鎌倉好き集まれ!十六夜さんの鎌倉リポート・第19号(2010年2月10日)
実朝公御首塚
三浦義村家臣 武常晴
*建保七年(1219)一月二十七日
鶴岡後面の峰を登り義村の宅に到らんとす。「長尾定景」と途中に相逢う、定景太刀を取り公暁の首を取る。
その後公暁の御首は義村宅へ持ち込まれたようですが、公暁が持っていた実朝公の御首についての記述がありません。
「武常晴」は偶然に実朝公の首を得ることが出来ました。常晴は「波多野忠綱」を頼り秦野の地に来て埋葬したと伝えられています。それが、東田原にある実朝公の御首塚です。その後波多野氏は実朝公の三十三回忌に金剛寺にお堂を増築し、御首塚の五輪木塔を石の五輪塔に替えました。なお五輪木塔は現在「鎌倉国宝館」に寄託されています。
(秦野市ホームページより)
鶴岡後面の峰を登り義村の宅に到らんとす。「長尾定景」と途中に相逢う、定景太刀を取り公暁の首を取る。
その後公暁の御首は義村宅へ持ち込まれたようですが、公暁が持っていた実朝公の御首についての記述がありません。
「武常晴」は偶然に実朝公の首を得ることが出来ました。常晴は「波多野忠綱」を頼り秦野の地に来て埋葬したと伝えられています。それが、東田原にある実朝公の御首塚です。その後波多野氏は実朝公の三十三回忌に金剛寺にお堂を増築し、御首塚の五輪木塔を石の五輪塔に替えました。なお五輪木塔は現在「鎌倉国宝館」に寄託されています。
(秦野市ホームページより)
実朝公を偲ぶ
実朝公は兄頼家とは異なり父頼朝の文的素質を受け継いでいたようです。頼朝公は鎌倉幕府を創始した武人ですが、和歌・連歌にも十分通じていたようです。
*元久三年(1206)二月四日 雪見に名越山の辺りに出かけ、義時の山荘で泰時・東重胤・内籐知親らと和歌会を開いたと記述があります。
雪降りて 今日とも知らぬ 奥山に 炭焼く翁 あはれはかなみ
雪が降って、いつとも知れぬ山で炭を焼く老人は、儚なさに耐えぬ思いだろう。
*建暦二年(1212)三月九日 将軍家三浦三崎の御所に行かれる。尼御台所(政子)ならびに御台所・義時・時房・広元・鶴岡別当・船中にて舞楽の興あり。
磯の松 幾久さにか なりぬらむ いたく木だかき 風の音かな
磯辺の松は、長い時間を生き抜いてきたのだだろう。梢で鳴る松風の音も、高く響いて爽やかだ。
自分の死を予感したような歌、詠作時期は晩年の建保六、七年(1218、9)の春でしょうか。
咲きしより かねてぞ惜しき 梅の花 散りの別れは わが身と思へば
梅が咲いたばかりなのに、花が散る様子を思うと、残念でならない。散らすのは、私の方だと思う。
毎年八月九日 白旗神社(鶴岡八幡宮)に於いて「実朝祭」が行なわれ、和歌に長けた源実朝公を偲ぶ献茶・短歌・俳句の会が開催されます。
*元久三年(1206)二月四日 雪見に名越山の辺りに出かけ、義時の山荘で泰時・東重胤・内籐知親らと和歌会を開いたと記述があります。
雪降りて 今日とも知らぬ 奥山に 炭焼く翁 あはれはかなみ
雪が降って、いつとも知れぬ山で炭を焼く老人は、儚なさに耐えぬ思いだろう。
*建暦二年(1212)三月九日 将軍家三浦三崎の御所に行かれる。尼御台所(政子)ならびに御台所・義時・時房・広元・鶴岡別当・船中にて舞楽の興あり。
磯の松 幾久さにか なりぬらむ いたく木だかき 風の音かな
磯辺の松は、長い時間を生き抜いてきたのだだろう。梢で鳴る松風の音も、高く響いて爽やかだ。
自分の死を予感したような歌、詠作時期は晩年の建保六、七年(1218、9)の春でしょうか。
咲きしより かねてぞ惜しき 梅の花 散りの別れは わが身と思へば
梅が咲いたばかりなのに、花が散る様子を思うと、残念でならない。散らすのは、私の方だと思う。
毎年八月九日 白旗神社(鶴岡八幡宮)に於いて「実朝祭」が行なわれ、和歌に長けた源実朝公を偲ぶ献茶・短歌・俳句の会が開催されます。