鎌倉好き集まれ!KIさんの鎌倉リポート・第90号(2008年5月27日)

鶴岡八幡宮のルーツを旅して(その12)~宇佐から宇美へ

宇佐神宮の上宮本殿(2008年4月11日撮影)

5月24日,鵠沼海岸にて。

昼食をとりながらこのレポートを練っています。

気がつけば5月も終盤になり,入梅に向けてカウントダウンしそうな時候ですね。

気が早いアジサイたちが,若夏の穀雨を待ちきれずにちらほらと開花し始めているというのに,自分は,桜咲く4月のレポートもまだ書き終えられていない有様・・・(^^;)

今は沖縄に滞在中の梅雨前線が,ここ湘南の海岸へと上がってこないうちに,「鶴岡八幡宮のルーツを旅して」シリーズ,前々回(レポート No.88)の続きをさっさとお話してしまいましょう。




  まずは,宇佐神宮から。

4月11日,宇佐神宮にて

4月11日,宇佐神宮にて

4月11日,前日に続いて宇佐神宮に居ました。そして,10日中にまわりきれなかった,境内社の大尾神社や護皇神社,国宝館などを見学しました。

ゴールデンウィーク前後にアップしたレポートNo.87とNo.88で,鎌倉の鶴岡八幡宮の本家本元である宇佐神宮(全国4万社余りの八幡宮の総本社)の旅をお送りしました。

・鶴岡八幡宮のルーツを旅して(その10)~ついに宇佐神宮へ■第87号(2008年4月30日)
・鶴岡八幡宮のルーツを旅して(その11)~宇佐神宮の桜花祭にて ■第88号(2008年5月9日)

4月10日,11日にわたって,広大な宇佐神宮(大分県)の境内や祭事を見学した後,宇佐風土記の丘の王墓群,そして宇美八幡宮(福岡県)を旅して,鎌倉へと戻ってまいりました。

今回,「鶴岡八幡宮のルーツを旅して」シリーズの第12回目。宇佐神宮の大宮司家の祖先,宇佐氏(宇佐国造)のこと,そして八幡宮の主神,応神天皇(ホムタワケ大王)の足跡をたどる旅紀行をお送りします。
 なお,本文中では,応神天皇のことを,「ホムタワケ大王」,「ホムタワケノミコト」,「ホムタワケ王子」,「八幡大神」などと話の流れに応じて様々に呼び方を変えていますが,いずれも同一人物のことです。読みづらい点はあるとは思いますが,あらかじめご諒承ください。

宇佐,風土記の丘

3世紀ごろ造られた方形周溝墓

6世紀中頃に造られた前方後円墳「鶴見古墳」

4月11日,宇佐神宮を後にして,3キロほど離れた「宇佐風土記の丘」へと足を運びました。ここは,3~6世紀にかけて造られた古墳群を歴史公園として整備したものです。敷地内にある大分県立歴史博物館を見学した後,点在する古墳を見てまわりました。
 
 風土記の丘には,6基の前方後円墳があり,その周辺には前方後円墳が登場する以前から造営され続けていただろう方形周溝墓も多数,発見されています。いずれも弥生・古墳時代にこの地を支配していた宇佐氏の王墓だと考えられています。
 昼も近づく風土記の丘,弁当などを持参して,黄緑の若草に腰を下ろしピンクの桜を静かに愛でる家族連れの人々がちらほらと訪れていました。
 その宇佐氏の始祖は,ウサツヒコノミコト(菟狭津彦命)。前のレポートNo.89で少し紹介した人です。宇佐族の祖先神として宇佐神宮の境内社でも祭られるウサツヒコノミコトですが,記紀にはイワレヒコノミコト(神武天皇)率いる天孫族の水軍が国東半島に寄港した際に,イワレヒコノミコトのために仮宮を用意するなど一行を手厚くもてなした宇佐の王として登場しています。ウサツヒコの子孫は宇佐君(うさつきみ)と呼ばれ,独立の王として国東半島を統治する一方,神官としても宗像三女神の祭祀を司りました。4世紀後半以降,大和の大王(おおきみ)が日本列島の統合を推し進めると,その傘下に入って宇佐国造(うさのくにのみやつこ)となり,引き続き祭祀と国東半島の統治を続けました。
 やがて律令時代となり,宇佐国造は政治的な権限は失いますが祭祀権のほうは保持します。宇佐神宮の神官となって,古来の宗像三女神(比売大神)と新来の八幡大神(応神天皇ことホムタワケ大王)の祭祀を連綿と子々孫々に受け継いで1300年,現在の大宮司家へと至っているというわけです。

 すがすがしい青空の下,散策する人やベンチで読書する人を時々見かけるものの,至って静かな風土記の丘。タンポポやまだつぼみの花菖蒲,そして散策道にちりばめられた桜の花びら。

