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もちださんの鎌倉リポート No.404(2021年7月15日)



No.403



邪教について


 薬王寺の本尊・日蓮聖人像は鼠山感応寺のもと本尊だった(#レポ334)。東京・目白にあった鼠山感応寺は、江戸幕府十一代将軍・徳川家斉(1773-1841、1837隠居)の肝煎りで建てられた1835ものの、没後に急遽取り壊された1841、幻の寺としてしられる。

 家斉はすくなくとも16人の妻妾をもち、50人以上の子をもって、血筋の絶えた尾張家などに養子を提供するなど、艶福家としてもしられた。ただ伝説では、もはや60すぎの元将軍に大奥の若い側室や大勢の腰元たちが満足できるはずもなく、家斉におねだりして建てさせたその感応寺の妖僧たちと日夜歓楽に耽った、という見立てになっている。スキャンダルの真偽はともかく、化政文化とよばれる江戸最大の繁栄期をもたらした大御所家斉の治世を、なんとしてでも否定しようとする流れがあったのはたしかなことだ。


 鼠山感応寺がえがかれた資料はすくないが、これは「東都本化道場記」で、破却前の天保十一年の序がある。絵師は酒井抱一にまなんだという山田抱玉で、伽藍の位置などは別につたわる指図とほぼ一致するから、雰囲気はよく伝えているようだ。

○ 鼠山 長耀山感応寺 (寺領三十石 一本寺)
開山・日源聖人。元録年中(ママ)天台宗となり、天保七年、台命に依り御再建。中興・池上四十八世日万上人。祖師堂尊像は如水の作、公儀御普請。有徳大君、御鼓被為打候旧跡あり。稲荷社は安藤侯の屋敷の時よりあり。鐘楼。鼓楼。寺中、源性院 一如庵。

 有徳大君とは将軍吉宗(1684-1751、1745隠居)のことで、家斉の祖父・一橋宗尹の実父、つまり曽祖父にあたる。鼠山周辺は御鷹場で、風土記稿では「御鷹部屋」云々の記述がある。吉宗は将軍在任中の1727年からたびたび鼠山に通っているが、儀式的な記録はないので、私的な趣味としてお忍びで行っていたのだろう。ちなみに御鷹場では雑司が谷鬼子母神の別当寺・法明寺(日蓮宗)が将軍の休憩所となっていて、そこは源氏ゆかりの武蔵威光寺の後身、という説もあった(#レポ254)。感応寺の破却後は、鼠山は砲術などの練兵場となったようだ。



谷中天王寺の塔(大正時代)と本門寺の塔
 感応寺はもともと谷中にあったが、改宗命令によって日蓮僧は流罪・追放となり、寺は没収された1698。門徒たちにとって、その再興は積年の悲願だった。けっきょく日蓮宗への復帰はかなわず、鼠山での別途創建となったわけだが、谷中の感応寺は鼠山への再興が決定1833した時点で、天王寺と改称している。幸田露伴の小説「五重塔」1891の主人公・のっそり十兵衛がたてたとされる塔、つまり戦後まで残っていた「谷中の塔」は天台宗への改宗後の再建1791であるが、おもてむき「不受不施」を標榜した日蓮宗時代にも、塔1643はたっていた。池上本門寺の塔1608は江戸初期の貴重な遺物、いまはないが品川の天妙国寺にも、将軍家光の後援で巨大な塔1634がたっていた時期がある。

 一方、図絵にもあきらかなように鼠山の感応寺には五重塔はなかった。徳川将軍家は三代家光の東照宮造営を頂点として、しだいに倹約に転じた。子宝に恵まれなかった五代綱吉(1646-1709)が犬を溺愛したことはよくしられているが、甥で養子の家宣は将軍継承三年で死に、その子家継も三年で幼没。徳川将軍家正嫡の血筋はこうしてあっけなく絶え、分家紀州から三男坊・吉宗を招く。八代吉宗はいちじ紀州分藩の小領主として松平頼方となのったほどの、比較的末端身分からの大出世であり、革命的できごととして【善政への期待】を持って迎えられたようだ。

 暴れん坊将軍、というのはフィクションであるにせよ、じっさい享保の改革がおこなわれたのは事実だし、庶民の墓石がこのあたりから激増するので、民衆のくらしむきも向上、上方のセレブ文化が後退し江戸庶民文化が花開いてゆく。天命尽きた前世代を「犬公方」などと、なかば公然と切り捨てる史観も語られた。ただ綱吉の時代にも江戸城天守の再建を断念したような倹約意識はあったし、吉宗の時代にも天守再建の議論はあった。家斉も「田沼の悪政」をひはんする松平定信を登用、朱子学にもとづく寛政の改革に着手するが、批判もあいついだ。このような世相においては、伝説の伏魔殿・鼠山感応寺がどれだけ公儀肝煎りの寺であったとしても、広大かつゴージャスな大伽藍、というわけにはいかなかったのだろう。むしろありふれた、平凡な寺であったのかもしれない。



