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もちださんの鎌倉リポート No.402(2021年6月23日)



No.401
No.403



無名寺社紀行・16


 「とふとふし 安房の忌部が斎(いつ)きにし 神の稜威(みいつ)を仰ぐ霊杉(たますぎ)」という碑があって、「御神木旧地」という碑や切り株のようなものものこっている。横浜市北部病院のさきにある都筑中央公園の傍ら、【茅ヶ崎杉山神社】。本来はいまの市歴史博物館のあたりに本社があって、その社叢であった吾妻山が半分だけ切り残され、ぼた山のような奇妙な形の公園になってのこっている。いまの社地は元の御旅所で、ニュータウンの開発によって移転した。

 お旅所とは神輿の神幸が留まるばしょで、京都祇園の少将井のように古来名をなし、祠がたつこともある。鶴岡八幡宮のばあいは二の鳥居に仮設され、また荏柄神社はなぜか瑞泉寺参道にむかう途中にある(下)。神社じたいに上社下社があったり、諏訪大社のように神輿によらず、神様が勝手に御神(おみ)渡りすることもあるから、神様は移動し、分裂遷座し、いくつも増えてしまうことがありうる。武蔵国六の宮・杉山神社は横浜市北部を中心に50社をはるかに超え、しかもどこが本社かはわからない。江戸期には神祇官や吉田神道にはたらきかけて、本家争いがつづいた。本家争いに名乗りをあげた有力候補を、いっぱんに「論社」と呼んでいる。



荏柄天神御旅所
 分布域はおもに鶴見川水系の中流域(谷本川・恩田川・早淵川など)で、「続後紀」838年条に官幣、延喜式の神名帳には「武蔵国都筑郡」とされる。有力候補には橘樹郡の現・鶴見神社もふくまれるが、「上社下社」の法則でいえば鶴見川河口に下社が存在してもおかしくない。いくつかは近代の神社合併で社号を地名に改めたものもあり、一般的に素戔嗚命の子・五十猛命(イソタケル。植林の神様)を祭るから杉山明神とされるので、同神をまつる熊野権現などに名を変えたものもあるだろう(師岡熊野神社など)。

 あるいは三輪明神のように、そもそも社殿なんかはなく、杉の山それじたいが神のひもろぎだったのかも。その杉の山を伐採し尽くした跡に、ふたたび森がよみがえるよう、申し訳のように神社をまつったのだとすれば、現在のこるすべての杉山神社は仮に神を宿す霊代であって、本社なんか元々どこにも存在しないのだ。杣(そま)から材木を伐りだし、一定期間水に漬けてアク抜きするため海岸ちかくまで運ぶには鶴見川の水系が必要だったから、比較的水量の多い中流域に集中して分布するのだろう。祭神および併座の神には小異もあり、素戔嗚命・五十猛命のほか、おおくは日本武尊を併座し、その本地仏である不動明王を鏡面にきざんだ【懸仏】を神体とするものが多いが、後述するように、これは山伏の信仰に由来する。

 茅ヶ崎杉山神社のばあい、禰宜の子孫を称し、社の鍵をあずかっていた百姓「北村助之丞」なるものが、先祖伝来の系図・古文書をもっていたと、「風土記稿」が記録している。それによれば先祖は安房の忌部氏で、天武天皇白鳳三年、忌部勝麻呂なる者が神託により、自分の祖先にあたる高御産・天日鷲・由布津主命の三柱を祀ったのがはじまりという。現在の祭神としては、この独自伝承は【完全に無視されている】のだが、現に歌碑は建っているし、忌部説だけをひたすら盲信する学者もおおい。ただ、「古文書(家わけ文書)」には自己の家系の由緒をでっちあげるために作成された、いわゆる「木地師(きじや)文書」がすくなくない。その作成をなりわいとするえせ学者もいたし、前述・神祇官をはじめとする公家・神官たちも、金儲けのために一枚かんだりした。鍵取りの北村が代々の禰宜であり忌部であった証拠はどこにもなく、祭事には橘樹郡平村からほんものの禰宜神官を呼んでいたらしいし、天正時代の古い棟札にも「禰宜藤原朝臣金子惣右衛門」などとあって、姓も苗字もまったくちがっている。・・・



