鎌倉好き集まれ!十六夜さんの鎌倉リポート・第55号(2010年11月3日)

三代鎌倉公方 足利満兼

瑞泉寺に葬られた

応永五年(1398)十一月 父氏満のあとを継ぎ、子の満兼が鎌倉公方となる。関東管領は上杉朝宗(犬懸)が引き続き継いだが応永十二年(1405)十月に辞し、上杉憲定(山内)に代わる。

足利満兼は公方となった翌年応永六年(1399)に弟満直を陸奥の篠川御所・満貞を稲村御所に置き、奥羽両国の安定をはかろうとした。

その年幕府では有力守護大名の弱体化を図る将軍足利義満に反乱を起こした守護大名の大内義弘が、和泉堺で討伐された(応永の乱)。鎌倉公方足利満兼は出兵しようとして、関東管領上杉憲定の諫言によってとどまったと言われている。

応永十六年(1409)七月鎌倉公方足利満兼が没し、瑞泉寺に葬られた。

スイセン

花の少ない年末から咲き始め、新年に楚々とした姿で目を楽しませてくれる。瑞泉寺では庭園から本堂前庭までここかしこに咲く。

小説家で鎌倉文学館初代館長を務めた、「永井龍男」瑞泉寺を舞台とした「秋」で川端康成文学賞を受賞。その一部分をあげてみました。

[瑞泉寺は大塔宮から東へ入った谷戸の奥にある。梅と水仙で知られているが、この頃は一年中参詣客が絶えない。私の足で、家からニ十分余のところにある。・・・寺への石段は、昔からの男坂とこの頃作った女坂とある。私は急な男坂を選んで上がり、そこでも途中で枝越しの空を仰いだ。息切れがして吸い込む息が、にわかに冷たかった。]
瑞泉寺はそのたたずまいから、多くの文学者に愛され、歌や俳句などにも詠まれ、また、境内には文学碑がいくつかあります。

山門の手前に「山崎方代」の歌碑があります。方代を後世に伝える形見として、また晩年を過ごした鎌倉の地に、平成三年、方代の七回忌に建立されました。

手の平に豆腐を のせていそいそと 
  いつもの角を 曲りて帰る   方代
  
他にも、久保田万太郎句碑・大宅壮一碑・吉野秀雄歌碑があります。「鎌倉文学散歩」より

山崎方代歌碑

吉田松陰 留跡碑

吉田松陰は長州藩士「杉百合之助」の次男として生まれ、六歳で山鹿流兵学師範の「吉田大助」の養子となる。吉田大助の死後、「玉木文之進」が開いた松下村塾で指導を受ける。松下門下生徒は明治維新で新政府に関わる者など幕末・明治において大きな活躍を果たした。

吉田松陰の留跡碑が何故瑞泉寺にあるのか気になりました。

欧米人が日本近海に来航し始めたため、いかに防御するか現地視察の行き帰りに、叔父の竹院が瑞泉寺の住職をしていた関係で訪れたようです。また松蔭が伊豆下田で密航を企てた直前にも訪れていた。亡命未遂事件として江戸に送られ、安政六年(1859)十月獄舎にて断首の刑、松蔭三十歳でした。