 ここは,まさしく宇佐の「王家の谷」。ウサツヒコノミコトも王家の谷のどこかで眠っているかもしれませんね。


宇佐神宮が創立される以前の宇佐族の祖先たちが眠る聖域を,陽春の草花が彩っていました。

宇美八幡宮

宇美八幡宮本殿の上空に現れた一筋の雲

宇美八幡宮の鳥居

日付が変わって,4月14日。
宇佐を後にし二日かけて,日田,八女など経由して博多へとやってまいりました。別府温泉に始まった,九州の旅もいよいよ終盤。午前中に吉野ヶ里遺跡を訪れた後,午後には最終目的地の宇美八幡宮を訪れました。
 宇佐神宮が,応神天皇を奉る八幡信仰が始まった場所なら,こちら宇美八幡宮は応神天皇がお生まれになったと伝わる聖地なのです。 
 博多駅から路線バスに揺られること約40分。午後3時に宇美八幡宮前に降り立ちました。

    青竜  朱雀  白虎  玄武  

参道の入口に四神を表す幟が配置された境内には,応神天皇(ホムタワケノミコト)誕生の際,産湯に使ったという泉や記紀の伝承に倣った神功皇后とホムタワケ王子の石像があります。安産祈願の御札と石がたくさん奉納されていました。

放課後の時間帯とあって,歴史を感じさせる境内には児童学生の姿が目立ちます。

記紀の伝えるところでは,新羅から戻った神功皇后がこの地で産気づき,ホムタワケ王子(のちの応神天皇)が誕生したということになっています。また,この故事にちなんで,この地は宇美(=産み)と呼ばれるようになったともいいますが,ここ宇美は,魏志倭人伝に出てくる「不弥国(ふみこく)」があった場所で,不弥(ふみ)がなまって宇美(うみ)になったという説もあります。

赤子の応神天皇を抱く神功皇后

「実はですね,当宮は京都の石清水八幡宮から勧請された八幡宮なのです」

御朱印を頂いた際,神職さんが教えてくれました。八幡宮の主祭神,応神天皇の生誕地なので意外な由来だなと思いました。応神天皇(ホムタワケ大王)の生誕地ということで敏達天皇(フトタマシキ大王,在位572年~585年)の時代に祠が建てられたらしいですが,後世に石清水八幡を改めて勧請し直して八幡宮として整備したということらしいです。
 時折,轟音とともに福岡空港を離着陸する飛行機が飛び交い,聖王が誕生するときに出現するという「瑞雲(ずいうん)」もかくやと思わせるような白い帯が境内の青空に現れます。

“応神天皇が降誕した時にもこんな瑞雲が現れたのでしょうか・・・”

学界では,応神天皇は実在が確かな最初の大王とされる一方,母親の神功皇后は架空の人物とする見解が流布しています。シリーズ前々回のレポートNo.87で紹介した仮説に今回の宇美のことを追加するとこうなります。

‘応神天皇ことホムタワケノミコトは不弥国出身の実力者で,九州各地の王侯から支持・推戴されてまず九州の覇王となった。特に,大陸とのコネクションが強い宇佐のおかげで対外戦略で目覚しい戦果を挙げて,吉備・出雲・大和といった他の大勢力からも一目置かれる存在になった。ついには日本列島に割拠する諸王の信望を得て,大和の大王(倭の代表)として迎えられ,西日本から中部日本あたりまで大王の傘下に統合した。このとき,領土の広さでは朝鮮半島の百済や新羅よりもずっと大きい「倭国」が誕生した。’

こういうあらすじが,日本史の教科書でいう「大和政権による日本統一」の実態だと考察する研究者もいます。そして,これが今ある日本国の源流だと考え,応神天皇が実質的な「日本の建国者」ではないかと主張する研究者もいるらしい,ということは昨年のレポートNo.65でも少しお話した通りです。
 さて,今,自分が居るのは西日射す宇美八幡宮。本殿の境内から300メートルほど離れた小高い丘に祠(上宮)があります。飛び地ですがこの丘も宇美八幡宮の境内の一部。丘には5世紀ごろの円墳もいくつか点在しています(神領古墳群)。
 境内近辺にも大きな前方後円墳など多数の古墳がこの地に密集しています。ここがかつての「不弥国」だと断言はまだできないと思いますが,古代にはある程度の勢力集団の中心地だったんでしょうね。

また,轟音とともに飛行機雲が空に描かれました。

“5泊6日の北九州横断,古代史の旅もこれにて終わり,2時間後には自分もあの空を東へ,関東へと戻るんだなぁ・・・”

午後5時,夕照とクスノキの巨木が織り成す神秘的な風景を後にし,帰途につきました。

大阪府,大隈神社と誉田八幡宮

黄葉の大隈神社(2007年11月撮影)

放生池のカキツバタと埴輪(2007年5月,誉田八幡宮)

