鎌倉好き集まれ!十六夜さんの鎌倉リポート・第30号(2010年6月5日)

五代執権北条時頼公

愁傷の至り喩えに取るに物なし、大慈寺傍らの山麓に葬る

蘭渓道隆を開山に、五代執権時頼公開基の建長寺

時頼公の寄進と言われる梵鐘(国宝)

三浦義村の娘と三代執権北条泰時公の子で長男の「時氏」は病で亡くなり、安保実員の娘の子二男の「時実」は暗殺された。

*嘉禄三年(1227)六月十八日 武蔵の次郎「時実」(年十六)家人高橋の次郎の為殺害せられ給う。伊東左衛門の尉祐時の郎徒高橋を虜り進す、即日腰越の辺りに於いて斬刑に処せらる。

*寛喜二年(1230)六月十八日 修理の亮平朝臣「時氏」逝去す(年二十八)去る四月京都より下向す。幾日月を経ず病脳す。去る嘉禄三年六月十八日次男卒す。四年を隔て、今日またこの事有りすでに兄弟御早世、愁傷の至り喩えに取るに物無し。寅の刻、「大慈寺」傍らの山麓に葬ると。「吾妻鏡」に記述が有りました。


しかし北条時氏は亡くなる六年前に長男「経時」(1224~1246)を四年前に二男「時頼」(1227~1263)を「安達景盛」の娘「松下禅尼」との子をもうけていた。

三代執権北条泰時公の後を継ぐべき長男の「時氏」は二十八歳で亡くなり、四代執権となったのは、「時氏」の子「北条経時」でした。「経時」は執権となった二年後寛元二年(1244)四代将軍「藤原頼経」を廃し、「頼経」の子でわずか六歳であった「頼嗣」を五代将軍にします。

四代将軍として京から迎えられた当時、「頼経」は二歳でした。名ばかりの将軍です。しかし在位が二十年を超すうちに、「頼経」をとりまく御家人の集団が出来てきます。北条氏に対して不満を持つ人々です、北条氏を追い落とそうと企むのを防ぐ為だろうと考えられています。

その後四代執権北条経時公も寛元四年(1246)病気を理由に執権職を弟の「時頼」に譲って出家し、寛元四年(1246)亡くなります。二十三歳でした。





佐野源左衛門常世

本尊地蔵菩薩を祀った仏殿、儀式法要を行う法堂

五代執権北条時頼公は、三代執権であった泰時公と並んで"名執権"と言われ、時頼公には数々の伝説が残されています。最も有名なのが「鉢の木」伝説でしょうか。

ある大雪の日のこと、上野国佐野あたりで一人の旅の僧が先へ進む事が出来なくなり、近くの家を訪れて一夜の宿を頼みました。しかし「佐野源左衛門常世」は僧の申し出を断りました。

しかたなく僧は雪の降りしきる道をとぼとぼと歩き始めました。うしろ姿を見た常世は僧を呼び戻し、自分の家に泊まってもらう事にしました。貧しい常世の家には冷えた栗飯ぐらいしか有りません。

囲炉裏にくべる薪さえないというありさまでした。常世は立ち上がると梅・松・桜の鉢の木を持ってきました。惜し気もなく鉢からそれらの木を抜き取り、囲炉裏にくべるのでした。「貧しい我が家に泊まっていただいても、なんのおもてなしも出来ません。せめて少しでも暖まっていただければ・・・」

僧は常世の身の上話に興味を持ち色々と訪ねました。「かってはこの辺り一帯を治めておりました。しかし一族の者に領地を奪われ、今は御覧の通り落ちぶれてしまいました。」僧が家の中を見まわすと、立派な薙刀とか鎧をおさめてあると思われる箱も目に入りました。

「今はこの様に落ちぶれておりますが、鎌倉に一大事が起こり、鎌倉殿からのお召しがあれば、たとえ傷んだ鎧であってもこれを身につけ、さびた薙刀であってもこれをこわきにかかえこみ、あのやせ馬にむち打って、真っ先に駆けつけるつもりでございます。」

「そしていよいよ戦ということになった時には、勇ましく敵に切りこみ、いさぎよく討ち死にする覚悟でおります。けれども、今のような貧しさでは、飢えに苦しみ寒さにこごえて死を待つだけのような気がいたします。それが残念でならないのです。」

話を聞いていた僧は返す言葉もなく、ただただ何度もうなずくだけでした。そして翌朝、僧はあつく礼をのべて家をあとにしました。

しばらく経ったある日のこと、「急ぎ鎌倉に集まれ」という命令が関東八カ国の御家人に発せられました。常世はとるものもとりあえず鎌倉へかけつけました。そして鎌倉で見たものは何といつぞやの
僧の姿でした。

