鎌倉好き集まれ!十六夜さんの鎌倉リポート・第57号(2010年11月16日)

四代鎌倉公方 足利持氏

上杉禅秀の乱

足利満兼が没し、応永十六年(1409)子の持氏(幸王丸)が鎌倉公方となる。二年後、関東管領の上杉憲定(山内)が関東管領を辞し、犬懸家の上杉氏憲(禅秀)が関東管領になった。四年後の応永二十二年(1415)五月、家臣の不出仕を理由に所領を没収された事に抗議し、鎌倉公方の持氏と対立した上杉氏憲(禅秀)は関東管領を辞した。その後、上杉憲基(山内)が関東管領になった。

不満を抱いていた禅秀は鎌倉公方持氏の叔父足利満隆や持氏の弟足利持仲らと持氏の館を襲撃した。持氏は駿河に逃れ、鎌倉は禅秀に制圧された。応永二十三年(1416)十月の事だった。

幕府の四代将軍足利義持は禅秀討伐のため、駿河守護今川範政と越後守護上杉房方を派遣した。戦いは三ヶ月で終結し、応永二十四年(1417)一月、禅秀は満隆や持仲と共に鶴岡八幡宮の雪ノ下の房で自害した。

上杉禅秀の乱後、公方持氏は禅秀の残党・東国武士・京都扶持衆(ふちしゅう)を次々と討伐していった。そのため幕府将軍義持と鎌倉府の関係は戦後処理を巡って悪化していった。

永享の乱

永安寺史跡碑

幕府将軍足利義持の没後、弟義教が将軍に就くと公方持氏は反発した。さらに、持氏は関東管領の上杉憲実(山内)とも対立し、永享十年(1438)六月、公方持氏が嫡子賢王丸(義久)の元服を幕府に無断でおこなうと再び対立し、上杉憲実は上野国平井城に逃れる。公方持氏自身も府中高安寺に陣をかまえた。

幕府六代将軍義教は篠川御所の足利満直や駿河国守護の今川範忠に憲実の救援を命じた。また、後花園天皇にたいして治罰の綸旨と錦旗を要請した。永享十一年(1439)二月、公方持氏は幕府軍との戦いに敗れ永安寺(廃寺)に幽閉された。

関東管領上杉憲実は公方持氏の助命と持氏の嫡子義久の公方就任を嘆願するが、将軍義教は許さず討伐を命じた。管領上杉憲実は永安寺を攻め、持氏は自害し、嫡子義久は報国寺において自害した。

報国寺本堂

報国寺やぐら

報国寺山門

五代鎌倉公方 足利成氏は親の・・・

足利持氏が永安寺で自害の後、鎌倉公方は八年間不在のままであった。文安四年(1447)三月、幕府は足利持氏の遺児(成氏)が鎌倉公方に就任する事を認め、七月、後花園天皇の命で上杉憲忠(山内)が関東管領に任じられる。その後、足利成氏は元服し、八代将軍足利義成の一字を与えられ、鎌倉公方は復活した。

享徳三年(1454)十二月、公方足利成氏は管領上杉憲忠(山内)を鎌倉公方の御所で謀殺した。父持氏を死においやった管領上杉憲実(山内)の子だった為と言われている。

康正元年(1455)六月、幕府は足利成氏討伐のため駿河守護今川範忠を鎌倉へおくり、今川範忠に敗北した成氏は下総の古河に敗走し、その後、古河公方と呼ばれ、鎌倉に戻ることは二度となかった。東国の政治の中心地としての役割をはたせず急激に衰退していくことになった。

初代北条早雲は関東の不安定な政情をみてとると伊豆や相模を平定して、四代氏政の時には関東の大半をおさめる大名となった。

天正元年(1573)織田信長は幕府十五代将軍足利義昭を京都から追放し(室町幕府の滅亡)、畿内・中部・北陸と中国地方の一部を支配下におさめた。だが信長の政策が牲急すぎたこともあり、天正十年(1582)家臣明智光秀の反乱にあい敗死した(本能寺の変)。

その後豊臣秀吉は地位をかため、大阪城を築いて、全国統一に乗りだした。天正十六年(1590)小田原の北条氏政を滅ぼし、奥羽に向う途中鎌倉に立ち寄り、鶴岡八幡宮に詣でて修理を命じている。奥羽を勢力下におさめ、全国統一を実現した。秀吉の死と幼い豊臣秀頼にかわって政務をとったのは徳川家康であった。関ヶ原の戦いに勝った家康は慶長八年(1603)征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いた。