鎌倉好き集まれ!十六夜さんの鎌倉リポート・第31号(2010年6月15日)

八代執権北条時宗公

北条時輔 長男として鎌倉で生まれるが・・・

三門下の紫陽花

北条時輔は宝治二年(1248)五月二十八日、時頼公の長男として鎌倉で生まれる。母は側室の幕府女房「讃岐局」父時頼公は二十二歳、五代執権となって二年目の事だつた。

時輔三歳の建長三年(1251)五月十五日、時頼公の正室「葛西殿」を母として異母弟時宗が生まれる。二年後の建長五年(1253)一月二十八日、同母の宗政が生まれる。時頼公は時宗・宗政の兄弟を特に可愛がった。

建長八年(1256)執権職をしりぞいた北条時頼公の後を継いで六代執権となったのは北条長時でした。本来であれば時頼公の嫡子である時宗が時頼公のあとを継いで執権と成るべきところです。

しかし時宗が幼かった為、時宗が成長するまでのあいだ長時が執権となった。ですが政治の実権は出家した最明寺入道と呼ばれていた時頼公が持ち続けていました。

弘長元年(1261)四月、安達義景の娘「堀内殿」と結婚した。吾妻鏡に記述がありました。
*弘長元年(1261)四月二十三日、相模太郎(時宗)殿十一歳 御嫁娶「堀内殿」女房自甘縄亭御出・・・

出家して七年後、時頼公が弘長三年(1263)十一月十九日、亡くなると(三十号でリポートしました。)長時は翌年出家し、執権職を一族の長老と成っていた北条政村に譲り、政村は七代執権になり、時宗は執権の補佐役「連署」に就任しました。

文永五年(1268)正月、高麗の使節がモンゴルの国書を持って太宰府に来訪、国書は鎌倉へ送られる。三月五日、政村より執権職を継ぎ八代執権となった時宗公は政村や実時・「安達泰盛」・「平頼綱」らに補佐され、対外問題を協議し西国御家人に戦の準備をさせました。

二月騒動と元寇

朝日をあびて

文永八年(1271)十二月、北条義宗(北条長時の長男)が六波羅探題北方に就任した。その二ヵ月後の文永九年(1272)二月十一日、鎌倉で北条時章・教時兄弟が謀反を理由に誅殺され、四日後の十五日、京都六波羅南方にいた北条時輔も同じく謀反をはかったとして執権時宗公による追討をうけ北方の義宗により誅殺された。時宗公が執権に就任して三年目の事でした。

文永十一年(1274)と弘安四年(1281)と二度にわたるモンゴル軍は石塁などで防御が強化され、幕府軍の抵抗に苦戦し、暴風雨のために壊滅した。時宗公は国難を回避しましたが、戦後の御家人に対する恩賞問題など、三度目の来襲に備えて国防を強化しなければならないなど内外に難題がいくつもありました。

禅宗と臨済宗

「居士林」禅を志す在家のための座禅道場

法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗、いずれも自力修行を否定し阿弥陀如来の絶対他力に頼って往生をとげようとする教えです。このような考え方を他力本願といいました。この「他力」の教えが人々の間にひろまるにつれ、「他力」の考え方はあきたらないつまり「自力修行によってこそ本当の悟りが得られるのだ。」と考える人々も当然のように現れました。

この「自力修行による悟り」をめざす考え方こそ、鎌倉仏教のもうひとつの柱となる「禅宗」なのです。禅宗とはどのような教えなのか、一言でいってしまえば「座禅することによって人間にもともと備わっている仏性を自覚し、悟りに達しようとする考え」ということになります。

唐へ伝えられた禅宗は中国人によってひとつの思想として完成し、宋の時代に盛んとなりました。禅そのものは奈良時代には日本に伝わっていたようですが、これを初めて体系的に日本に紹介したのが「栄西」と言われています。

「栄西」が宋から伝えた「臨済宗」はその後、さまざまな人たちに依って多くの派に分かれた。座禅をくんで精神を統一するという状態に入り自分の本性と向かい合うことに依って、悟りを開こうとする教えです。

そして、その悟りの境地は言葉によって説明することは出来ず師と弟子の間で、心から心へ伝えられるものであるという立場をとります。つまり以心伝心です。

「栄西」の死後、「臨済宗」は執権である北条氏の帰依を受けて発展していきました。五代執権北条時頼公は京から「蘭渓道隆」を招き「建長寺」を建立しました。蘭渓道隆は鎌倉時代中期に来日した南宋の臨済宗の僧侶です。八代執権北条時宗公も「無学祖元」を招き「円覚寺」を建立しました。無学祖元も南宋の臨済宗の僧侶です。

「どうして「南宋」の僧侶ばかり」と思ってしまいます。しかし、よく考えてみると、この時代は「南宋」が「元」から圧力を受け滅亡していく時期にあたります。ですから亡命をかねて日本に多くの南宋人がやってきていた。





瑞鹿山大円覚興聖禅寺

佛日庵

わが国はおよそ七百年前、文永・弘安の二度にわたる蒙古軍の来襲という空前の国難を迎えた。時の執権北条時宗公はかねてより深く禅に帰依し、弘安の役のさなかにも、中国から招いた「無学祖元」(仏光国師)を師として、日夜参禅に励んでいた。

国を挙げてこの難敵に当り、蒙古の大軍を撃退した時宗公は、文永・弘安両役に殉じた両軍死者の菩提を弔い、己の精神的支柱となった禅道をひろめたいと願い、且つその師仏光国師への報恩の念から円覚寺の建立を発願した。     円覚寺しおり より


仏日庵(塔頭) 弘安七年(1284)四月に没した北条時宗公の廟所として創建され、子の貞時・孫の高時も合葬されている。境内には茶室「不顧庵」があり、四月と十月に時宗公をしのぶ茶会が開かれている。

正続院(塔頭)

舎利殿

九代執権北条貞時公が弘安八年(1285)仏舎利を納めるために建立した。境内には日本最古の唐様建築で国宝の舎利殿・開山堂・禅道がある。円覚寺派専門道場で雲水の修業の場でもある。開山堂に祀られる木造仏光国師(無学祖元)坐像は国の重要文化財(非公開)です。

黄梅院

北条時宗公の夫人の覚山尼が時宗公の菩提のために建立した華厳塔の地に、後に足利氏が「夢窓疎石」の塔所として建立した。

前々より疑問に思っていました、何で円覚寺の境内に足利氏の家紋があるのかこれで疑問が解けました。