鎌倉好き集まれ!十六夜さんの鎌倉リポート・第12号(2010年1月5日)

比企能員

悲しい歴史を秘めた比企ヶ谷妙本寺

比企一族の供養塔

一幡を祀る袖塚

比企氏については頼家誕生の一号でリポートしましたので今回は省きました。

「源頼朝」が急死し、嫡男の「源頼家」が鎌倉幕府第二代将軍となったのは頼家十八歳のときであった。頼家の妻は「比企能員」の娘の「若狭局」であり、能員の伯母「比企尼」は頼朝の乳母であった。そのため頼家はなにかと能員に頼った。

頼家の妻となった「若狭局」は嫡男「一幡」を産むなど源氏とかなり深い関係を持つようになり、頼朝の妻「北条政子」の実家である北条氏は次第に勢力を増す比企氏に危機感を持った。

頼家が病で倒れると次の将軍を誰にするかで、実朝を将軍にしようとする北条氏と「一幡」を将軍にしようとする比企氏の間で争いがおきた。

*建仁三年(1203)九月二日 「仏像供養の儀あり」と呼び出され、時政の名越にある別邸で謀殺された。その直後、政子の命で北条義時・北条泰時・三浦義村・和田義盛・畠山重忠等の御家人で比企一族が立て籠もる比企ヶ谷の比企邸を襲撃され、防戦したが軍勢にかなわず小御所に火を放ち「一幡」と共に一族は自害した。「若狭局」も六歳の「一幡」と共に炎の中に消えていった。

*建仁三年(1203)九月五日 比企一族が滅亡したことを知った頼家は「時政を殺害せよ」と「和田義盛」等に命令した。その書状を義盛は「北条時政」に差し出した。

*建仁三年(1203)九月二十九日 頼家が伊豆国修禅寺に下向された。

*建仁三年(1203)十月八日 十二歳の実朝が元服された。

*建仁三年(1203)十一月六日 頼家から政子と実朝に書状が届いた。「退屈なので、召し仕えていた者をよこしてほしい」と言う事だった。これらは適当でないと、さらに今後書状は止めるべきと審議があった。

*元久元年(1204)七月十九日 伊豆国修禅寺から飛脚が着いた。「昨日頼家が修禅寺で亡くなった。」と申した。頼家二十三歳だった。

比企一族の供養塔の左側の墓誌に刻まれた文字、わかる範囲で写してみました。

比企夫妻之精霊位
比企一族八百余人諸精霊位
源頼家将軍従者之霊位
源頼家之正室両縁者諸精霊位











若狭局を祀る蛇苦止堂

難産により死亡した竹御所の供養塔

比企ヶ谷での戦いの後、「比企能員」の末子「能本」は生き残って京で「順徳天皇」に仕えた。「能本」の姪にあたる「竹御所」(頼家の娘)が四代将軍「藤原頼経」の妻になったことから鎌倉に戻った。「竹御所」は後に難産の為三十二歳で死去、その菩提を弔う為に「能本」が「法華堂」を屋敷跡に建立したのが「妙本寺」の前身と言われている。

可愛い我が子「一幡」を失い恨みを残して死んだ「若狭局」は畜生界に落ちて蛇のようにのたうって苦しむ局を哀れに思い(蛇苦止堂)を建てて供養した。

墓地奥には「竹御所」の供養塔があります。