鎌倉好き集まれ!大佐和さんの鎌倉リポート・第3号(2005年2月13日)

古典作品に見る鎌倉3 「古事記・木簡・正倉院文書」

前回のレポートよりちょっと時代がさかのぼりますが・・・



鎌倉の名を確認できる奈良時代の文献は『万葉集』の他に、『古事記』や
「宮久保遺跡出土木簡」、「相模国封戸租交易帳」などがあります。
時代順にいうと、万葉集よりもこれら3点の方が古く、鎌倉の歴史を知る
上でたいへん貴重な資料となるのではないかと思います。




1.古事記

鎌倉の名前が文献にはじめてあらわれるのは、和銅7年(712)に成立した『古事記』で、その中巻「景行天皇」条に記される

  足鏡別王[鎌倉之別、小津。石代之別、漁田之別之祖也]
   〔足鏡別王(あしかがみわけのみこ)は、鎌倉の別(わけ)、
              小津、石代の別、漁田の別の祖(おや)なり〕
 
   (訳)足鏡の別王は、鎌倉の別、小津の別、石代の別、漁田の別の先祖
      である。


になります。
景行天皇は、古事記や日本書紀によると12代目とされる天皇で、倭建命(やまとたけるのみこと)など80人の皇子女を生み、そのうち77人を直轄の国々に赴任させました。その子孫がそれぞれの国の別(わけ:5~6世紀以前の皇族や豪族に与えられた政治・社会的地位を示す為の称号)となったといわれております。

「鎌倉の別」は、足鏡の別王の苗裔であるということ以外、いまだ詳しいことは分かっておりません。江戸時代の国学者・本居宣長は自著『古事記伝』で、『倭名類聚抄』(平安時代の辞書)に「相模国鎌倉郡」と書かれていることを引き合いに出して、この「鎌倉の別」の「鎌倉」が後の「鎌倉郡」に転じたのではないか、と指摘しております。








栃木県足利市役所のホームページによると、この「足鏡の別王」が足利の地を統治した、とのこと。その足利市と鎌倉市が姉妹都市を結んでいるのは興味深いです。
もっともこれは、中世足利氏と鎌倉の関連から結ばれた協定なのでしょうが。

※『古事記伝』(こじきでん)
古事記の注釈書。44巻。
寛政~文政年間(19世紀前後)に刊行された、宣長の渾身の力を労した大作。

※『倭名類聚抄』
(わみょうるいじゅうしょう)
10世紀前半に成立した日本最初の辞書。
源順(みなもとのしたごう)著。



宮久保遺跡出土木簡
(神奈川県教育委員会所蔵)

※木簡にはいろいろな形があり、その形ごとに型番があるのですが、この木簡のように細長いホームベースの形をしたものを「051型」といいます。

※県立高校建設に先立って調査された当遺跡からは、先土器時代から江戸時代にいたるまでの様々な遺構が確認されたそうです。


2.宮久保遺跡出土木簡(神奈川県綾瀬市)昭和58年出土

木簡というのは木の札に文字を記したもので、文書や荷札などに用いられたものをいいます。
昭和56年から59年にかけて、神奈川県綾瀬市早川にて発掘調査された宮久保遺跡から、両面にわたって


 (表)鎌倉郷鎌倉里□□□寸稲天平五年九月
 (裏)田令軽部麻呂郡稲長軽部真国       ※ □は不明字


と書かれた木簡が見つかりました。
表側の記載から、鎌倉郷鎌倉里に住む者(この人物の名前が不明字に相当するか)が天平5年9月に稲を貢進したのではないかといわれております。また、「天平五(733)年」とあることから、8世紀前半には相模国に鎌倉郷が存在していたことが分かります。郷というのは奈良時代から平安時代にかけて用いられた行政上の区画単位です。
裏面の記載について。「田令(でんりょう)」は稲や耕地の管理法をまとめた法典で、次の「軽部麻呂」は何らかの形でこの貢進に関わった人物だと考えます。「郡稲」は中央政府への貢進物の一部で、その収納役のリーダー的存在が「郡稲長、軽部真国」であったのではないかと思います。
鎌倉郡で収穫された稲をこの遺跡の所在する高座郡に移送した、その際の荷札としてこの木簡は用いられたのでしょう。8世紀後半には、当遺跡から北西約5㎞のところ、海老名市国分南に相模国分寺が建立されたこともふまえてみると、この宮久保遺跡が行政上の要所であったのかもしれません。