裏面にも二首。左の篆書は「氏子中」
 さて、のべたように茅ヶ崎杉山神社はかつて、吾妻山の麓にあった。ここには弟橘媛をまつる摂社・吾妻社があったともいう。これに関連して、川崎市高津区にある【橘樹神社】では、いまも弟橘媛の本廟をなのり、祭神としてその夫・日本武尊を併せまつっている。ちかくには橘樹郡衙遺跡もあり、周辺の古墳はヤマトタケルが「さねさし相武」、つまり相模の走水から上総にわたる「古東海道」をゆく途中、海路に没した弟橘媛の流れ着いた櫛や冠などの形見をおさめたところとされ、つまりこれが橘樹郡の郡名の由来とされてきた。日本武尊がうえたとされる「とことはの松」は枯れ株の残骸がのこるのみだが、これを詠んだ山岡鉄舟の歌碑が建っている。立て札に「読み方」も掲げてあるが、「玉降(タマフリ)の道・・・」云々は「玉鉾(たまぼこ)」の読み違いだろう。

 神仏習合のあいだ、たいていの神社は別当寺をおき、修験道者など半俗半僧の影響をうけた。ここも蓮乗院という真言寺院が隣にあり、「風土記稿」には蓮乗院の持(もち)、と明記されている。日本武尊は役行者以前の修験道の祖とされ、神使(つかわしめ)の山犬に導かれ、ひとり未開の地をつきすすみ、八菅山などの霊場をひらいたと説かれる。茅ヶ崎杉山神社の旧地が吾妻山といったのも、亡き媛をしのんで東国を「あづま」と名付けたという、ヤマトタケル神話の影響。となり村にあたる勝田杉山神社には、いまの東名川崎ICちかくにあった犬蔵蔵王権現の鰐口(銅鑼)があったといい、各杉山社における日本武尊の信仰が橘樹郡方面から修験者をつうじて齎されたことをしめす。

 修験者の類(たぐい)は明治頃まではどこにでもいて、ローウェルの「オカルト‐ジャパン」という本には御岳行者や日蓮僧による「託宣」「口寄せ」「狐落し」など、いまは忘れられた生態がさまざまに記録されている。迷信ばかりではない。ツムラ順天堂をはじめこんにちの漢方薬メーカーの多くが山伏の本場・奈良を発祥にするのは、山伏たちのなりわいのひとつに採薬があったからだ。漢方のくすりのいくつかは、本草学者や里の者が手づから集めるだけではとうてい間に合わず、山伏たちが山岳抖擻(とそう)とよばれる数ヶ月間のサバイバル生活のなかで時間をかけて採取し、伝統的に服用してきたものもあった。庶民にとっては杉山明神の正体がなんなのかとか、仏教の法脈や学識がどうとかいうことより、ただ験のある薬をくれる行者のほうが、よほど大事だったのだと思う。



川崎市教育委員会HPより
 川崎市多摩区の臨済宗建長寺派寺院・【仙谷山寿福寺】には、義経伝説がのこる。寺にはふるい「大般若経」があり、600巻の欠けた部分の4巻分を義経と弁慶が補写、また鎌倉公方足利氏満も補修した1382という。この義経伝説は「ささご姫」の項(#レポ255)にのべたものの続きらしい。創建は不明、「風土記稿」に載る古縁起1407には、「推古天皇六戊午年(*598)、聖徳皇太子、高橋丸の亡妃(*異本「高橋妃の亡妣」)に就き、阿弥尼公終焉の地に入り、剏めて七区の練若(*寺)を建て、以て冥福に資するの旧趾なり」。高橋丸とは太子の寵妃・膳部大娘(高橋妃)の父にあたる傾子のことだろう。その妃「阿弥尼公」には所伝がないが、膳部高橋氏と武蔵国造氏とは同族であり、先祖・磐鹿六雁が景行天皇の東国巡幸に「料理人」として活躍するなど、東国に地縁がなかったわけではない。ただし古来の伝承「太子建立四十六院」にははいっていないようだ。

