鎌倉好き集まれ!KIさんの鎌倉リポート・第71号(2007年12月15日)

鶴岡八幡宮のルーツを旅して(その7)~毛呂山の流鏑馬

去る11月3日,神社で流鏑馬を見てきました。といっても超有名な鎌倉の流鏑馬ではなく,埼玉県の毛呂山(もろやま)で行われた流鏑馬なのです。
 この毛呂山の流鏑馬は,出雲伊波比神社(埼玉県毛呂山町岩井)で春(3月第2日曜日)と秋(11月3日)に行われます。鎌倉の鶴岡八幡宮(元八幡)を創建した源頼義・義家父子が奥州合戦(前九年の役)の戦勝御礼に出雲伊波比神社に流鏑馬を奉納したのがはじまりだといわれています。その際,出雲系の神々を祭っていた同神社に八幡大神(応神天皇)が合祀されたそうです(西暦1063年)。
 約950年の歴史がある毛呂山の流鏑馬ですが,随所に平安時代当時の原型をとどめていると専門家からも指摘されています。そのためなのかどうかわかりませんが,自分が見学した限りでも,他所の流鏑馬では見られないような特徴がいくつかあったように思います。

今回,朝から日没まで行われた流鏑馬神事の様子をレポートしたいと思います。

朝,出雲伊波比神社の本殿前に揃った流鏑馬の出場者たち

午前9時過ぎ,朝的(あさまとう)での騎射

東京都内から中央線と八高線を乗り継いで,毛呂山に着いたのは午前8時。出雲伊波比神社の境内では流鏑馬の準備が進んでいました。
 ちなみに,この毛呂山は鎌倉街道の通過点であり,出雲伊波比神社から東に数キロのところに鎌倉街道の遺構があるのです(レポート No.58参照)。
 この夏に訪れたときには全く人影もなく静まり返っていた出雲伊波比神社の境内には出店がたくさん軒を連ね,これが同じ場所かと思うほど。朝的(あさまとう)の流鏑馬が始まる時間が近づくにつれて人影も多くなってきました。

そして,午前9時。朝的(あさまとう)
午前中の流鏑馬は30分ほど。騎馬の乗り手が3人,それぞれ藁の的に向けて1回ずつ的に騎射します。なお,先頭を走る一の馬は白で源氏,続く二の馬は紫で藤原氏,最後の三の馬は赤で平氏。源平を表す紅白の取り合わせに,藤原氏の紫が加わっているあたり,この流鏑馬が,まだ公家の力が強かった平安時代に始まったことを彷彿とさせますね。
 朝早くにもかかわらず,多くの人が見守る中,矢が藁に刺さると歓声と拍手が馬場に響き渡りました。

午前10時,朝的(あさまとう)が終わって,3人の射手と付き人たちは「野陣(のじん)」を行った後,「的宿(まとうやど)」と呼ばれる控えの屋敷へと一旦戻っていきます。ここで,昼食及び午後の夕的(ゆうまとう)の準備をします。
 一方,観客も流鏑馬が終わった馬場を一斉に後にし,境内の出店や福祉会館での各種催しへと散っていき,夕的(ゆうまとう)まで馬場は閑散とします。

自分もまた少し早いけれど,昼食へ。

この流鏑馬神事は八幡大神の祭事。11月3日の秋の流鏑馬がメインであり,春の流鏑馬に比べてかなり大規模とのこと。単に流鏑馬の射的だけでなく様々な行事を交え,丸1日の長い時間をかけて行われます。本祭のスケジュールを簡単に示すと以下の通り。

(11月3日 流鏑馬本祭りスケジュール)
午前0時 追出の餅つき
午前5時 本殿参拝
午前9時 朝的(あさまとう)
午前10時 野陣 ~戦場での陣の様子を再現したもの
午後1時半 出陣式 ~出陣の行列と餅撒き
午後2時半 夕的(ゆうまとう) 

朝的(あさまとう)が終わった馬場では夕的(ゆうまとう)の板的が次々に組み立てられていきます

以上が本祭の簡単なスケジュールですが,11月2日には本祭に先立って,騎手を乗せた行列が集落を練り歩く「重殿行き」や「饗応・みそぎ」があり,いずれも町を挙げた重要な行事となっています。
 また,写真からもわかるとおり,流鏑馬の騎手は地元の小中学生が務めます。忌事のなかった氏子の長男から選ばれ,厳しい稽古を経て流鏑馬神事本番に臨むそうです。

