鎌倉好き集まれ!KIさんの鎌倉リポート・第147号(2009年2月7日)
そういえば・・・
KIです。まずは取り急ぎ御礼を。専用掲示板のほうに,奥さんへのお見舞いのコメントをいくつかいただいています。どうもありがとうございました。
さて,ここ一番最近で鎌倉に出かけたのは2月7日の土曜日でした。この日は鶴岡八幡宮や長谷寺や海を散策したのですが・・・
そういえば,今年の2月7日は旧暦1月13日だったのです。
旧暦1月13日。
実は・・・
鎌倉開都の祖,源頼朝公の命日だったのです。
「そういえば,先週,私たちが鎌倉に行った日って頼朝様が亡くなった日だったんじゃない?」
昨夜,病床の奥さんにそう言われて初めて気づきました。
さて,ここ一番最近で鎌倉に出かけたのは2月7日の土曜日でした。この日は鶴岡八幡宮や長谷寺や海を散策したのですが・・・
そういえば,今年の2月7日は旧暦1月13日だったのです。
旧暦1月13日。
実は・・・
鎌倉開都の祖,源頼朝公の命日だったのです。
「そういえば,先週,私たちが鎌倉に行った日って頼朝様が亡くなった日だったんじゃない?」
昨夜,病床の奥さんにそう言われて初めて気づきました。
源頼朝の命日だった旧暦1月13日に重なっていた,2月7日の朝,鶴岡八幡宮を訪れていました。
神池の東側にある白旗神社は源頼朝公と実朝公を祭る境内社。
ちょうど紅梅が華を添えていました。
神池の東側にある白旗神社は源頼朝公と実朝公を祭る境内社。
ちょうど紅梅が華を添えていました。
そして,2月7日,本殿前にある河津桜は開花し始めていました。
「来週にはきっと満開だね。」
2月15日の日曜日,鎌倉行きを奥さんは楽しみにしていたのですが,インフルエンザにかかって行けなかったのは前のレポート146号の追伸で書いたとおりです。
本当だったら,当日の午前10時,鶴岡八幡宮でピンクの河津桜を横目に石段を上がる月次祭の神職や巫女さんの行列を目の前で見ることができたのでしょうが残念なことです。
せめて昨年の2月15日に自分が撮った月次祭の行列と河津桜の写真をアップしましょう。きっと15日の日曜日もこんなだったのでしょうね。
来年の2月15日こそは,ぜひ奥さんに,自分が撮ったものよりももっと良い写真を撮ってくれますように。
「来週にはきっと満開だね。」
2月15日の日曜日,鎌倉行きを奥さんは楽しみにしていたのですが,インフルエンザにかかって行けなかったのは前のレポート146号の追伸で書いたとおりです。
本当だったら,当日の午前10時,鶴岡八幡宮でピンクの河津桜を横目に石段を上がる月次祭の神職や巫女さんの行列を目の前で見ることができたのでしょうが残念なことです。
せめて昨年の2月15日に自分が撮った月次祭の行列と河津桜の写真をアップしましょう。きっと15日の日曜日もこんなだったのでしょうね。
来年の2月15日こそは,ぜひ奥さんに,自分が撮ったものよりももっと良い写真を撮ってくれますように。
さて先述のように,今年は2月7日が頼朝公の命日。
この日,鶴岡八幡宮のあと,奇遇にも公のお墓に立ち寄りました。
そのときは,この日がちょうど公の命日だったなんて気づかずに。
「頼朝様の命日にお参り行けていたなんて良かったね。私もさっきそれに気づいてびっくりよぉ。」
ベッドで,実家から送られてきた二十日正月(ハチカソーグヮチ)のお菓子(お供え物の餞別)の箱を膝に,咳き込みながらも笑顔の奥さん。そう,今年は2月14日の土曜日が二十日正月でした。
二十日正月は旧暦1月20日のことなので,今年2月14日から7日前の2月7日が今年は旧暦1月13日だと逆算してわかった次第です。
この日,鶴岡八幡宮のあと,奇遇にも公のお墓に立ち寄りました。
そのときは,この日がちょうど公の命日だったなんて気づかずに。
「頼朝様の命日にお参り行けていたなんて良かったね。私もさっきそれに気づいてびっくりよぉ。」
ベッドで,実家から送られてきた二十日正月(ハチカソーグヮチ)のお菓子(お供え物の餞別)の箱を膝に,咳き込みながらも笑顔の奥さん。そう,今年は2月14日の土曜日が二十日正月でした。
二十日正月は旧暦1月20日のことなので,今年2月14日から7日前の2月7日が今年は旧暦1月13日だと逆算してわかった次第です。
旧暦1199年1月13日,以後700年にわたる武家政権の礎を築いた源頼朝公は,鎌倉で息を引き取りました(享年51)。
前年の1198年の年末に落馬し大ケガを負ったのが直接の死因となったと伝えられています。1198年12月27日,頼朝公は相模川での橋供養の行事に参加した帰途,鶴嶺八幡宮の鳥居があるあたり(現在の茅ヶ崎市南湖)で,源義経と弁慶の怨霊に行く手を阻まれ,驚いて暴れた馬から投げ出されたのだと茅ヶ崎市では言い伝えられています(茅ヶ崎市 弁慶塚の石碑より)。
これを執筆しているのは2009年2月18日。早くも2月も下旬に差し掛かりました。
前年の1198年の年末に落馬し大ケガを負ったのが直接の死因となったと伝えられています。1198年12月27日,頼朝公は相模川での橋供養の行事に参加した帰途,鶴嶺八幡宮の鳥居があるあたり(現在の茅ヶ崎市南湖)で,源義経と弁慶の怨霊に行く手を阻まれ,驚いて暴れた馬から投げ出されたのだと茅ヶ崎市では言い伝えられています(茅ヶ崎市 弁慶塚の石碑より)。
これを執筆しているのは2009年2月18日。早くも2月も下旬に差し掛かりました。
3月には早いもので,自分が鎌倉好き集まれのレポートを書き始めて満3年が訪れようとしています。特に直近の半年間は奥さんの寄与が多大で,もしそれがなければ,自分のレポート更新は昨年8月あたり,100号に達したあたりで終えていたことでしょう。
レポーターとして満3年を迎える時には,頼朝公の命日からは一月ほど過ぎてしまいますが,古都鎌倉の開祖,源頼朝公をテーマにいくつかの連続レポートをつづってみようかと思います。
また,その折にはよろしくお願い申し上げます。
2009年2月19日 KI
(追伸)
鶴岡八幡宮での写真はすべて掲載してもよいとされたものです。
レポーターとして満3年を迎える時には,頼朝公の命日からは一月ほど過ぎてしまいますが,古都鎌倉の開祖,源頼朝公をテーマにいくつかの連続レポートをつづってみようかと思います。
また,その折にはよろしくお願い申し上げます。
2009年2月19日 KI
(追伸)
鶴岡八幡宮での写真はすべて掲載してもよいとされたものです。