鎌倉好き集まれ!大佐和さんの鎌倉リポート・第6号(2005年6月10日)
7『奥州後三年記』
1.鎌倉景正(景政)
御霊神社の祭神として崇められ、また力餅などでもなじみ深い鎌倉景正は、桓武平氏の血を引く平安時代の武将で、鎌倉郡を本拠としていました。景正16歳の時、後三年の役で源義家に従軍した際の活躍ぶりは後世まで大いにうたわれ、保元の乱や源平の戦いといった、のちの子孫らの合戦の名乗りの中でも言及されました。今回は、その景正の武勇譚を述べた『奥州後三年記』を見ることにしましょう。
御霊神社の祭神として崇められ、また力餅などでもなじみ深い鎌倉景正は、桓武平氏の血を引く平安時代の武将で、鎌倉郡を本拠としていました。景正16歳の時、後三年の役で源義家に従軍した際の活躍ぶりは後世まで大いにうたわれ、保元の乱や源平の戦いといった、のちの子孫らの合戦の名乗りの中でも言及されました。今回は、その景正の武勇譚を述べた『奥州後三年記』を見ることにしましょう。
2.『奥州後三年記』
作者は、本文の序に「貞和3年、大僧都玄慧、(中略)大綱の小序を記す」とあるので、玄慧(げんえ:1269~1350)だとわかります。鎌倉時代末期から室町時代にかけての朱子学の学僧です。『庭訓往来』や『太平記』の初も彼の作と言われていますが、その辺りは定かではありません。
成立年代も同様に序文から、貞和3年(1347)年、南北朝時代の成立と分かります。「大綱の小序を記す」とありますが、序文だけでなく当作品全文も玄慧と認められています。
当書はもともと、玄慧の書いた文章をもとに絵や筆が施され、『後三年合戦絵巻』という絵巻物として成立したのですが、その後『後三年絵巻』の詞書のみを抜き出したものが『奥州後三年記』としてあらためてまとめられました。
内容は、平安時代後半に起こった後三年の役(1083~87)について述べられており、その概略が当書の序文に書かれてあります。陸奥守であった源義家が奥州に赴任し、清原家衡・武衡(いえひら・たけひら)と真衡(さねひら)の一族間の内紛に介入して真衡を援護。苦戦の末、家衡・武衡を破り奥州を平定したことが総括されています。
今回取り上げる景正の話の他にも、義家が平安後期の学者である大江匡房(おおえのまさふさ)から聞いた、野に兵が隠れている時には雁が列を乱すという話や、勇気ある者と臆病の者を分けて座らせて兵を励ましたという「剛憶の座」などの挿話があり、短編ではありますが、読み応えがあります。
『奥州後三年記』は文学上の分類でいうと「軍記物語」になるのですが、これは戦乱の世の中を描いた物語で、中世文学の代表的なジャンルです。新興勢力として力を増してきた武士たちが、活気に満ちあふれた様子で描かれるのが特徴です。
作者は、本文の序に「貞和3年、大僧都玄慧、(中略)大綱の小序を記す」とあるので、玄慧(げんえ:1269~1350)だとわかります。鎌倉時代末期から室町時代にかけての朱子学の学僧です。『庭訓往来』や『太平記』の初も彼の作と言われていますが、その辺りは定かではありません。
成立年代も同様に序文から、貞和3年(1347)年、南北朝時代の成立と分かります。「大綱の小序を記す」とありますが、序文だけでなく当作品全文も玄慧と認められています。
当書はもともと、玄慧の書いた文章をもとに絵や筆が施され、『後三年合戦絵巻』という絵巻物として成立したのですが、その後『後三年絵巻』の詞書のみを抜き出したものが『奥州後三年記』としてあらためてまとめられました。
内容は、平安時代後半に起こった後三年の役(1083~87)について述べられており、その概略が当書の序文に書かれてあります。陸奥守であった源義家が奥州に赴任し、清原家衡・武衡(いえひら・たけひら)と真衡(さねひら)の一族間の内紛に介入して真衡を援護。苦戦の末、家衡・武衡を破り奥州を平定したことが総括されています。
今回取り上げる景正の話の他にも、義家が平安後期の学者である大江匡房(おおえのまさふさ)から聞いた、野に兵が隠れている時には雁が列を乱すという話や、勇気ある者と臆病の者を分けて座らせて兵を励ましたという「剛憶の座」などの挿話があり、短編ではありますが、読み応えがあります。
『奥州後三年記』は文学上の分類でいうと「軍記物語」になるのですが、これは戦乱の世の中を描いた物語で、中世文学の代表的なジャンルです。新興勢力として力を増してきた武士たちが、活気に満ちあふれた様子で描かれるのが特徴です。
3.本文
では、本文を読んでいきましょう
相模の国の住人鎌倉権五郎景正といふ者あり。先祖より聞えたかき強者