 縁起が具体性をおびるのは建長寺87世の大安方慶(?-1389)が中興し、同43世・石室善玖(1294-1389)が額を書いたというあたりから。氏満に寺の復興や「大般若経」の補修を願ったのも大安和尚であろうし、「大般若経」じたいは禅宗の所依の経ではないから、その由緒として前身寺院があったのも確かだろう。ここには建長寺の廃院・向上庵から大正時代に移された太古世源(1232-1321。無学の弟子)の頂相がつたわっている。太古は大安の直接の法兄ではないが、像主は胎内銘をみないとわからないため、「それらしい古い和尚の像」として引き取られたのかもしれない。胎内銘には仙谷山32世の積道法善というひとが、これを元は太古の像だと正直に断わったうえで、「大正八年一月、当寺開山に勧請す」などと、しれっと記している。こうした例は多々あったとみられ、京都妙心寺の開山像は、本人が遺言で肖像をのこさなかったため、たまたま老婆が売りに来た、誰のものとも知らぬ和尚の像の頭部を利用したと伝えている。

 川崎にある鎌倉ゆかりの仏像としては、影向寺のふもと、高津区【能満寺】の秘仏本尊「仏師・朝祐」銘の虚空蔵菩薩像1390がある。朝祐は覚園寺十二神将などを復興、百八やぐらの「彫り出し地蔵窟」に供養塔がある人。表現は硬いが、清雲寺滝見観音のような、宋(元)ふうの影響をつよくうけた鎌倉仏師だったようだ。能満寺そばの白鳳寺院・影向寺の創建はたぶん武蔵国造とかかわりがあろうから、太子伝説はそのあたりから来たとも思われる(#レポ234)。ワカタケル鉄剣にある「加差披(余)」を膳部(かしはで)にあてる説もあるようだ。



ベース‐イメージはGoogleMapより
 横浜市の青葉区鴨志田団地入り口より鶴見川(谷本川)へ向うあたりに、【南慶院】という小さな寺がある。ここは円覚寺17世・大川道通(1265-1339、大休の弟子)の創建1338と伝える。聖徳太子開基、なんていうとマユツバものだが、知名度B級の人物だと、たしかに何らかの「いわれ」がありそうに思われる。たとえばちかくにある県内最古の板碑から推定される鎌倉武士・鴨志田氏の菩提寺が禅に改宗。幾度か衰退と中興、移転などを経、辻の堂になるなどしていまに至った、とか。鴨志田団地のある山の手と田圃のあいだの微高地にはふるく腰巻曲輪があったらしく、鴨志田氏の館跡ではないかといわれてきた。

 市営地下鉄川和町駅高架のすぐ傍らにある【瑞雲寺】は、おなじく円覚寺37世・梅林霊竹(?-1374)の創建という。「風土記稿」に、本山の塔頭・宝亀庵から鎮守の稲荷を移した、と伝えているので、あるいは後世、円覚寺宝亀庵の廃絶後に所縁の寺へ、宝亀庵の由緒そのものを移転したのかもしれない。かつては東照寺という子院もあったらしく、明治初年に医学講習所になってヘボンに習った村医師などがつどい、近代医術を談じたのだとか。川和駅前のバス通り(日野往還)は近世の道らしく、やや川沿いに平行して旧道が通い、「宿」とよばれる家並みがある。おそらくそこが畠山重忠もとおった、鎌倉街道の「中の道」だったのではないか、ともいわれている。

 南西、貝の坂を越えた佐江戸町には叡尊の「関東往還記」や称名寺文書にみえる【無量寺】という鎌倉寺院もあり、そこは北条時広(時村の子)の妻(資時の娘)がひらいた尼寺だったらしい。父も夫も歌人として名を残しており、叡尊上人に菩薩戒をうけ「殺生禁断」を約束するなど、文化にも造詣が深かったようだ。境内には板碑も多い。



方外宏遠像(wikipedeaより)
 横浜市神奈川区の【本覚寺】はもと栄西創建の臨済宗寺院だったが、戦国時代に権現山合戦で全焼ののち、跡地に曹洞宗寺院として再興した。臨済宗寺院だったなごりは鎮守の洲崎神社に、義堂周信の親友・浄妙寺芳庭法菊による古鐘がのこっていたが、これも江戸時代には、銘文の不完全な写しをのこして所在不明になってしまった。

