鎌倉好き集まれ!十六夜さんの鎌倉リポート・第2号(2009年10月27日)
時代に流された幼い悲恋
常楽寺
「木曽義仲」は治承4年(1180年)「以仁王」が令旨を発した二ヶ月後に佐久郡依田城にて挙兵した。
頼朝と敵対し敗れた「志田義広」と頼朝に追い払われた「源行家」を「木曽義仲」が庇護したことで頼朝と義仲の関係は悪化した。
その結果義仲の嫡子当時十一歳の義高を人質として鎌倉へ送り、当時六才の「大姫」の婿とすることで対立は避けられた。
義仲は「俱梨伽羅峠」の戦いで十万ともいわれる「平維盛」率いる平家の大軍を破り勢いに乗った義仲軍は都へ進軍し
平家の都落ちをやりすごした。「源範頼」・「源義経」率いる鎌倉軍が到着、義仲は都の防備を固めて戦いに及んだが、宇治川や瀬田での戦いに惨敗し、義仲も討ち死にした。
頼朝と敵対し敗れた「志田義広」と頼朝に追い払われた「源行家」を「木曽義仲」が庇護したことで頼朝と義仲の関係は悪化した。
その結果義仲の嫡子当時十一歳の義高を人質として鎌倉へ送り、当時六才の「大姫」の婿とすることで対立は避けられた。
義仲は「俱梨伽羅峠」の戦いで十万ともいわれる「平維盛」率いる平家の大軍を破り勢いに乗った義仲軍は都へ進軍し
平家の都落ちをやりすごした。「源範頼」・「源義経」率いる鎌倉軍が到着、義仲は都の防備を固めて戦いに及んだが、宇治川や瀬田での戦いに惨敗し、義仲も討ち死にした。
義高の墓と言われている木曽塚
「吾妻鏡」にこの記述がありました。
*寿永三年(1184)四月二十一日。頼朝は義仲がいなくなった今義高を生かしておく事は出来ない、よって誅殺するべきだと内々にきめられた。女房等この事を聞き姫君御方にお話しになり、二十一日の暁、義高は女装し大姫の女房達に囲まれ、蹄を綿で包んだ隠しておいた馬で脱出した。「海野小太郎幸氏」は義高に相替わり独り「双六」をしていたが、夜になりこのこと事が露見し頼朝公はお怒りになり、軍兵を方々に分け討ち取るよう仰せつけた。
*寿永三年(1184)四月二十六日。「藤内光澄」が戻ってきて、入間河原にて義高を誅殺したと報告した。姫君はこの事を漏れ聞き飲食を断ち、日を追って憔悴していった。
(義高の墓といわれている木曽塚が大船の常楽寺にあります。)
*文治元年(1185)四月十一日。 「勝長寿院」の上棟式がおこなわれた。頼朝は現場に出向き見守っていた。この時、西海において平氏を壊滅させたとの知らせを聞き、八幡宮に向かって座られ感無量の様子だった。
*文治元年(1185)十月二十四日。 頼朝が父義朝の菩提を弔うために建立。今日「勝長寿院」(南御堂)の供養が行われた。本覚院僧正坊公顕が二十人の僧を連れてきた。総金色の阿弥陀仏で「成長」作の御本尊であった。
*文治二年(1186)四月八日。 頼朝と政子が鶴岡八幡宮に参詣した。
その時「静」に舞曲をさせる為舞台にお召しになった。「工藤祐経」が鼓をうった。「畠山重忠」が銅拍子を打ち、「静」が歌いだした。
よしのやま みねのしらゆき ふみわけて
いりにしひとの あとぞこひしき
しづやしづ しづのをだまき くりかえし
むかしをいまに なすよしもがな
*文治二年(1186)五月十七日。 大姫君が邪気退治の為「勝長寿院」に十四日間お入りになった。
*文治二年(1186)五月二十七日。夜「静」が大姫君の願いにより「勝長寿院」に行き芸を披露した。
今跡地は開発され住宅が建ち並び、面影はなくせめて跡地だけでも残っていればとおもいます。
*寿永三年(1184)四月二十一日。頼朝は義仲がいなくなった今義高を生かしておく事は出来ない、よって誅殺するべきだと内々にきめられた。女房等この事を聞き姫君御方にお話しになり、二十一日の暁、義高は女装し大姫の女房達に囲まれ、蹄を綿で包んだ隠しておいた馬で脱出した。「海野小太郎幸氏」は義高に相替わり独り「双六」をしていたが、夜になりこのこと事が露見し頼朝公はお怒りになり、軍兵を方々に分け討ち取るよう仰せつけた。
*寿永三年(1184)四月二十六日。「藤内光澄」が戻ってきて、入間河原にて義高を誅殺したと報告した。姫君はこの事を漏れ聞き飲食を断ち、日を追って憔悴していった。
(義高の墓といわれている木曽塚が大船の常楽寺にあります。)
*文治元年(1185)四月十一日。 「勝長寿院」の上棟式がおこなわれた。頼朝は現場に出向き見守っていた。この時、西海において平氏を壊滅させたとの知らせを聞き、八幡宮に向かって座られ感無量の様子だった。
*文治元年(1185)十月二十四日。 頼朝が父義朝の菩提を弔うために建立。今日「勝長寿院」(南御堂)の供養が行われた。本覚院僧正坊公顕が二十人の僧を連れてきた。総金色の阿弥陀仏で「成長」作の御本尊であった。
*文治二年(1186)四月八日。 頼朝と政子が鶴岡八幡宮に参詣した。
その時「静」に舞曲をさせる為舞台にお召しになった。「工藤祐経」が鼓をうった。「畠山重忠」が銅拍子を打ち、「静」が歌いだした。
