鎌倉好き集まれ!十六夜さんの鎌倉リポート・第9号(2009年12月18日)

足利義兼

足利氏の嫡流をつぐ

由比若宮

*治承四年(1180)「源頼朝」が伊豆にて挙兵した以後の出来事をリポートしてきましたが、今回はそれ以前のリポートからはじまります。

「源頼義」は安部一族を討伐した(前九年の役)。源氏の氏神である京都石清水八幡宮に祈願して勝利したので、鎌倉の由比郷に石清水八幡宮を勧請し社殿を造った。その後、子である「源義家」は社殿の修理をおこなった。再び内乱の起こった奥州に出征した義家は兵糧攻めで清原軍に勝利した(後三年の役)。



義家ー義親ー為義ー義朝ー頼朝

義家ー義国ー義重(新田氏の祖)

義家ー義国ー義康(足利氏の祖)

義国の長男の「義重」は新田荘を開拓して「新田義重」と称した。義国の二男の「義康」は足利荘を与えられたが病にかかり、三十歳で亡くなっている。義康の長男「義清」と二男「義長」も木曽義仲の挙兵に加わり敗死しているため三男の「足利義兼」が家督を継いだようです。やっとタイトルの「足利義兼」が登場しました。


「足利義兼」の事が初めて「吾妻鏡」に記載されています。

*治承四年(1180)十二月十二日 頼朝が新造の御邸へ移られる式があった。今年十月に工事が始まり大場景義が担当した。定時に新邸にはいられた。馬にのり和田義盛が前を行き、北条時政・北条義時・「足利義兼」・千葉常胤・安達盛長・岡崎義実・土肥実平・佐々木定綱 等が従った。

*養和元年(1181)二月一日 御命令により「足利義兼」が北条政子の妹を娶った。

*元暦元年(1184)五月一日 故木曽義高の残党が甲斐・信濃で反逆を企んでいると情報がはいった。「足利義兼」・小笠原長清は御家人を率いて出陣した。 

*元暦元年(1184)八月八日 参河守源範頼が平家追悼のため西海へ赴任した。一千余騎が従い、北条義時・「足利蔵人義兼」・千葉常胤・三浦義澄・比企能員・和田義盛・等である。

*文治五年(1189)七月十九日 頼朝が奥州藤原泰衡を征伐のため出陣した。武蔵守平賀義信・「上総介足利義兼」・北条時政・北条義時・等 一千騎であった。

*建久六年(1195)二月十四日 将軍家が上洛された。東大寺の供養のためである。源蔵人大夫頼兼・「上総介足利義兼」・豊後守毛呂季光らが後騎についた。

「足利義兼」は東大寺で出家し下野国足利荘にこもった後、建久十年(1199)三月八日亡くなったと言われています。頼朝が亡くなったわずか二ヶ月後四十六歳だった。

「吾妻鏡」の項目はほんの一部分にすぎません、全文を是非読んでみてくださいお勧めです。そういう私もまだ全文よんでいませんが・・・・

鎌倉時代の「足利義兼」から室町時代の鎌倉公方「足利成氏」までリポート出来ればと思っております。




        

文治四年(1188) 極楽寺という密教系の・・・・

総門

本堂

建長寺派で稲荷山「淨妙寺」鎌倉五山第五位。
頼朝の重臣「足利義兼」が文治四年(1188) 「退耕行勇」を開山として極楽寺という密教系の寺院として建立した。
その後「蘭渓道隆」の弟子「月峰了然」が住寺となり臨済宗に改められ、「浄妙寺」となったようです。
中興開基は「足利貞氏」没後「浄妙寺」に葬られた。
足利義満が五山の制度を定めた頃は七堂伽藍と塔頭二十三院をもつ大寺院だった。

「浄妙寺」とくれば「報国寺」ここまで来れば「朝夷奈切通」
鎌倉駅からバスで「十二所神社」で降り十五分程歩いて切通しへ、完全にタイムスリップぜひ五感で感じてみてください。見えなかった物まで見えてきます。

途中「光触寺」により寺宝の「聖観音菩薩立像」さまは「阿弥陀如来」さまにお仕えているわけで向かって右側に控えて、左側が「勢至菩薩」さまだそうです。「薬師如来」さまにお仕えている「日光菩薩」さまと「月光菩薩」さまと同じことでしょうか。最後に本堂前のお地蔵さんが塩をなめたという言い伝えのある「塩嘗地蔵」さまがあります。

次に「浄妙寺」から「報国寺」竹林の脇にあるお休み所で抹茶をいただきながら、鎌倉公方「足利持氏」の嫡男「義久」の悲しい物語をお勉強・・・・お勧めの一日コースです。




足利氏の家紋(丸の内二つ引)

総門の瓦

平安末期に登場した武士、最初は赤と白といった色で敵味方の識別をしていたようです。源氏は白平家は赤だったようです。
(材木座の「補陀洛寺」に平家の赤旗平家滅亡のおりに、「平宗盛」が最後まで持っていたものと伝えられる。赤旗が保管されています)。
しかし所在をはっきりする為には色だけでは役立たなくなった、そこで登場したのが家紋だといわれています。