トップ鎌倉好き集まれ!もちださんトップ 第403号 


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もちださんの鎌倉リポート No.403(2021年6月27日)



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無名寺社紀行・17



バイパスの擁壁の切れ目が入り口
 連歌師・心敬僧都が隠れ住んだとされる大山の麓・【浄業寺】跡は、第二東名の工事の影響で周辺環境が次第に悪化しつつある。大山行きのバスを石倉橋で降り、交差点のひとつさきの路地を左折、工場の脇をぬけると下図の「石仏」(大山不動尊付き道標)のところに出る。川辺におりて鉄板の橋をわたり畦を直進するとすりへった石段がある。おそらく畦の両側の田は円覚寺にあるような門前池だったのだろう。そればかりか円覚寺をよこぎる「横須賀線」に該当する部分に、真新しいアスファルト道路が敷設された。現在の大山道はせまいから、ここが開通すれば右端の茶色の部分とつながり、第二東名伊勢原大山ICから大山に向う観光バイパスとして活用されるのだという。

 やがてドライブインができラブホテルがたち、・・・というのがよくあるパターン。裏山はすでにゴルフ場になっている。寺跡入り口から碁石のようにならんだ奇麗な円い踏み石(#レポ246)は、工事で出た、かつての伽藍石だろうか。もとは政子創建の浄土寺院で、公方持氏・成氏のころは浄光明寺の末寺になっていた。のち荒廃し釈迦堂とよばれていたのを江戸の天和年間に修復、渡来僧・隠元に師事した独本性源(1618-1689)を招いて再興1683。当時、新興の黄檗宗はあらたに寺を建てるのが困難だったため、こうした「空き物件」の譲渡話は魅力的だったのだ。で、その時に修復した本尊釈迦像の胎内銘に、「鎌倉二位・・・建仁元年(*1201)」云々と書かれていたとか。「二位」はすなわち、北条政子。



GoogleMapより
 中世の石塔の残骸が散乱する石地蔵(方丈池跡)をへてさらに奥へすすむと、小径のわきに卵塔場があり、中興開山独本・二代龍潭・・・四代大仙で享保八年・・・第19代のところで文化四年、と数えていく。歴代のいくつかは抜けていて、墓石は半ば埋まり、こわれているものもある。歴代住持の名は独本が深川にたてた江戸初の黄檗寺院・海福寺(現在は下目黒に移転)とほぼ一致、同寺の退去寮となっていたことは疑えない。独本本人もこの地を愛して寿塔を用意、死の前年に正式に引退し、ここで死んだ(「江戸黄檗禅刹記」)。

 独本は住庵「臥遊亭」のほか、境内十景として「大雄峯(裏山)」「三神廟(同鎮守)」「碧蘿軒(同所という)」「羅漢崖(方丈の庭)」「半月池(同)」「戞玉林(竹林)」「連雲橋(鈴川の橋)」「明王峯(大山)」「石仏巌(同)」「仙笠峯(寺の北方)」を選んだ。他に禅堂・斎堂・開山堂・十王堂・鐘楼、のちに伯母様高岳院にうつされた観音堂などもあったらしい。本堂は明治三十七年の土砂崩れで全壊し、ついに再建を断念。本尊は幕末に大火にみまわれた箱根のふもとの黄檗寺院・紹太寺(開山・鉄牛道機)に譲られたという。

 境内十境は古く建長寺に帰化僧・明極楚俊(1262-1336。1329来日)が詠んだのが日本では最古、とされる。境地とは日相観とか阿字観とかいう「観相」にゆらいするらしく、禅ではあらゆるものが悟りの機縁、まずは美しいけしきを見て学べ、というわけで、湘南潭北などの語源もそこからきている。円覚寺の十境はあいまいになっていたため、明治に今北洪川和尚が復元して詩に詠んだが定着しなかった。禅の悟りなんかより、景観保全・環境保護のほうがはるかにむずかしかったのだ。



GooglMapより
 横須賀市には現在もたちいりできない史跡がいくつかある。「海上自衛隊横須賀弾薬整備補給所大矢部弾庫(跡地)」にはかつて【円通寺】という寺があり、裏山のやぐら群には戦前まで三浦一族墓地が整備されていた。江戸時代の僧・戒珠庵慧光は「深谷の山岳、是れは三浦党九十三騎の霊塔なり。山中所々岩洞に安んじ、深谿山円通寺、本尊唐仏瀧見観世音、為通公の守り本尊なり。今は微か成る小庵なり」(新編三浦往来)と書き残している。

