鎌倉好き集まれ!大佐和さんの鎌倉リポート・第1号(2004年12月12日)

万葉集(1)

今のご時世、「古典を読もう」なんていうと、
「つまんない!」
「やめてくれよ!」
なんて返事が返ってきそう。
古典が名のみ知られる文学作品となりつつある時代。高度に発達した情報社会のなかで、古典はまるで書物における累積債務であるかのよう。もはや必要のない過去の遺物なのだろうか。実際、大学だって国文科がなくなりつつあるし、高校の国語の必修単位数も今後かなり減らされるようだし…。
しかし、古典が書かれてから現代にまで残されているということは、それなりの「意義」があってのこと。
そこで、ここではそんな古典作品の中に見られる鎌倉について、「私なり(※)」の解釈で取り上げ紹介していこう、と思っております。

※「私なり」とカギカッコを付けたのは、まぁ素人がやるものだから間違いや誤読があってもこっそり許してね、というなさけない意味で。文句があっても受け付けないからね(なんて強く言ってもホントは弱気)。
ところでこのレポート、間違いが見つかっても後で訂正できるのかね?


さて、初回は『万葉集』から。

  

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奈良時代の後半に成立したとされる『万葉集』は全20巻・4516首を採録し、日本古典文学の最初に位置されるものです。鎌倉にちなんだ歌が4首採録され、そのうち、東国で詠まれた歌を集めた「東歌」(巻14)に3首、九州警備の為に東国から徴発された人々が詠んだ「防人歌」(巻20)に1首あります。

  
  鎌倉の見越(みごし)の崎の岩崩(いわくえ)の君が悔ゆべき心は持たじ
                          (巻14・3365)

 (歌意)鎌倉の見越の崎の崩れやすい岩のようにあなたが悔やむ心を、私は決して持ちませんよ。


鎌倉の名は、和銅5(712)年に成立した『古事記』、天平時代の年号が付された木簡や正倉院文書などの史料、さらに『和名類聚抄』という古代の辞書からも確認されます。
「見越の崎」の所在については、稲村ケ崎、腰越の小動崎、甘縄神社北側の御輿ヶ嶽、の3つの説がありますが、こんにちにおいて場所の特定は困難のようです。
「岩崩」とは崩れやすい岩のこと。稲村ケ崎や小動崎へ行ってみると、この岩崩の様子がよく分かりますよ。「岩崩」に関して『相模国風土記』逸文に、「見越の崎に打ち寄せる速波が岩を崩すことを地元の人が<イソフリ>と名付けた」という一節があります。



腰越の小動崎

さて、この歌。「君」とあることから女性が詠んだものと思われるのですが(例外もあるが)、見越の崎の岩にたとえられた男性の心と対照させて、女性が男性への恋心をかたく誓った歌であると捉えることができます。当時の婚姻制度は妻問婚(夫が妻と同居しない婚姻形態のこと)であり、多くの女性は愛の煩悶にさいなまれていたようですから、このように女性の側から愛の誓いを述べることは非常に珍しかったのではないかと考えられます。
「くえ」と「悔ゆ」と類音を繰り返し「悔ゆ」を引き出すために「くえ」を用いているところと、上三句の「の」のリズミカルな繰り返しが「岩崩」のようすを想起させるところが技巧的です。

甘縄神社境内に、当該歌の歌碑が建っています。













稲村ケ崎

稲瀬川。この東側に美奈能瀬川が流れる。

  ま愛(かな)しみさ寝に我は行く鎌倉の水無瀬川(みなのせがわ)に潮満つなむか(巻14・3366)


 (歌意)あの娘がいとしいので、共寝をしに行くよ。鎌倉の水奈瀬川に潮が満ちている頃であろうか。


水無瀬川は由比ケ浜へ流れる稲瀬川を指す、と多くの注釈書にあります。この稲瀬川の東側3~40メートルくらいの所に「美奈能瀬川(※)」という川があるのですが、『鎌倉史跡事典』(奥富敬之、新人物往来社)によると、かつてはこの2本の川の間も河川だったのではないか、とのこと。それをふまえて当歌を読むと、川幅の広かった満潮時の、水量の多い水無瀬川を恋の妨害と見立て、夜な夜な渡って女性に会いにいこうとする男の切実な想いが伺えます。川を恋の妨害と見立てる例は古典作品によく見られますよ。
妨害が多いほうが、成就したときの達成感が大きいでしょ(冬ソナなんかもそう)。


※ この川沿いに大正時代に建てられた「稲瀬川」という石碑がある。



万葉集巻14には東歌が238首、すべて作者未詳で収められているのですが、この3366歌のように愛の実直な表出を歌ったものが多く収録されています。「ま愛しみさ寝に我は行く」なんて、あまりにもストレートな表現ですよね。
当時天離る鄙(田舎)の住人であった東国庶民は、文字も知らなかったはずなので、多くの歌は元々は口承によって伝えられていたものではないかと考えられます。これらの歌の多くは、おそらく中央から派遣された文字を知っている役人が聞き取って筆録したのでしょう。歌とは本来書かれるものではなく、口に出して詠まれるものであって、それが東国歌のばあい情愛だとか、労働など人びとの日常の営為に密着しており、そこに各々の情感を託したのではないでしょうか。
現代だって、愛とか恋なんていうのは、歌謡曲のネタになりやすいですよね。




巻14・3365歌、3366歌と、鎌倉での男女の情愛の歌が続けて収録されているのは、興味深い点であります。
次回は残りの2首を。
(文献は次回にリストアップします)