鎌倉好き集まれ!十六夜さんの鎌倉リポート・第17号(2010年2月5日)

将軍家公暁に討たれる

建保七年(1219)正月二十七日

*建保七年(1219)正月二十七日
将軍家(源実朝)が御所を出発する時になって、覚阿(大江広元)が言いました。「私は成人してからまだ涙を流した事がありません。今お側に居ますと、涙がこぼれてなりません、何かあるのかも知れません、束帯の下に腹巻を着けられる方がいいのでは」
又、宮内公氏が髪を梳かしていたら、自ら髪の毛を一本抜いて「記念に」と言って渡された。次に、庭の梅を見て禁忌の和歌を歌われました。
「出ていなば主なき宿と成りぬとも 軒端の梅よ春をわするな」
次に、南門を出られる時源氏の守り神である鳩が盛んにさえずっていたし、車から降りる時刀を引っ掛けて折ってしまいました。

*建保七年(1219)正月二十八日
将軍家は勝長寿院の傍らに葬られました。昨夜首が見つからず五体がそろっていないと困った事なので、昨日「宮内公氏」に与えられた髪の毛を頭の変わりに入棺しました。

将軍家(源実朝)は正月二十七日御所を出発される前の覚阿(大江広元)との会話がとても印象的です。頼朝公に召されて下向、政所別当として幕府の政務を補佐し源氏三代に仕えて、今日また将軍家を送り出す覚阿は親としての気持ちではなかったかと思われます。
将軍家も兄頼家公の死への過程も知っていただろう、比企一族の悲劇も理解できただろう、その為実朝公自身結婚はされたが子供は持たなかった、比企氏の二の舞を防ぐ為と言われています。死を予見していたのでしょう、辞世の句も残してます。

