寺が置かれていた時期があっただろう。水堂が現在地に移る1689まで、ここが国分尼寺とされていたのだとすると、中世の国分僧寺はどこに行ってしまったのか。移築された薬師堂は奈良時代の建物だという説もあったようだが、明治43年に焼けてしまった。

 龍峰寺(1341創)は火事で全焼し末寺だった水堂の地に居候する大正時代までは、いまよりずっと南方にあった。いまは中学校に隣接するちいさな公園に鉄牛道機(1628-1700。黄檗僧)が詠んだ龍峯寺八景のモニュメントが置かれている。つまり龍峰寺も近世までは薬師堂とほぼ同所に並んで建っていたのだ。また、恋人のために旧・国分寺に放火し死刑になった、伝説の「尼の泣き水」もそのあたりにあったとか。この「泣き水」伝説には異説もあり、水堂の仮名縁起1646では「いにしへ平家よりたのまれ、(石山寺に隠れた)悪源太の御城・七堂に火をかけし尼の泣き水あり」などとされている。また湧き水の場所も、・・・さまよえる旧国分尼寺が最初に移転881した漢河寺跡かとされる「浅井の水」での話ではないかともいう。それらの「水」は、台地上にかよっていたふるい運河(逆川)にまつわるともいわれる。じつにややこしい話だが、「遠い過去から流れ着いた」とされる観音像は、ただその運河をつたって「移転先へと運ばれた」だけなのかもしれない。



まあ今はどれも平凡な寺だけれど(福王寺)
 約翁徳倹(1244-1320、同)を開山とするのは、水郷田名の北方、相模川岸にあたる相模原市大島にある【清岩寺】。また愛甲石田の【円光寺】は建長寺21世・玉山徳璇(1255-1334)の開山とされる。伊勢原市三ノ宮の【能満寺】は鎌倉禅興寺の無印素文が開山1345、明月院の渕心玄龍が中興したという。いぜん板碑の見学で訪ねた鷺沼の【福王寺】(川崎市宮前区有馬。レポ77)は、円覚寺頭頭の「福王寺」が移転したとされる。しかし板碑は禅宗の習慣にはなく、建武から文明年間の板碑の存在はそれまで真言律の寺であった傍証をしめすものかと思われる。

 県内周辺には、「東勝寺の後身」「最明寺の後身」などと名のる寺はすくなくない。まったくのハッタリ、という蓋然性もなくはないが、たとえば衰退した寺を焼け出された和尚が、所縁の小堂などに疎開して法灯を継ごうとした可能性もなくはないし、むしろごくふつうにあったことのようにも思われる。時代がくだり、寺院が増えれば増えるほど、檀家探しはむずかしくなる。戦国時代には天皇ですら放浪したのだから、名僧の孫弟子のそのまた孫弟子クラスの凡僧が、筋のいいパトロンを得て廃寺を元どおり立派に再建できるはずもなく、せいぜい末寺に慫慂し居候するくらいが関の山だったはずだ。

 もちろん鎌倉の旧市街いがいに立派な中世寺院がなかったわけではない。「まんが日本昔ばなし」でも放映された恩田万年寺の鐘(1325現・上瀬谷妙光寺。レポ79)は相当りっぱなもので、銘文の「大檀那菩薩戒弟子広鑑」が「崇鑑」なら北条高時だし、鋳物大工・物部守光は円覚寺の大鐘などをつくった国光の同門。文献資料から完全に消し去られ、その存在すらも忘れ去られた寺院であっても、たまたま残された金石文に、その痕跡が明瞭にのこっていたりする。


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