 ハマのアメ横でしられる、西横浜の「洪福寺松原商店街」がある【洪福寺】は、建長寺第30世・樞翁妙環の開創とされる。鶴見寺尾の【松蔭寺】と同じだが、松蔭寺には本山・建長寺正統院の荘園図がつたわっていて、この絵図からかつては鶴見郷一帯をおさめる一大寺院であったことがうかがわれる。いっぽうの洪福寺はいまでこそ立派なコンクリ寺院だが、もともとは鎌倉権五郎景政の守り本尊「眼洗い薬師」をおさめた、ちいさな薬師堂であったとつたえる。そこの名も無き住持に、樞翁が付法しただけなのかもしれない。ただ商店街は近世の旧東海道筋にあたっている。すなわち中世にも鎌倉と神奈川湊をつなぐ往還だった。

 横浜市南区永田の【宝林寺】は円覚寺101世・大雅省音(?-1419。龍隠庵)がひらき、円覚寺の退去寮(隠居寺)になっていたという。一説に大雅の弟子・東洲省≠ェ建武年間に天台寺院を禅に改めたとするが、やや時代が錯誤している。江戸期の円覚寺を再興した大用国師や画僧・仙豪`梵らをそだてた名僧、月船禅慧(1701-1781)もここにすんだ。また戸塚の【海蔵院】は、円覚寺に黄梅院をひらいた方外宏遠(?-1363)開山。ここにつたわる方外の倚像(右)は遷化当初につくられた希少な頂相とみられ、12年前に死んだ師・夢窓疎石の痩せた像とくらべ、何を食べていたものか、あきらかに太っているのがわかる。その近くの【高松寺】も夢窓派で、中興・雲岫周泰という人の画軸がつたわる。夢窓は留学体験はなく旧仏教の談義にも通じていたから、むしろ好感をいだく僧俗は多かったらしく、教線は圧倒的にひろかった。ただ師の高峰顕日が無学祖元からさずかった「無準師範の法衣」は、夢窓ではなく太平妙準(大喜法忻・芳庭法菊らの師)にあたえられたらしい。



太子堂八幡宮(東京・三軒茶屋)
 鶴岡八幡宮の教線はいまの都内にものびていて、吉良氏ゆかりの世田谷にも八幡宮領があり、いくつかの八幡宮がある。ちかくを流れる烏山川・北沢川・蛇崩川は合流して目黒川となり、旧品川湊に注いでいたから、中世には年貢など基本的な物流の導線にもなっていた。忘れられた各神社は、十月の秋祭りの時期には神楽が披露され、大量の夜店がでてにぎわう。花見で人気の目黒川はもちろん、烏山川緑道でもときおりイベントがひらかれ、アクセサリーやインテリア小物の出店がならんでたりするが、その下流に中世品川湊があり、中世幕府や公方府の外湊だった六浦や、道灌の江戸城などとつながっていたことに思いをはせる人は多くはあるまい。

 なんにせよ昨今のコロナ問題では、建長まつりも、九品仏の面かぶりも、みんな中止。テレビでは路上飲酒やルール無視の居酒屋への同情ばかりが強調され、「自民を倒し、五輪をやめればコロナは止まり、マスクなしで自由に酒が飲める」「みんなで飲めば、もっとおいしい」などといったデマをひろげている。五輪関係者より、すでに参院幹事長が死んでいる野党や、出入りのタレントや著名人に大量の感染者を出している大手メディア関係者こそ隔離すべきだし、「どこかに必ず綻びがある」というのなら、まず最初の綻び(飲酒)から是正すべきだ。

 今年は薔薇や百合の当たり年であるらしい。傘をお持ちなら、アジサイなんかは雨の日とか、すいてる時にみるのも悪くはないかも。ワクチン接種がすすみ、秋には感染が一段落するというが、コロナ需要で大もうけし笑いが止まらない一部業界としては、終息までただ指をくわえて待っているはずがない。「守り損」「破り得」の報道キャンペーンはしばらくつづくだろう。ニュース番組が唱える革命(笑)に実体などない。スポンサーの意向をひねもす忖度するだけだ。モラル崩壊のその果てに、ツケは大規模増税・年金崩壊・・・惨々たる暗黒の未来なんていうんじゃ、若者のテレビ離れ、政治(野党)離れなんていうのも、まあ当然なのだろう。


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