鎌倉好き集まれ!十六夜さんの鎌倉リポート・第56号(2010年11月6日)
鎌倉文学散歩
一人で三つのペンネームを・・・
鶴岡八幡宮の流鏑馬道の西の鳥居を出て右にまがり、北鎌倉方向へ百メートルほど行くと、小袋坂(巨福呂坂)の旧道があります。現在は通ることはできませんが、一部が残って、国の史跡となっています。その旧道沿いに、約十年間という創作期間に、一人で三つのペンネームを駆使して、風のように駆け抜けていった作家が住んでいました。
小説家、翻訳家の林不忘、牧逸馬、谷譲次は同一人物で、本名は長谷川海太郎です。明治三十三年(1900)新潟県に生まれました。函館中学校を中退して上京し、翌年単身でアメリカに渡ります。大学に籍をおき各種の職業につきながら勉学に励みました。
大正十三年に帰国すると、作家、松本泰が主宰する「探偵文芸」に参加します。そこで知りあった「新青年」主筆の森下雨村の勧めにより、「めりけんじゃっぷ」ものを同誌に発表しました。
同時に、林不忘、牧逸馬、谷譲次のペンネームを使い、一人で三人の作家を演じ、それぞれが個性を持ち、創作のみならずノンヒィクション、翻訳、翻案にも及び、華々しい作家活動で一大旋風を巻きおこしました。しかし、この超人的作家は昭和十年(1935)に三十五歳で亡くなりました。大正十五年から材木座、笹目と住み、雪ノ下に新築中だった邸宅が終焉の地となりました。「鎌倉文学散歩」より
小説家、翻訳家の林不忘、牧逸馬、谷譲次は同一人物で、本名は長谷川海太郎です。明治三十三年(1900)新潟県に生まれました。函館中学校を中退して上京し、翌年単身でアメリカに渡ります。大学に籍をおき各種の職業につきながら勉学に励みました。
大正十三年に帰国すると、作家、松本泰が主宰する「探偵文芸」に参加します。そこで知りあった「新青年」主筆の森下雨村の勧めにより、「めりけんじゃっぷ」ものを同誌に発表しました。
同時に、林不忘、牧逸馬、谷譲次のペンネームを使い、一人で三人の作家を演じ、それぞれが個性を持ち、創作のみならずノンヒィクション、翻訳、翻案にも及び、華々しい作家活動で一大旋風を巻きおこしました。しかし、この超人的作家は昭和十年(1935)に三十五歳で亡くなりました。大正十五年から材木座、笹目と住み、雪ノ下に新築中だった邸宅が終焉の地となりました。「鎌倉文学散歩」より
旧道からもとの道に戻り、北鎌倉方向にさらに百メートルぐらい行くと、県立美術館の別館があります。道をはさんで反対側のあたりに、小林秀雄と小杉天外がいました。
小林秀雄は大正十年(1921)病気療養の母とともに鎌倉で過ごし、その後昭和六年に鎌倉の由比ガ浜に転入し、扇ガ谷、雪ノ下と移り住みました。鎌倉では貸本屋「鎌倉文庫」の活動など、鎌倉文士の中心の一人として活躍し、昭和五十八年(1983)に八十歳で亡くなりました。
小林秀雄は大正十年(1921)病気療養の母とともに鎌倉で過ごし、その後昭和六年に鎌倉の由比ガ浜に転入し、扇ガ谷、雪ノ下と移り住みました。鎌倉では貸本屋「鎌倉文庫」の活動など、鎌倉文士の中心の一人として活躍し、昭和五十八年(1983)に八十歳で亡くなりました。