鎌倉好き集まれ!十六夜さんの鎌倉リポート・第14号(2010年1月17日)

和田義盛滅亡の地

畠山重忠が謀殺された八年後

和田一族戦没地の碑

「和田義盛」は鎌倉時代の初期の武士、「三浦義明」の孫相模国三浦郡和田に住み和田氏を称していた。


頼朝の死後、幕府では有力御家人の梶原景時・比企能員・畠山重忠らが滅ぼされ、二代将軍頼家が修禅寺で暗殺された後、北条時政・義時によって三代将軍に実朝が擁立された。執権となった北条氏が幕府の実権を握りつつあった。一連の御家人の乱では北条氏につき、「比企能員」の乱では将軍だった頼家から北条氏討伐の密令を受けながらも「北条時政」に密告した。



*建保元年(1213)二月十五日 「畠山重忠」が謀殺された八年後、「千葉成胤」が鎌倉甘縄の館において法師一人を捕らえ、「北条義時」に身柄をつきだした。

泉親衡の乱

戦没地の碑の後ろに多くの供養塔

捕らえた法師を調べると、信濃国の「泉親衡」の家臣の弟で「阿静房安念」という者であった。頼家の遺児「栄実」を将軍に擁立して北条氏打倒の陰謀が発覚し、それに加担したとして「和田義盛」の子義直・義重・甥の胤長らが拘束された。

「和田義盛」は一族の罷免を願い出た。「胤長は首謀者であるので許すことは出来ない」と一族の前で縛りあげられた胤長は預かり人に下げ渡された。これは和田一族にとって屈辱であり、その後胤長は流罪となり屋敷は没収された。

「北条義時」の度重なる挑発に義盛は挙兵を決断した。義盛は本家筋になる有力御家人の「三浦義村」と起請文を書いていた。

三浦義村は土壇場で寝返った

*建保元年(1213)五月二日 「和田義盛」の隣家の「筑後朝重」から義盛の館に軍平が集まっていると、「大江広元」に知らせがあった。次いで「三浦義村」から「北条義時」へ報告が入った。義村は土壇場で寝返った。

義盛ら一族は決起し、三手に別れて大倉御所の南門・義時邸・広元邸を襲撃し御所に火が放たれ、立て籠もっていた御家人と攻防になり、御所の建物は焼け落ちた。日が暮れるまで戦うが、矢も尽き人馬も疲労し由比浦に退却した。

翌日和田勢のもとに横山党の三千余騎が参着、再び各所で激戦となったが和田勢はしだいに数を減らしていった。夕刻になり義盛の子義直が討ち取られ義重・義信・秀盛も「三浦義村」の裏切りもあり一族は滅亡した。「和田義盛」六十七歳だった。

その後「北条義時」は義盛にかわり「侍所別当」になり、「政所別当」と併せて幕府の執権体制を確立していった。