「佐野源左衛門常世、よくぞまいった。いつぞやは大変世話になった。」そうはなしかけて来た僧は、五代執権北条時頼公だったのです。時頼公は源左衛門の忠義をほめたたえると共に、佐野の領地を取り戻してやり、薪にされた三鉢にちなんで、加賀国梅田庄・越中国桜井庄・上野国松井田庄の三庄を恩賞としてあたえたのでした。

室町時代に作られたであろう謡曲の「鉢の木」です。このエピソードはおそらく"つくり話"であるだろうと言われています。しかしたとえ"つくり話"であったとしても、「あの人ならこの様な行動をしてもおかしくない。」と人々が考えたから長く伝えられているのでしょう。そんな人物であった北条時頼公の時代になにが起こったのでしょうか。


宝治合戦

明月院の紫陽花(六月五日写す)

北条氏はこれまで、梶原氏・比企氏・畠山氏・和田氏とライバルになりそうな有力御家人の一族をつぎつぎに滅ぼしてきましたが、北条氏の地位を脅かしそうな有力御家人一族はまだいくつか残されていました。

そのような有力御家人のなかで、最大の勢力をほこっていたのが三浦氏だった。当時の当主であった三浦泰村は「自分はすでに正五位下となり、他の一族も多く官位を授かっている。また、数カ国の守護を兼ね、一族が支配する荘園も数万町になっている。」

その勢力は次第に時頼公にとって目障りな存在になっていった。三浦氏の排斥の為、時頼公の命を受けて実際に行動したのは御家人の一人、安達義景だった。父景盛は実朝公の死を悼んで出家し、高野山に入っていたが宝治合戦には参陣していた、合戦の勝利を確認し高野山に戻り翌年亡くなっている。

あるとき鶴岡八幡宮の鳥居の前に「三浦泰村は命令に背いたため、近々滅ぼされるだろう。」そんな文面の札が立てられた。その後もしばしば、「三浦一族が反逆を企てている」という噂が鎌倉を飛び交うようになった。これらは、安達義景らが三浦氏を挑発しょうとしてとった行動だった。

三浦氏を討つ為の理由がないので、挑発し耐えかねて三浦氏側から挙兵してくるのをまっていた。しかし三浦氏はどこまでも慎重でした。そのため時頼も「三浦氏を討つつもりはない。」とする書状をださざるをえなかった。

寛元五年(1247)六月五日 三浦氏が時頼公の書状を得て安心しているところへ、安達義景・泰盛父子らの大軍が不意打ちをかけた。ついに三浦泰村は抵抗をあきらめ、頼朝公の墓所「法華堂」に立てこもり、一族五百余人が自害する道を選んだ。

翌日泰村の妹婿千葉秀胤の追討が命ぜられ、上総守護とみられる秀胤は上総一宮の館で自害し、その後三浦氏一族の妻子が鎌倉から追放された。

北条時頼公死す

明月院境内の五代執権時頼公墓所 

弘長二年(1262)頃、京都建仁寺の住持に就任した開山禅師は、建仁寺を拠点として、鎌倉で開花した純粋な宋朝禅をひろめていました。その間、時頼公は建長寺二世住持に参禅して、ついに悟りを開くことができましたが、なおも禅の奥義をきわめようと修行にはげむのでした。

しかし、弘長三年(1263)初秋ごろから、時頼公は再三にわたり病魔におそわれるようになります。僧侶たちによる所労退散の祈りが、しばしば行なわれましたが、回復の道は閉ざされていました。この事は公自身が最もよく承知していたと思われます。

時頼公は安貞元年(1227)五月、京都六波羅で誕生しました。父は時氏、母は安達景盛の娘で賢母のほまれ高い松下禅尼。四歳のとき父とともに鎌倉に帰り、関東での生活が始まったのですが、その直後に父が他界したため、公の養育には祖父の泰時と母とがあたったのでした。

公が五代目執権職についたのは、二十歳のときの寛元四年(1246)三月のことで、「北条九代記」は、「時頼、これよりして威勢高く輝きて、天下の権を執り治めた」と評しています。以来、十年におよぶ執権職をつとめたのち、康元元年(1256)十一月に職を辞し、ついに最明寺で出家して法名を道崇、最明寺殿と称しました。ときに三十歳。

これより七年後の弘長三年十一月十九日、公は"病魔危急"におよび、心静に臨終したいとの覚悟で、最明寺北亭に渡りました。そして同月二十二日戌の刻終命に及ぶのでした。

「吾妻鏡」は「ご臨終の儀、衣袈裟を着し縄床に上りて座禅せしめ給う、いささかも動揺の気なし」とつたえのちの「平政連諫草」は、時頼公は"地蔵菩薩の応現"であるとのべています。公の死をいたみ、多くの武士たちが出家したのでした。
                  
建長寺たより(二十二)より