 かつては60年に一度の大法要のさい、頂上にあたる三浦為通やぐらに本尊・瀧見観世音の木像をもちこみ、供養する習わしが続いていたのだとか。いまはその滝見観音像とともに中世の五輪塔や印塔、年号のある板碑など、主なものが近在の寺に移されている。「やぐら」に木像をはこびこみ法要をおこなう例としては、釈迦堂谷の「普川和尚入定窟」にも伝承があり、建長寺「朱たるきやぐら」などでもおこなわれたと推測されている。

 九十三騎の墓のより精しい情報は国立公文書館のHPから「三浦古尋録」を検索、巻2の11・12コマ目にでており、くずし字ではないからたぶん読みやすいと思う。調査時における概要や見取り図は、鎌倉考古学の先駆者・赤星直忠氏による往年の論文を再掲した「中世考古学の研究」(有隣堂1980)にのっている。被葬者各々の比定はともかくも、墓石はたしかに鎌倉〜戦国期のもの。中世の瑩域が一族子孫により近代にまで守り継がれてきたことが分かる。ゆくゆくは緑地全体を市が取得し、公園にするなどの案もあがっているらしいのだが、国との調整が難航したままずっと塩漬けになっているらしい。はたしてやぐら群は無事なのだろうか。



明治期の地図より
 立ち入り禁止といえば米軍基地となった横須賀の【泊船庵跡】もそのひとつ。ただし遺構は横須賀造船所の建設で切り崩され、夙に失われている。ここは鎌倉時代の横洲(よこすか)湊の灯籠堂(灯台)として、三浦貞連が創建1319、夢窓疎石(1275-1351)をまねいた。夢窓は執権北条高時の母、覚海円成尼の「強い要求」により鎌倉に入り、勝栄寺をへて、ここに「かくれ住んだ」。その後いったん上京、南禅寺に出世1324し、鎌倉にもどってからは二階堂の傍らの南芳庵を経て、瑞泉寺を開く1327。このあいだ、五山の寿福寺や浄智寺、亡師・高峰顕日の雲岩寺などへの要請はすべて断わって、小寺院をわたりあるいたのだという。

 夢窓の伝記は死後まもなく「天竜開山夢窓正覚心宗普済国師年譜」が五山版として公刊されているが、功成り名を遂げてのちのもので、顕彰色が強いのは否めない。夢窓がかたくなに出世を拒否した、などというのも、本当かどうか。じっさい名僧が群居した鎌倉幕府内での序列はまだ高くはなく、もともと泊船庵や南芳庵・初期の瑞泉寺といったB級寺院の住職がせいぜいだったのかも。これを逆手にとって、高時の意向にさからい続けたのだとか、腐敗した鎌倉禅宗を厭い故意に名聞を避けたのだとか、建武政権や室町幕府にごまをするのにつごうがいい、親パルチザンふうの自画像をこしらえたのだろう。

 「三浦に抵りて横洲に留まりて泊船庵を建つ。来たり扣く者甚だ多し。愈いよ杜絶す」「泊船庵の後ろの山巓、陡然として海中に在り。師、其の上に於いて一塔を建つに、海印浮図(*塔の意)を将(も)つて額と為す」(年譜)。


 上の明治前期の古地図では、すでに造船所は出来ているが山はまだ、それほど切り崩されてはいない。楠ヶ浦町という文字のひだりにみえる光心寺は、今は衣笠駅ちかくに移転しており、江戸後期の「風土記稿」によれば、一尺八寸の十一面観音像を「夢窓国師の守護仏」と伝えていた。泊船庵の跡は「今陸田となれり」、三重塔があった「塔ヶ谷」とか、頽廃後に堂の残骸を埋めた「堂ヶ塚」なんて地名もあったようだ。

 古書では、夢窓本人の詩に、建長寺の霊山道隠(1255-1325。1319来日)がしばしばここを訪ねた旨がみえ、弟子の義堂周信にも師を偲んで訪ねた詩がある。また同名寺院との混同があるかもしれないが、清拙正澄の詩にも「泊船庵」がみえ、竺仙梵僊(1292-1348。1329来日)の詩集では「別伝和尚」、中巌円月の詩集にも「三浦泊船庵、胤別伝、此に住む」とあって別伝妙胤(?-1347)が一時すんでいたことが知られる。江戸期の誠拙周樗(1745-1820)の詩集には「三浦泊船庵・・・屋後に禅巌有り」とあって、廃絶後にもなんらかの屋が建っていた可能性もある。