よしのやま みねのしらゆき ふみわけて
いりにしひとの あとぞこひしき
しづやしづ しづのをだまき くりかえし
むかしをいまに なすよしもがな
*文治二年(1186)五月十七日。 大姫君が邪気退治の為「勝長寿院」に十四日間お入りになった。
*文治二年(1186)五月二十七日。夜「静」が大姫君の願いにより「勝長寿院」に行き芸を披露した。
今跡地は開発され住宅が建ち並び、面影はなくせめて跡地だけでも残っていればとおもいます。
将軍家「日向薬師」へ
*建久五年(1194)七月二十九日。 将軍家姫君いつもと違い、今日はとくに危急である。
*建久五年(1194)八月八日。 将軍家相模国日向山の「日向薬師」(現伊勢原市)に参り、姫君の為の御祈りを執り行った。御騎馬で「水干」を着て陣を組み御家人四十数人であった。
*建久六年(1195)十月十五日。 大姫君、寝食がいつものように行かず、今日は特に悪そうで邪気のせいであろうか。
「吾妻鏡」の大姫にかんする記述が、というよりも記録が(建久七年から建久九年まで)ありません。大姫が何時・何処で亡くなわれたのか、闇の中です。
「吾妻鏡」にこんな記述もありました。
*建久十年(1199)六月三十日。 姫君(三幡)が死去した。十四歳だった。今夜「藤原親能」の敷地内、亀谷堂のそばに葬るなり。「北条義時」・「三浦義澄」・「畠山重忠」・「梶原景時」・「佐々木盛季」・「中原広元」らが供奉した。
*貞應元年(1122)七月。「尼御台所」が「勝長寿院」境内奥に移りすんだ。
*貞應二年(1223)八月二十日。「尼御台所」が「勝長寿院」の奥に「南新御堂」を建て弥勒を本尊として大姫を供養した。
北条政子さんは最後に大姫を供養し思い残すこともなく、北条一族の繁栄を願って死んでいったのでしょうか・・・・
*建久五年(1194)八月八日。 将軍家相模国日向山の「日向薬師」(現伊勢原市)に参り、姫君の為の御祈りを執り行った。御騎馬で「水干」を着て陣を組み御家人四十数人であった。
*建久六年(1195)十月十五日。 大姫君、寝食がいつものように行かず、今日は特に悪そうで邪気のせいであろうか。
「吾妻鏡」の大姫にかんする記述が、というよりも記録が(建久七年から建久九年まで)ありません。大姫が何時・何処で亡くなわれたのか、闇の中です。
「吾妻鏡」にこんな記述もありました。
*建久十年(1199)六月三十日。 姫君(三幡)が死去した。十四歳だった。今夜「藤原親能」の敷地内、亀谷堂のそばに葬るなり。「北条義時」・「三浦義澄」・「畠山重忠」・「梶原景時」・「佐々木盛季」・「中原広元」らが供奉した。
*貞應元年(1122)七月。「尼御台所」が「勝長寿院」境内奥に移りすんだ。
*貞應二年(1223)八月二十日。「尼御台所」が「勝長寿院」の奥に「南新御堂」を建て弥勒を本尊として大姫を供養した。
北条政子さんは最後に大姫を供養し思い残すこともなく、北条一族の繁栄を願って死んでいったのでしょうか・・・・
鎌倉仏師の一派後藤家
頼朝公が伊豆において挙兵する以前に生まれたであろう、大姫の父親像が目に浮かぶようです。大姫の病を治す為、自ら出かけた「日向薬師」どんなところかこの目でみたくなりウオーキングを兼ねて行ってきました。
「日向薬師」は霊亀二年(716)年に「行基」が開創したと言われています。境内中央には、国指定重要文化財の本堂、東側に鐘堂、西側に宝殿があります。周囲は山々に囲まれ樹木が生い茂り、霊山の雰囲気です。
鎌倉でいいますと甘縄神明神社(長谷)和銅三年(710)「行基」草創、杉本寺(二階堂)天平六年(734)「行基」創建のころでしょうか。
参道をしばらく行きますと仁王門、伊勢原市教育委員会の案内板があります。読んでびっくり像の (作者は天保四年(1833) 造像されたと思われる。鎌倉扇ヶ谷の「後藤慶明」で明治二十年代に子の「後藤慶広」とその長男「運久」により彩色が施された。) と
「運久」は現在の後藤家当主の父(故後藤俊太郎)の祖父になるのでしぅか、間違っていたらごめんなさい、すごいですね歴史を肌で感じてきました。
「日向薬師」は霊亀二年(716)年に「行基」が開創したと言われています。境内中央には、国指定重要文化財の本堂、東側に鐘堂、西側に宝殿があります。周囲は山々に囲まれ樹木が生い茂り、霊山の雰囲気です。
鎌倉でいいますと甘縄神明神社(長谷)和銅三年(710)「行基」草創、杉本寺(二階堂)天平六年(734)「行基」創建のころでしょうか。
参道をしばらく行きますと仁王門、伊勢原市教育委員会の案内板があります。読んでびっくり像の (作者は天保四年(1833) 造像されたと思われる。鎌倉扇ヶ谷の「後藤慶明」で明治二十年代に子の「後藤慶広」とその長男「運久」により彩色が施された。) と
「運久」は現在の後藤家当主の父(故後藤俊太郎)の祖父になるのでしぅか、間違っていたらごめんなさい、すごいですね歴史を肌で感じてきました。