(つはもの)なり。年わづかに十六歳にして大軍の前にありて命をすて
てたたかふ間に。征矢(そや)にて右の目を射させつ。首を射つらぬき
てかぶとの鉢付きの板(はちつけのいた)に射付られぬ。矢をおりかけ
て答の矢を射て敵を射とりつ。
合戦の舞台は奥州金沢。今の秋田県横手市金沢にあたります。16歳にして戦の最前線で活躍するというのも勇ましい話ですよね。そんな強者の景正ですが、相手の放った矢が景正の右目を射抜いて頭部を貫通し、鉢付の板にまで達した、と書かれてあります。本文の「首」は頭部を言い、「鉢付の板」は兜の鉢と錣(しころ)のつなぎ合わせに近い部分。また、「征矢にて右の目を射させつ」の「させ」が中世特有の表現で、「~される」という受け身の意味を表します。
では、本文を読んでいきましょう
相模の国の住人鎌倉権五郎景正といふ者あり。先祖より聞えたかき強者
(つはもの)なり。年わづかに十六歳にして大軍の前にありて命をすて
てたたかふ間に。征矢(そや)にて右の目を射させつ。首を射つらぬき
てかぶとの鉢付きの板(はちつけのいた)に射付られぬ。矢をおりかけ
て答の矢を射て敵を射とりつ。
合戦の舞台は奥州金沢。今の秋田県横手市金沢にあたります。16歳にして戦の最前線で活躍するというのも勇ましい話ですよね。そんな強者の景正ですが、相手の放った矢が景正の右目を射抜いて頭部を貫通し、鉢付の板にまで達した、と書かれてあります。本文の「首」は頭部を言い、「鉢付の板」は兜の鉢と錣(しころ)のつなぎ合わせに近い部分。また、「征矢にて右の目を射させつ」の「させ」が中世特有の表現で、「~される」という受け身の意味を表します。
さて後、しりぞき帰りてかぶとを脱ぎて、景正負いたりとてのけざまに
ふしぬ。同国 のつはもの三浦の平太郎為次といふものあり。これも聞
えたかき者なり。つらぬきをはきながら景正が顔をふまへて矢を抜かん
とす。景正ふしながら刀をぬきて、為次がくさずりをとらへてあげざま
につかんとす。為次おどろきて、「こはいかに。などかくはするぞ」と
いふ。
景正がいふやう、「弓矢にあたりて死するはつはものの望むところなり。
いかでか生きながら足にてつらをふまるる事あらん。しかし汝をかたき
としてわれ爰(ここ)にて死なん」といふ。為次舌を巻きていふ事なし。
膝をかがめ顔ををさへて矢を抜きつ。おほくの人是を見聞。景正が高名
いよいよならびなし。
中世に書かれた文章ですから、細々とした点の解釈はともかく、大まかな内容はつかみやすいのではないでしょうか。「つらぬき」は鎧を着けた時などに履く毛皮のくつのことです。
右の絵は、『後三年合戦絵巻』に描かれている景正を真似て、僕が描いたんですけどね。
ちょうど上記本文の内容が描かれているわけですよ。(オレがかいた絵じゃふんいき出ないね。ゆるしてくれ)。上が為次で下が景正なのですが、まず為次が、景正の右目に刺さった矢を抜こうとして、つらぬきを履いたまま景正の顔を踏んで押さえ付けている。景正の目からは血が流れ出ていますね。
それに対して、景正は左手で為次の草摺をつかみ、右手に持った刀を為次に差し向けます。そして為次に「弓矢に当たって死ぬのは武士の本望である。どうして生きていながらにして足で顔を踏まれることがあろうか。しかし今、お前を敵だと思って私はここに死のう」と言う。
これら本文や絵などの景正の描写からは、「現実離れした異様さ」が感じられるのではないでしょうか。「ほんとうにこんなふうに矢が刺さったの?」「脳は平気なの?」などと考えてしまいがちですが、しかし、ここではそうした史実的な考察はしないことにします。この作品における景正の言動が、軍記物語の象徴でもある「武勇」を寓意的に描写している、と捉えることで、この作品に底流する戦の「生々しさ」を、間接的に感じとることができ、ひいては、この作品をよむことが、戦という我々が実際には体験しえないことを「濃密な体験」として追体験させることにつながるのではないか、とおもいます。
そういうわけで(どういうわけだ?)、ぜひホンモノの絵をご覧になってみてください。本文も能筆で書かれてあります。下に挙げてある文献でご確認いただけますよ(ご近所の図書館に置いてあるはず)。
景正をはじめ、生と死が隣り合わせであった時代の、戦乱のようすがリアルに感じられますよ。
ふしぬ。同国 のつはもの三浦の平太郎為次といふものあり。これも聞
えたかき者なり。つらぬきをはきながら景正が顔をふまへて矢を抜かん
とす。景正ふしながら刀をぬきて、為次がくさずりをとらへてあげざま
につかんとす。為次おどろきて、「こはいかに。などかくはするぞ」と
いふ。
