鎌倉好き集まれ!十六夜さんの鎌倉リポート・第83号(2011年10月2日)

鶴岡八幡宮  崇敬者大祭が齋行されました

小笠原流 流鏑馬

鎌倉時代の流鏑馬装束

十月二日(日)鶴岡八幡宮「槐の会」による第四回「崇敬者大祭」が行われました。午後より、三十一世小笠原清忠宗家による流鏑馬も行われました。

「吾妻鏡」に流鏑馬の記述がありました。源義経が平泉で自害。頼朝が奥州藤原氏を討ち奥州平定の一年前、文治三年(1187)八月十五日鶴岡放生会があった。

頼朝公がお出まし、源範頼・平賀義信・加々美遠光・安田義定・源広綱・小山朝政・千葉常胤・三浦義澄・八田知家・足立遠元らが従った。流鏑馬が行われた。射手五騎が馬場に移動して、それぞれが射終えたが的に当たらない者はいなかった。

一番 射手 長江義景・・・坂ノ下御霊神社の祭神景政の三代の孫 

二番 射手 伊沢信光・・・甲斐源氏    

三番 射手 下河辺行平・・頼朝公より信頼され弓の師範     
  
四番 射手 小山千法師丸・鎌倉時代前期の武将    

五番 射手 三浦義村・・・三浦一族     

箙の矢は下から引き抜くようです

拍手喝采

矢が射られました

おみごと

江戸時代の流鏑馬装束 腰に矢をさしています

最後に石段で記念写真 お疲れさまでした

五騎が射終えた後、珍事があった。諏訪盛澄は流鏑馬の術を極めていた。藤原秀郷の秘術を伝承していて、城南寺の流鏑馬の射手に加わっていた。そのために関東に参上するのが大変遅れ、頼朝の勘気にふれ囚人となっていた。

この者を断罪したならば術が廃れてしまうことに、お心を悩まされていた。今日突然、盛澄を召し出されて流鏑馬を射るようにと言われた。厩第一の悪馬を賜り盛澄が馬に乗ろうとしたとき、厩舎人が密かに告げた。「この馬は的の前で必ず゛右の方へ駆けます。」

一の的の前で馬が右方に寄った時、生れながらの名人である盛澄は馬を操り的を射た。最後まで間違いがなかった。次に小さな土器を五寸の串に挟んだものを三本立てられたが、盛澄はことごとく射た。次にその三本の串を射るようにと重ねて命じられた。

盛澄は心中で諏訪大明神に祈念し、「霊神に仕えるべきものであれば、今ここで我を擁護したまえ。」と祈った。そうして射たところ、五寸の串をすべて射きった。みていた者はみな感動し、頼朝公のご気分もまた快くなり、罪を許すとの言葉があった。