 夢窓は1329年、円覚寺に住持するがすぐに瑞泉寺にのがれ、甲斐に逃亡して慧林寺を開き、やがて高時は夢窓を建長寺に推すがこれも断わった。円覚寺を辞めた理由は、大寺院には金持ちや権力者の男女が出入りし、あるいは自ら「陞座普説」におもむいて金儲けする僧が多いからだという。幕府の滅亡は瑞泉寺で迎え、多くの兵士をすくったと伝えている。それからの京都における大出世は周知の通りだが、富貴名聞を極度に嫌ったという、それまでの主張はなんだったのか。あたかも新政権で「革命」「世直し」に参加しているかような誇大妄想に耽っていたものか。夢窓以後の禅宗が変質していったのだけは、たしかなようだ。・・・


 賑っていたころの【師岡熊野神社】(横浜市港北区)の七夕「星まつり」。階段の上は無数の短冊がいろどり、出店がでて足の踏み場もないほど。暗くなって雅楽がはじまり、幼い子をつれた家族連れは夕食に帰って、ようやく人出もはけてくる。2019年は雨でいまいち、その後の2020年、2021年は周知の事情で中止。

 神社は聖武天皇のころ、全寿仙人が開いたといっている。ここの隣に法華寺という旧別当寺があり、周辺の杉山神社なども管し、鰐口などを鋳造した記録もある。つまり修験系の神社だったようだ。写真の鳥居の前にはひろい池があり、「い」の池といっている。また社殿のうらのちいさな湧き水を「の」の池といっている。ここから鶴見にかけて三ッ池公園などいくつかの池がいまものこっている。寺社の信仰をてこに山林を開発し、ため池をつくり農地を開いていったなごりなのだろう。「鶴見寺尾郷絵図」にもそうした池のいくつかが描かれている。社には筒粥神事というのがのこっていて、米・麦・大豆など、かつての農産物が品目ごとに占われる。

 「鶴見寺尾郷絵図」には「次郎太郎入道堀籠」「五郎三郎堀籠」「性円堀籠」「藤内堀籠」といった小規模な開拓地が台地上の谷戸にいくつか描かれている。鎌倉末期には大量の輸入銭が流通し貨幣経済が活発化、金利があがるなど貧富の差が急拡大。荘園でも山林や荒蕪地をとりくずし、中小の事業者に権利を分譲、すこしでも実入りを増やそうとしたのだろう。開拓といえばきこえはいいが、山椒大夫のような、あくどい業者もいたはず。また、ひとつの土地にたいする権利関係の複雑化は取り分をめぐる紛争を生み、やがて権力者による理不尽な裁定や外部勢力の介入といった、不穏な要素をもまきこみはじめる。暴力は各地で雪だるま式にふくれあがり、とりかえしのつかない形で乱世への道をひらいていったのかもしれない・・・。



GooglMapより
 オリンピックの聖火リレーが非公開となり、鎌倉コースではなぜか相模原市緑区の橋本公園でのセレモニーとなった。まあなにもない、ありふれた公園なのだが、この航空写真をみて、どこか「ヘンな所」はないだろうか。そう、橋本駅方面から区庁舎や橋本公園にむかう「大通り」はあるけれど、横断歩道がほとんどない。当初予定していた相模原コースでも、歩行者信号のあるビック‐コジマの裏のほうを迂回して大通りをわたる計画が、「交通事情により一部区間車輛での走行」になるなどの変更・混乱があったようだ。

 横浜市営地下鉄の、一部高架になっている「川和町」駅の下の道でも、歩道はなぜか寸断され、いったん駅舎にあがってまた降りる、という「謎すぎる導線」をたどらなければ歩行者は先に進めなくなっている。都市化がすすむ新興市街地では、ままこんな不親切な場所にゆきあたる。ザハ氏の設計では「金がかかりすぎる」のだとしても、都市計画で交差点に横断歩道をつくるくらいの才能は、土建屋のどんなに安い建築家にもありそうなものだ。

 部外者を無視した身勝手な再開発で「古き良き」渋谷が滅んで、東京の中心が西から東へ回帰すると、千葉出身のマツコ‐デラックスさんが願望まじりにいっていたけれど、たしかに、開発には明も暗もある。宮下公園の向うの児童館は、どこへきえた? 酪農でしられた相原高校があったころの橋本も、いまは遠い昔となってしまった。鎌倉の若宮大路や段葛も、きれいになってむしろ以前の風情が失われたと感じるひともないわけではない。「私有地につき立ち入り禁止」、そんな廃道もふえた。市役所の移転やら旧野村総研の跡地開発やら、これからの古都を巡る問題も、これらと無縁ではないのだ。


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