景正がいふやう、「弓矢にあたりて死するはつはものの望むところなり。
いかでか生きながら足にてつらをふまるる事あらん。しかし汝をかたき
としてわれ爰(ここ)にて死なん」といふ。為次舌を巻きていふ事なし。
膝をかがめ顔ををさへて矢を抜きつ。おほくの人是を見聞。景正が高名
いよいよならびなし。
中世に書かれた文章ですから、細々とした点の解釈はともかく、大まかな内容はつかみやすいのではないでしょうか。「つらぬき」は鎧を着けた時などに履く毛皮のくつのことです。
右の絵は、『後三年合戦絵巻』に描かれている景正を真似て、僕が描いたんですけどね。
ちょうど上記本文の内容が描かれているわけですよ。(オレがかいた絵じゃふんいき出ないね。ゆるしてくれ)。上が為次で下が景正なのですが、まず為次が、景正の右目に刺さった矢を抜こうとして、つらぬきを履いたまま景正の顔を踏んで押さえ付けている。景正の目からは血が流れ出ていますね。
それに対して、景正は左手で為次の草摺をつかみ、右手に持った刀を為次に差し向けます。そして為次に「弓矢に当たって死ぬのは武士の本望である。どうして生きていながらにして足で顔を踏まれることがあろうか。しかし今、お前を敵だと思って私はここに死のう」と言う。
これら本文や絵などの景正の描写からは、「現実離れした異様さ」が感じられるのではないでしょうか。「ほんとうにこんなふうに矢が刺さったの?」「脳は平気なの?」などと考えてしまいがちですが、しかし、ここではそうした史実的な考察はしないことにします。この作品における景正の言動が、軍記物語の象徴でもある「武勇」を寓意的に描写している、と捉えることで、この作品に底流する戦の「生々しさ」を、間接的に感じとることができ、ひいては、この作品をよむことが、戦という我々が実際には体験しえないことを「濃密な体験」として追体験させることにつながるのではないか、とおもいます。
そういうわけで(どういうわけだ?)、ぜひホンモノの絵をご覧になってみてください。本文も能筆で書かれてあります。下に挙げてある文献でご確認いただけますよ(ご近所の図書館に置いてあるはず)。
景正をはじめ、生と死が隣り合わせであった時代の、戦乱のようすがリアルに感じられますよ。
4.金沢の柵
後三年の役で景正が奮戦した場所は、『奥州後三年記』の本文では「金沢の柵」と
記されているですが、先にものべたとおり、これは現在の秋田県横手市金沢町にあ
たります。ここには、争乱の終結後に景正が敵方の供養のために、屍を葬って塚を
設け、その上に杉を植えたという「景正功名塚」があります。樹齢900年を誇る大
木だったそうなのですが残念ながら昭和23年に火災に遭い、現在ではその幹だけが
残っています。
秋田県横手市ホームページをご覧いただくと、金沢の柵の戦にまつわる故地について
詳しく書いてあります。
http://www.city.yokote.lg.jp/
○文献
『奥州後三年記』(『群書類従20、合戦部』続群書類従刊行会、昭54訂3版、塙保己一編)
『群書解題4』(昭35、12、3版、続群書類従刊行会)
『国史大辞典3』(吉川弘文館、昭58、2、国史大辞典編集委員会編)
『国史大辞典4』(吉川弘文館、昭59、2、国史大辞典編集委員会編)
『国史大辞典5』(吉川弘文館、昭60、2、国史大辞典編集委員会編)
『後三年合戦絵詞』(『日本の絵巻14』中央公論社、昭63、10、小松成美)
後三年の役で景正が奮戦した場所は、『奥州後三年記』の本文では「金沢の柵」と
記されているですが、先にものべたとおり、これは現在の秋田県横手市金沢町にあ
たります。ここには、争乱の終結後に景正が敵方の供養のために、屍を葬って塚を
設け、その上に杉を植えたという「景正功名塚」があります。樹齢900年を誇る大
木だったそうなのですが残念ながら昭和23年に火災に遭い、現在ではその幹だけが
残っています。
秋田県横手市ホームページをご覧いただくと、金沢の柵の戦にまつわる故地について
詳しく書いてあります。
http://www.city.yokote.lg.jp/
○文献
『奥州後三年記』(『群書類従20、合戦部』続群書類従刊行会、昭54訂3版、塙保己一編)
『群書解題4』(昭35、12、3版、続群書類従刊行会)
『国史大辞典3』(吉川弘文館、昭58、2、国史大辞典編集委員会編)
『国史大辞典4』(吉川弘文館、昭59、2、国史大辞典編集委員会編)
『国史大辞典5』(吉川弘文館、昭60、2、国史大辞典編集委員会編)
『後三年合戦絵詞』(『日本の絵巻14』中央公論社、昭63、10、小松成美)