鎌倉好き集まれ!十六夜さんの鎌倉リポート・第8号(2009年12月8日)

実朝誕生

実朝をしのぶ碑(寿福寺)

今さら「実朝」のリポートはないよ、と言われる方が多いのでわないかと思いましたが「頼家」をリポートしていましたので、不公平にならないようにとリポートしてみました。
 


*建久三年(1192)四月二日 御台所(政子)の御着帯の儀式があり、「平賀義信」の妻が御帯を持参し「頼朝」が結ばれた。
毎日安産の祈禱をするよう鶴岡の供僧に申しつけた。

*建久三年(1192)七月四日 ご出産の調度品が「浜御所」へ届けられた。

*建久三年(1192)七月十八日 御台所が「浜御所」へはいられた。

*建久三年(1192)八月九日 御台所が無事男子を出産された。
鶴岡や相模国の神社、寺社に神馬を奉り読経を修せらる。鶴岡の上宮と下宮に神馬二頭、ほかの寺社は「地頭」がうけとった。それぞれ御家人が、「御護刀」・「御馬」・「御剣」等を献上した。その後「阿野全成」の室の「阿波局」が「御乳付」をした。次に「御名字定」にて千幡(万)君とされた。

*建久三年(1192)十月十九日 御台所と若君が名越の「浜御所」から幕府御所にはいられた。

*建久三年(1192)十一月五日 若君の「御成始」が行われ「安達盛長」の甘縄の邸宅に入られた。若君は御輿にて「大弐局」・「阿波局」が同行した。若君は一日中おられ、盛長は御剣を献上した。

*建久三年(1192)十一月二十九日 若君の「五十日」・「百日」の儀式が行なわれた。時政が沙汰し、義時が陪膳を、時政が贈り物をされた。「御剣」・「砂金」・「鷲の羽」だった。
他の御家人達は「蒸し餅」を贈られた。

  

                         

(鎌倉文学館内の外灯碑文)

頼家誕生から丁度十年後実朝が誕生しました。建久十年(1199)正月 父頼朝が亡くなり物心がつくころ、独裁権力の確立をめざす北条一族にとってその障害となる者を排除しだした。

梶原の乱・比企の乱・兄頼家の死・畠山の乱・和田の乱・姉大姫・乙姫の死 自身公暁に討たれるまで、和歌を心のよりどころとして生きていたのでわないかと思います。実朝の歌には自らの死を予感していると思うような歌が少なくありません。

  大海の磯もとどろによする波
          われてくだけてさけて散るかも

実朝の歌碑(鎌倉国宝館前)及び(鎌倉商工会議所構内)

写真左側の歌碑が鎌倉国宝館前です。 


「この歌碑は円柱形で、高さが3.6メートル、周囲が約2メートルの大きな石柱で、刻まれている文字の大きさも、一字が約15センチメートルもあるものである。此の碑石は去る大正十二年関東大震災の際折損せし当宮第二鳥居の柱石なり 」          鎌倉文学碑めぐり より

 
   山はさけうみはあせなむ世なりとも
             君にふた心わがあらめやも


写真右側の歌碑が鎌倉商工会議所構内です。

  
     
   箱根路をわが越えくれば伊豆の海や
             沖の小島に波のよる見ゆ 


獅子舞の紅葉

編集部お勧めの獅子舞の紅葉気になっていましたので、今日行ってきました。団体様も通過していきました。