都内最大級の境内規模をほこる池上本門寺。境内展望台から
 朱子学者は革命理論をもっていて、天命を失った前政権は倒れると主張した。将軍綱吉や家斉にたいする人格否定も、その流れにあった。現代の著作権「死後70年」を基準としても、初祖・家康の権威はちょうど綱吉のころ、賞味期限が切れる。吉宗の権威も、家斉のころには切れる計算になる。家斉没後、子の家慶が重用した老中・水野忠邦は家斉の治世を浮華軽薄だったと否定、天保の改革とよばれる急進的な「引き締め策」を打ち出す。大奥を整理したり家斉が近臣に与えた土地を返上させるだけでなく、「農村を救う」ため出稼ぎの者を強制的に帰国させたり、蛮社の獄のような思想弾圧にまでふみこんだ。鼠山感応寺の破却も、この流れにあった。

 このような革命政策の当否についてはさておくとしても、我こそは完璧な正義、前政権は完全腐敗、そのような洗脳の積み重ねによって、むしろ幕府自体の権威が日に日に毀損されていったのはまちがいない。なぜならひとびとの記憶には、革命家が失脚するたびに前任者への否定と後任者への失望しかのこらないからだ。

 人々があれほど熱狂した明治維新さえ、すぐさま旧士族たちの不満が爆発、地租改正反対一揆など庶民の窮乏とも呼応し、その当初から西郷らの下野・離反があいつぎ民権運動を誘発した。民権運動は明治の元勲を否定する普選運動(大正デモクラシー)に至り、やがてその賜物である政党政治にまで否定の鉾先をむける(昭和維新運動)。じぶんたちこそ国境を越えた世界市民、西欧帝国主義を打倒し亜細亜を解放する真の社会主義者、などと主張して大政翼賛会を設立。国連を離脱し万博や五輪を返上、達成不可能な「恒久平和」を実現するなどと息巻いて、狂気のディストピアを築いていった。



円融寺の仁王。いまは西条秀樹さんらの墓所としても有名(#レポ215)
 東京碑文谷の法華寺も、谷中と同時期に改宗され天台宗円融寺となった1698。ここにも「蓮華往生」という邪教伝説がつたわっている。極楽往生をダシに信者をあつめ次々と殺害していった、などというもの(#215)。そもそも「不受不施」ということは、信者以外からはけして布施を受けず、権力者からの要求であってもけっして従わない、ということを意味する。たいそう立派な主張だが、感応寺のばあい「お上にねだって寺を建てさせた」こと自体が論理的矛盾であり、今後「不受不施」を放棄して幕府の要求に忠実に従うか、「お上をだました罰」として破却と処罰を甘んじて受け入れるか、いずれかの末路をたどるしかなかった。

 腰元と日蓮僧との不適切な「御乱行」がじっさいにあったかどうかは知らない。おそらく破却に納得しない僧侶たちが、得意の弁舌で幕府による不当な弾圧であるかのように、吹聴する危険があった。そうした気配を感じ取った何者かが、「不受不施」はとことん卑猥な邪教であるという、多くの民衆が納得しやすいスキャンダルを捏造して、機先を制したのだろう。

 ただ、権力者にさからうことを目的とした日蓮宗側としては、「弾圧」の爪跡は勲章であって、「亡国の悪王によるいわれなき誹謗中傷」は宗派の正義を演出するうえで、むしろ歓迎すべきことだったのかもしれない。じっさい日蓮の予言どおり異国(ペリー)は侵逼し、武士は同士討ちし、謗法の敵(江戸幕府)は30年と経たずにほろんでしまった。これもまた、「日蓮大聖人が提唱した法華一乗の大革命を誹謗した天罰」ということになる。かりにそうだとしても、当の日蓮宗に明治政府に代るような、社会を革命するだけの知識や理想、実務能力(ないし法力)はあったのだろうか。うわべだけの革命幻想のために人生を棒に振り、他人をまきこんで命をおとす人は、いまも多いのかもしれない。それを英雄とよぶひともいるだろう。しかし自分が死んで、だれが生き残るというのか。




No.403