建仁三年(1203)十月八日

*建仁三年(1203)十月八日
御年十二歳の将軍家(源実朝)が元服された。北条時政の名越の邸宅で儀式が行なわれた。

*建仁三年(1203)十二月十四日
将軍家が永福寺の御堂に行かれ御礼仏の儀式が行なわれた。

*建仁四年(1204)正月五日
将軍家が初めて鶴岡八幡宮に参られた、結城朝光が御剣を持った。八幡宮寺で法花経を供養し、僧侶は六人であった。

*建仁四年(1204)正月十八日
八幡宮寺別当の尊暁が将軍家の御祈禱の為に二所詣に出発された。

*建永元年(1206)八月十六日
将軍家が放生会に出かけられた、流鏑馬の最中暴風雨となった、放生会は夜に及んだ。

*建永二年(1207)正月十八日
将軍家が二所詣の為御精進始を行い、浜に出られた。

*建永二年(1207)正月二十二日
将軍家が二所詣に出発された、北条義時・北条時房・中原広元(大江広元)・安達景盛 等が従った。


承元二年(1208)二月三日

*承元二年(1208)二月三日
鶴岡八幡宮の御神楽がいつも通り行なわれた。将軍家は疱瘡によりお出ましになれなかった、将軍家は疱瘡で大変苦しまれた。

*承元二年(1208)四月二日
鶴岡の神宮寺を造営する為の材木を伊豆国狩野山から沼津の海に運んだ。

*承元二年(1208)四月十一日
将軍家が急に御病気になられた。二十四日になり御病気が治られて、沐浴された。

*承元二年(1208)七月五日
鶴岡神宮寺の上棟式が行なわれた、北条義時・時房・中原広元朝臣らが指揮し、奉行の三善康信・結城朝光も参上した。

*承元二年(1208)十二月十七日
鶴岡神宮寺の本尊の薬師如来像の開眼が行われた、北条義時・中原広元朝臣が参られた。

*承元三年(1209)五月二十日
法華堂で故梶原景時一族の死者の為の仏事が行われた、御所内で怪異等がありその怨霊を鎮める為である。

*承元三年(1209)七月五日
以前より学ばれていた御歌三十首を選び添削を受ける為、藤原定家卿に送られた。

承元四年(1210)五月六日

*承元四年(1210)五月六日
将軍家は中原広元朝臣の宅へ、北条義時・時房らが参って和歌会があり、その後酒宴があった。

*承元四年(1210)五月二十一日
将軍家が三浦三崎に行かれ、船中で管弦等がありたいそう優雅であった。

*承元四年(1210)六月十二日
御台所(実朝室)の女房丹後局が京都から戻られた、駿河国宇都山で持っていた貴重品等を盗み取られた。

*承元五年(1211)二月二十二日
将軍家が鶴岡八幡宮へ行かれた、今迄疱瘡の跡を気にかけられ出掛けられてなかった。

*承元五年(1211)七月八日
尼御台所(政子)と御台所(実朝室)が相模国日向薬師堂に参られた。

*承元五年(1211)七月十五日
将軍家が寿福寺に行かれ御仏事の後、方丈で話し合われた。

*建暦二年(1212)二月二十八日
相模国の相模川の橋のいたみがひどい、直してほしいと三浦義村が申した、すぐに修理しなくてもと申し上げたところ、庶民の為に直ちに修理するよう命じられた。

*建暦二年(1212)三月九日
将軍家が三浦三崎の御所へ行かれた。尼御台所と御台所も行かれた。船で舞楽などが行われた。

*建暦二年(1212)九月十八日
将軍家が岩殿寺と杉本寺の観音堂に参られた。








建保元年(1213)三月三十日

*建保元年(1213)三月三十日
将軍家が寿福寺に行かれ御聴聞と御法談があった。

*建保元年(1213)八月二十日
将軍家が新御所に移られた、御輿を使用され中原広元朝臣の宅から新御所に入られた。

*建保元年(1213)十一月二十三日
藤原定家卿が「万葉集」一部を将軍家に献上した。

*建保元年(1213)十二月三日
将軍家が寿福寺に行かれ仏事が執り行なわれた、和田義盛以下死者の成仏の為。

*建保元年(1213)十二月十九日
雪が降ったので、将軍家は辺りの景色をご覧になる為、二階堂行光(政所執事)の宅に行かれた、行光は御酒を献じた。二階堂行村らも加わり、和歌、管弦など御遊宴があった。

*建保元年(1213)十二月二十日
今朝、二階堂行光が昨夜用意した馬(駒)の立髪に紙が付けてあった。「この雪をわけて心の君にあれば 主知る駒のためしをぞひく」和歌が書いてあった。将軍家は何度か歌われて、「行光のやることは優雅である」と すぐに筆を執り御返歌をされた。「主しれと引ける駒の雪を分ば 賢き跡にかへれとぞ思う」





建保二年(1214)三月九日

*建保二年(1214)三月九日
夕方になり将軍家は永福寺辺りに行かれ桜花を御覧になられた。

*建保二年(1214)七月二十七日
大倉大慈寺(新御堂)の供養があった、尼御台所と将軍家が参られた。

*建保二年(1214) 九月二十九日
将軍家が二所詣でに出発された。

*建保三年(1215)三月五日
将軍家が三浦三崎に行かれ草花を御覧になった。

*建保三年(1215)四月二日
甘縄の神宮並びに日吉別宮等に参られた、帰りに安達景盛の家にはいられた。

*建保三年(1215)六月五日
寿福寺長老薬上僧栄西入滅する。

*建保四年(1216)一月二十八日
始めて御本尊(釈迦像)を寺仏堂に安置する、供養の儀が行われた。

*建保四年(1216)十二月十三日
将軍家が法華堂に参られ仏事が行なわれた。

建保五年(1217)三月十日

*建保五年(1217)三月十日
将軍家は桜花を御覧になる為永福寺に行かれた、御台所もご一緒に先ず御礼仏その後、二階堂行村宅に入られ和歌会が行なわれた、月に乗じて帰られた。

*建保五年(1217)五月十五日
将軍家は寿福寺に入られ、禅室に御坐し仏法の御法話になった。

*建保五年(1217)九月二十日
公暁、園城寺より到着した、御台所の命により鶴岡の別当に就かせると。
*建保六年(1218)十二月二十日
去る二日将軍家右大臣に任じられる、今日政所始めがあった。

*建保六年(1218)十二月二十一日
将軍家大臣拝賀の為、明年正月鶴岡宮に参るので御装束・御車以下の調度品等「仙洞」より下され、今日到着した。