「昔はね,流鏑馬のために財を投げ棄つほどだったよ。ウチのおとうさんもそうだったね」
的宿(まとうやど)の近くで出陣式を待っている間,通りがかりのお婆さんに話を聞くことができました。ご主人が流鏑馬に参加し名を挙げるのが何よりの生き甲斐だったそうです。祭には何かと費用がかかり,とりわけ息子を騎手として参加させようものならそれはもう並大抵な出費ではなかったそうです。そのため,数十年前は名士の子息しか流鏑馬の騎手になれなかったとのこと。騎手になる,あるいは家から騎手を出すというだけで大変な名誉だったそうです。
 また,3人の騎手の中にも序列があり,毛呂山の各集落から一人ずつ騎手の子供を出していたため序列をめぐっての集落間の競争もそれなりに熾烈だったとのことでした。

「今はね,昔のように難しいことは言わないね(笑)。ウチらの若いときとちがって家柄だの何だの全く関係ないし」

かつては,毛呂山の近隣の町でも流鏑馬があったそうですが,今ではその行事を毎年行っているのは,毛呂山の出雲伊波比神社のみ。時代が移り変わる中で,古くからの伝統行事を維持し続けることの難しさを少し実感させられました。 

午後1時,的宿(まとうやど)での出陣の儀。左から源氏(白),藤原氏(紫),平氏(赤)の騎手たち

騎手たちの出陣に合わせて,観客に餅がばら撒かれます。ちなみにこの餅は未明に騎手の子供達がついたもの

午後1時,的宿(まとうやど)では出陣の儀が行われました。
振舞われた汁物を一本の箸ですすった後,付き人に支えられて順番に騎乗。白い幌を背負った源氏の騎手(3人の中で最年長者とのこと),一の馬を先頭に行列して外へと繰り出します。
 
ホイホイ,ホイホイ,ホイホイ・・・

 未明についた追出の餅が観客に向けて撒かれる中を,掛け声も高らかに威風堂々と神社の馬場へと向かいます。
 自分も追出の餅をひとつゲットしました^^

行列の後に付き,前を歩きつつ神社の馬場に戻ってきました。午後の「夕的(ゆうまとう)」がメインとあって,午前の「朝的(あさまとう)」の時に数倍するほどの人数でごった返していました。

夕的(ゆうまとう)での走行

馬場のずっと前のほうへと人垣の薄いあたりに向かい,何とか騎射を眺めることができる場所へとたどり着くことができました。

多くの付き人とともに騎手の行列が馬場に入場してくると歓声があがりました。陣道(じんみち)と呼ばれる行進をした後,矢的(やまとう)と呼ばれる騎射がいよいよ始まります。
 一の馬から順に3回的に矢を放ちます。朝的(朝まとう)のときと違って,板製の的に矢が当たると、「パーン」と乾いた音が馬場一面に響き渡ります。馬のスピードも朝に比べてやや速いように感じました。

「夕的(ゆうまとう)」では,矢的(やまとう)の騎射に続いて様々な余興が披露されます。これらも他所の流鏑馬では例がないのではないでしょうか。それら余興を順番に記すと以下の通り。

1.センス ~3つの扇子をそれぞれ広げた両手及び口に,騎乗のまま走行
2.ノロシ ~白紫赤の3色の吹流しを広げた両手にもって騎乗走行(右写真)
3.ミカン ~騎乗走行しながら騎手が蜜柑を観客にばら撒く
4.モチ  ~騎乗走行しながら騎手がひねり餅を観客にばら撒く。なお,ひねり餅には当たりくじが付いているものがありそれを得た人は賞品がもらえる。
5.ムチ  ~騎乗走行しながら騎手がムチさばきを披露する。なお,これはあたりが暗くなるまで行われる。

午後5時の境内,次第にあたりが暗くなり,出店も片付け始める頃,観客もまばらになった馬場では,まだムチの演技が威勢よく行われていました。
 矢的(やまとう)とそれに続く様々な余興は稽古、精進、出陣、合戦、凱旋という、鎌倉武士の一連の生業を表わしたものだといわれています。また,流鏑馬の射的芸だけではなく,朝的と夕的の間に行われる様々な地域行事と結びついていることが,毛呂山の流鏑馬をよりいっそう奥深いものに,独特の文化財にしているのだと,今回,最後まで見学してきて思いました。
 おそらくは平安時代後期に坂東で覇を唱えた清和源氏がもたらしたのだろう流鏑馬の行事。鶴岡八幡宮では公の神事・武芸披露として保存されているわけですが,ここ毛呂山では地域集落に根付いた民間の伝統行事として受け継がれているわけですね。

午後6時,松明のかがり火とともに2007年秋の毛呂山の流鏑馬は終わりました。

                      2007年12月15日記 K.I.


(追伸)
次回の「鶴岡八幡宮のルーツを旅して」シリーズ8回目では,本シリーズで何度も登場している源頼義・源義家父子にスポットを当てて少しお話したいと思います。

矢に続いて行われた,ノロシの披露