4月14日の夜,自分は福岡空港からまっすぐ羽田空港に戻ったのですが,鎌倉の話をする前にちょっと寄り道して,大王になるために北九州から大和へ向かったホムタワケノミコトのその後を間単に辿ってみませう。
 記紀によれば,ホムタワケノミコトを奉じた水軍は,一路,瀬戸内海を東へ。行く先々の国津神の助力を得て(これは,進軍中に各地の王侯豪族の協力を得たことを表しているのでしょうね),ついに大阪湾岸に上陸し,オシクマ王等を倒して大和に入りました。大和王権の大王(おおきみ)に即位したホムタワケノミコト(ホムタワケ大王)は,はじめは大和の軽島に宮殿を構えますが,海上交通を重視したのでしょう,やがて難波津に近いあたりにも大隈宮(おおすみのみや)を営み,天下に号令します。
 その宮跡だと伝えられるのが,大阪市東淀川区にある大隈神社。自分が訪れた昨年の11月中旬には早くもイチョウが黄葉まっさかりでした(左上写真)。こじんまりした境内には家族連れが足繁く,七五三参りに訪れていました。

話をホムタワケ大王に戻します。
 当初,成果を挙げた南韓への軍事進出も,北の大国,高句麗の圧倒的な反撃の前に頓挫してしまいます(西暦391年)。高句麗(広開土王)には敗れたものの,倭国がまとまったひとつの国家として歩みだし,東アジア世界での国際的地位も何とか確保したのを見届けて,ホムタワケ大王は大隈宮で永眠したと伝えられます。
 記紀に記載してある崩御年干支と様々な史料から,大王が亡くなったのは西暦394年だと推定されています。
 そして,レポートNo.65冒頭で紹介した巨大な御陵(みささぎ)に埋葬され,その霊廟としてすぐそばに設けられたのが誉田八幡宮です(右上写真)。もともとは大王を霊を祀る祠だったのが,おそらく中世以降に八幡宮として改築されたのでしょう。
 一方,死後も御陵で,後継者の大王たちによって祭祀され続けたであろう,ホムタワケ大王の神霊は,御自身の生誕地がある北九州に戻っていき,宇佐に光臨した(571年)のがきっかけで出来たのが我が国最初の八幡宮,宇佐神宮。それが平安京の南の鎮護として勧請されたのが石清水八幡宮。その石清水八幡が,中世,武家政権の守護神として鎌倉に勧請され,鶴岡八幡宮が誕生しました。

いざ,鎌倉に戻りましょーねー

そして,新緑の鶴岡八幡宮へ

新緑まぶしい朝の鶴岡八幡宮,いつもそうですがほどよい賑わい振りです。
 階段を上って本殿へ。早速,鎌倉の八幡大神様の御前に。

パチッ, パチッ, パチッ, パチッ,

「二礼四拍手一礼」の作法を行って,宇佐神宮の御本霊を参詣してきたことをご報告しました。
 この日,鶴岡八幡宮では祭礼が執り行われました。午前10時,社務所に整列した神職一同が本殿へと昇っていきました(写真)。

宇佐神宮の八徳神おみくじ(レポートNo.87参照)の付箋には,八幡大神についてこう書かれています。

‘八幡様(誉田別尊応神天皇)は強運の神。何事にも推し進めることのできる神力(みちから)と精神(こころ)と技術(わざ)を与へてくれる神として古くから信仰を集めております’

なるほどね。この神様は実力主義の神様ですね。
 清和源氏の歴代当主が八幡大神に心を寄せた理由がわかったような気がしました。皇孫でありながら,律令の位階は当てにできず,自分の腕ひとつで認められるしかなかった武家源氏は,応神天皇が生前に様々な障壁を克服して国造りしたことに共鳴して「是非とも自分たちの模範として崇敬したい!」と切に願ったのかもしれませんね。
 同じ皇祖神でも,神々しいカリスマ性がどうしても前面に出てしまう天照大神に対し,八幡大神は,倭王として内政と外交に尽力した生前の姿がどことなく垣間見えるような,実務的なパワーをものすごく感じる神様だなぁと個人的には思っています。

今,自分が居るのは鶴岡八幡宮の本殿。殿上で舞われる神楽を眺めています。

今ある鶴岡八幡宮自体は約800年前に創建されたものですが,それだけじゃない。鶴岡八幡成立までのバックグラウンドには,それよりもっともっとずっと古い歴史が刻印されているのです。
 1100年前に始まった清和源氏の闘いの歴史,そして,1600年以上も前の倭国成立の歴史もこの八幡宮にはしっかり息づいている・・・
・・・っていうようなことを以前のレポートで述べた記憶があります(何号だったっけなぁ~)。

2006年1月17日に最初の回をリリースした「鶴岡八幡宮のルーツを旅して」シリーズもこれで12回。
 振り返ってみれば,頭だけでなく,両手両足もしっかり(ついでに旅費もちゃっかり)使って, 鎌倉を拠点に全国各地に,ホント体全体で八幡宮のルーツをたどった歴史学習のフィールドワークでした。
 おかげさまで,八幡信仰の発祥から全国展開した経緯まで,しっかり勉強することができました。本職(理科系専門職)とは全く関係ないけれど有意義な体験だったと思います。

               2008年5月27日 K.I.


                  


(追伸)
ちなみに「鶴岡八幡宮のルーツを旅して」シリーズですが,今回で最終回ではありません。