鎌倉好き集まれ!十六夜さんの鎌倉リポート・第1号(2009年10月17日)

頼家誕生

比企ヶ谷の妙本寺

(「平治の乱」に父「義朝」とともに敗れ、「頼朝」の伊豆配流に伴い、比企掃部允(ひきかもんのじょう)は妻と武蔵国比企郡の郡司職につくため下向した。

二十年におよぶ配流生活の頼朝を支えた。頼朝の乳母を務めた関係からだった。夫の死後「比企尼」は甥の「能員」を嫡子として比企氏の家督を継がせた。

「蛭の小島」と言われているので、湿気の多い蛭が多いところと思われがちですが、食事は山海の珍味等なんでも食べられ、自由に動きまわれたようです。

比企一族の屋敷があった鎌倉時代に「比企能員」は「源平合戦」から「奥州平定」等で功績をあげ、なかなかの剣豪だったのでしょうか、頼朝の信任を得て御家人となった。


「吾妻鏡」に頼家誕生に関する記述がありました。
寿永元年(1182)三月九日「御台所」(北条政子)の御着帯がおこなわれた。「千葉常胤」の妻の孫「千葉胤政」を使いとして、御帯を献上した。
 

「武衛」(源頼朝)がお結びになった。後に「丹後局」が食事の給仕をした。


寿永元年(1182)三月十五日「鶴岡八幡宮」から「由比浦」に至る曲がっているいる道を直して参道を造った。御懐妊を期に「武衛」は自らとり行われ、「北条時政」以下の者も土石を運んだ。






 




寿永元年(1182)七月十二日「御台所」が御産気のため比企能員の屋敷へ輿にてはいられた。
「千葉胤正」「千葉胤頼」「梶原景季」がお供をした。「梶原景時」は雑事を申しつけられた。


寿永元年(1182)八月十二日「御台所」が男子を出産された。「比企尼」の次女で「河越重頼」の妻が召されて授乳をした。


比企ヶ谷「妙本寺」何度訪れてもあきません。「頼家」は比企邸で生まれたんですね、知りませんでした。「吾妻鏡」も最近読みやすくなり、書店にて手にはいります。


昼でも薄暗く、夏の昼下がり巨木に覆われた境内は涼しくてお勧めのスポットです。頼家誕生から二十一年後、大変な事が・・・