鎌倉好き集まれ!十六夜さんの鎌倉リポート・第49号(2010年10月5日)

歩き疲れたら・・・(3) 

店内から庭を

小町通りを東に入った路地つき当りに静かな空間があるとは、BGMを聴きながら好きな本を読んでもよし、一息つきたい人におすすめです。

手入れされた庭

CAFEbee入口

足利公方(鎌倉公方)邸旧蹟

史跡碑

鎌倉公方邸跡に石碑があると聞き早速行ってきました。浄明寺虹の橋北側の路地を入ったところ左側にありました。

[頼朝開府のころ「足利義兼」居をこの地として以来この地に子孫が代々住んだ尊氏の子義詮が二代将軍となって京都に行き弟の基氏が鎌倉公方となった足利家は子孫に引き継がれましたが享徳四年(1455)鎌倉公方「足利成氏」は「関東管領」の「上杉憲忠」と不和の事より下総古河に移った為永く廃墟となる] 碑文概略

関東管領

関東管領は室町幕府が設置した鎌倉府の鎌倉公方を補佐するために設置した役職名です。鎌倉公方の下部組織でありながら任命権は幕府将軍にあった。

正平十八年三月(1363)に上杉憲顕(山内)が鎌倉公方足利基氏の執事に任じられ、初代の関東管領になって以来鎌倉に居住した一族から犬懸・山内・宅間・扇谷の四家がでた。宅間上杉家は早くに衰え、犬懸上杉家は上杉禅秀の乱により主流派から脱落した。山内上杉家と扇谷上杉家の二家が主力となるが関東管領の職はしだいに山内上杉家の当主が世襲していった。

鎌倉時代に戻りますが、初代「上杉重房」が鎌倉幕府六代将軍に迎えられた後嵯峨上皇の皇子「宗尊親王」に従って鎌倉へ下向し有力御家人の足利氏と姻戚関係になり重房の孫「上杉憲房」は妹の清子が尊氏・直義兄弟の母であったことで尊氏に協力し功績をあげてきた。

その後、五代目「上杉顕定」は扇谷家を起こし六代目の「上杉定正」は大田道灌を起用して勢力を拡大させた。史跡碑が扇ヶ谷2-4-16 英勝寺の前の踏切りを渡り北へ50メートルいった右側に建っています。

[宗尊親王に従ひて鎌倉に下り丹波国上杉荘を賜りて初めて上杉氏を称せるそのひ孫憲顕基氏の執事となりて一族勢力を関東に占む扇谷家六代の主定正大田道灌を用ひて家声をあくるや世に宗家山内と共に両上杉又は両管領と称すこの地邸址なり] 碑文概略