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十六夜さんの鎌倉リポート No.33(2010年6月19日)



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第九代執権北条貞時公

貞時は母方の安達一族を



九代執権北条貞時公が寄進した円覚寺洪鐘

北条時頼公の孫で第九代執権の貞時は、ふかく禅宗を理解して鎌倉禅林の興隆に力をそそぎました。あわせて京風の文化にも通じていた彼は、延慶元年(1308)十二月には、円覚寺とともに建長寺を「定額寺」に列位することを朝廷に認めさせました。この一件が彼の最も大きな功績といえましょう。

彼、貞時の死は応長元年(1311)十二月二十六日、ときに四十一歳。これより十年前の正安三年(1301)八月、貞時は出家して崇演と号し、執権を北条師時にゆずりましたが、治政の権力は死ぬまで手放しませんでした。

時宗の子貞時(1271〜1311)は文永八年十二月、鎌倉で誕生しました。母は安達泰盛の娘(覚山志道尼)。幼名を幸寿と称しました。
彼は二度にわたる蒙古襲来を退け、その対策に腐心する父のうしろ姿をみながら育ちました。弘安七年(1284)三十四歳の若さで他界した父にかわって執権に就任したのは、まだ十四歳の時でした。

その直後、「御内人」の平頼綱の讒言を信じて母の実家である安達一族を滅亡させるという事変をおこしましたが(霜月騒動)、八年後の永仁元年(1293)四月、成人に達して自らの大過を知覚した貞時は、頼綱とその一族を滅亡させました。(平禅門の乱)。これにより、貞時はよりよい政治を心がけ、民政の安定を求めつつも、最高の権力者の座につくことになるのです。「建長寺たより(四十三)」 より








霜月騒動



頼朝の流人時代からの側近安達盛長の四代目にあたる安達泰盛は父義景の三男として生まれ、建長五年(1253)父義景が死去したため家督を継いだ。その後、北条政村・時宗・貞時と三代の執権に仕え、御恩奉行など幕政の中心人物でした。 

平頼綱は北条氏得宗家の執事内官領であった。幕府では外様御家人を支持勢力とする泰盛と、頼綱を筆頭とする得宗被官勢力が対立しました。

弘安七年(1284)執権時宗公が死去し、十四歳の貞時が九代執権となると両者の対立は激化し、弘安八年(1285)十一月十七日、世間が騒がしくなった事にきずき、昼頃貞時邸に出仕したところを頼綱の手勢の襲撃をうけ殺害されました。

騒動は全国に波及して各地で泰盛派が追撃を受け、泰盛の一族五百名あまりが自害におよんだ。本来将軍と御家人の主従関係で成り立っていた幕府内部において零細化した御家人が得宗被官の御内人としてとりこまれていた。

平禅門の乱から三年後



貞時公は頼綱と自らを頂点とする得宗専制体制をしいたが、頼綱の恐怖政治に不安をいだき、ついに永仁元年(1293)、鎌倉大地震の混乱に乗じて鎌倉経師ヶ谷の頼綱邸を攻撃し頼綱を自刀させました。頼綱と不仲だった嫡男平宗綱の讒訴によるものと言われています。

頼綱を自刀させてから三年後、北条義時が建立した「大蔵薬師堂」を前身に、永仁四年(1296)第九代執権北条貞時公が元寇襲来が再び起こらぬことを祈り、「覚園寺」に改めた。

本尊の木造薬師三尊坐像、十二神将立像など仏像彫刻の多彩さは鎌倉有数、また黒地蔵と親しまれる木造地蔵菩薩立像の「黒地蔵縁日」(八月十日)は鎌倉の夏を代表する行事で多くの参拝者が訪れる。

名花として知られる椿では英勝寺の「侘助」、覚園寺の「太郎庵」いずれも市天然記念物です。



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