尚、この木簡が鎌倉の名を書した現存最古の文献となります。






3.正倉院文書 正集第十九巻(天平七年相模国封戸租交易帳)


  従四位下高田王食封
  鎌倉郡鎌倉郷参拾戸、田壱佰参拾五町壱佰玖歩…


奈良の正倉院宝物の中に「正倉院文書」といわれるものがあります。これは天保四年(1833)の正倉院修理の際に開封されて、穂井田忠友という人物によって45巻に整理成巻されたものです(以降続巻もある)。
その文書の中にある「相模国封戸租交易帳(さがみこくふこそこうえきちょう:租税に関する記録書)」。これは天平7年記載のもので、文言によると、高田王(たかだのおおきみ)が、鎌倉郷の家屋30戸、135町109歩の田地から食封(じきふ:俸禄のこと)として米を得ていたということが分かります。



ところで、鎌倉郡には鎌倉郷のほかにどのような郷が存在していたのでしょうか。
平安時代に成立した辞書『倭名類聚抄』には

鎌倉郡[加末久良] 
 沼濱・鎌倉[加萬久良]・埼立(さきたて)・荏草(えがや)・
 梶原・尺度(さかど)・大島

と記され、7つの郷が存在していたことが分かります(鎌倉七郷)。[加末久良]・[加萬久良]と記されているのはそれぞれ「かまくら」の読み方を万葉がな(→No.2-1)で表記したものです。沼濱・鎌倉・荏柄・埼立の4郷については「相模国封戸租交易帳」にその名を確認できます。

これらの郷がそれぞれどのあたりにあったのかを比定するのは困難なのですが、『日本地理志料』や『大日本地名辞書』などを参考にして勘案すると、

沼濱:逗子方面か
鎌倉:現在の鎌倉中心部
埼立:稲村ケ崎~長谷、坂ノ下、極楽寺
荏草:二階堂あたり(荏柄天神あたり)
梶原:梶原、笛田、手広、常磐、山崎
尺度:藤沢市坂戸
大島:腰越、津、七里ケ浜、江ノ島

になろうかと思われます。







正倉院宝物
相模国封戸租交易帳(朱点筆者)
(『正倉院古文書影印集成一(正集 巻1~21)』八木書店刊より)
1300年も前の書物に「鎌倉」の名が記されていることがとても感動です。



※同じ正倉院宝物の中に
「鎌倉郡沼濱郷」
「鎌倉郡片瀬郷」
と記された「正倉院古裂銘」もあります。



※「大島」について
『大同類聚方』(平安時代の医・薬学書)によると、
「大島薬、鎌倉郡大島の里人の伝ふる方…」
とあります。
『延喜式』に「相模国が32種の薬草を典薬寮に貢進」したとあることから、大島薬も何らかの形で関係があったのかもしれません。

建長寺(2003年)

○文献
『日本古典文学大系、古事記』(倉野憲司、武田祐吉校註、岩波書店、昭33)
『古事記全註釈第六巻中巻編』(倉野憲司編、三省堂、昭54)
『日本古代木簡選』(木簡学会平川南氏、岩波書店、平2)
『木簡研究6』(木簡学会、昭59)
『正倉院古文書影印集成一(正集 巻1~21)』(八木書店、昭63)
『国史大辞典7』(吉川弘文館、昭60)
『国史大辞典14』(吉川弘文館、平5)
『諸本集成倭名類聚抄』(京都大学文学部国語学国文学研究室編
                        臨川書店、昭43)
『日本地理志料』(諸本集成倭名類聚抄外篇、臨川書店、昭41)
『大日本地名辞書(増補版)坂東』(吉田東伍、冨山房、明36)

※『古事記』本文については、大阪大学大学院文学研究科助教授岡島昭浩先生のホームページ(http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/index.html)より引用させていただきました。

※「宮久保遺跡出土木簡」の画像掲載許可について、神奈川県教育庁生涯学習文化財課よりご快諾いただきました。


※『正倉院文書』の図版掲載許可について、宮内庁正倉院事務所、並びに八木書店出版部よりご快諾いただきました。




次回は「鎌倉権五郎景正」について。