鎌倉好き集まれ!大佐和さんの鎌倉リポート・第7号(2006年1月30日)
8『徒然草』(1)
『徒然草(つれづれぐさ)』
今回から数回にわたって、『徒然草』を取り上げていきます。
今回は作品と作者について、です。
1.作品
鎌倉時代末期ころに成立した随筆集。
構成は、本書の執筆理由を述べた序段と、各章が独立した内容をもつ243の章段から成る。
「徒然(つれづれ)」とは、「何もすることのないさびしさ・退屈さ」を意味し、そうした感覚をまぎらわせるために書いた(つまりは「草」)、ということが序段に記される。
その序段を引用すると、
つれづれなるままに、日暮し硯にむかひて、心にうつりゆくよしな
し事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほし
けれ。
することもなく退屈にまかせて、終日、硯に向かって、心に移
ろいでゆくとりとめのない事を、何ということもなく書いてい
くと、気がどうにかなりそうであるよ。
と書かれてある。
『徒然草』という作品名は、この序段に由来したものであるが、その命名は、作者によるものなのか、それとも後世の人によるものなのかは、はっきりとしない。
各章段のテーマは、人生論・社会論・自然論・仏教的無常観・
有職故実(※1)など多岐にわたり、作者の博識がうかがえる。徒然草の文章はおおむね、論理性に富んでおり読みやすい。これは、作者が文章中に多く逸話・具体例を盛り込んでいるからであり、それゆえに、読み手にも説得力をもって伝わりやすくなっているのだと思う。
(だいたい、話が抽象的になってしまうときは、具体例を入れた方が相手に伝わりやすいでしょ?)
今回から数回にわたって、『徒然草』を取り上げていきます。
今回は作品と作者について、です。
1.作品
鎌倉時代末期ころに成立した随筆集。
構成は、本書の執筆理由を述べた序段と、各章が独立した内容をもつ243の章段から成る。
「徒然(つれづれ)」とは、「何もすることのないさびしさ・退屈さ」を意味し、そうした感覚をまぎらわせるために書いた(つまりは「草」)、ということが序段に記される。
その序段を引用すると、
つれづれなるままに、日暮し硯にむかひて、心にうつりゆくよしな
し事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほし
けれ。
することもなく退屈にまかせて、終日、硯に向かって、心に移
ろいでゆくとりとめのない事を、何ということもなく書いてい
くと、気がどうにかなりそうであるよ。
と書かれてある。
『徒然草』という作品名は、この序段に由来したものであるが、その命名は、作者によるものなのか、それとも後世の人によるものなのかは、はっきりとしない。
各章段のテーマは、人生論・社会論・自然論・仏教的無常観・
有職故実(※1)など多岐にわたり、作者の博識がうかがえる。徒然草の文章はおおむね、論理性に富んでおり読みやすい。これは、作者が文章中に多く逸話・具体例を盛り込んでいるからであり、それゆえに、読み手にも説得力をもって伝わりやすくなっているのだと思う。
(だいたい、話が抽象的になってしまうときは、具体例を入れた方が相手に伝わりやすいでしょ?)
2.作者
作者は兼好(けんこう)。
鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての歌人・随筆家。鎌倉幕府の滅亡から南北朝動乱期、という波瀾の時代に生きていた。
先祖が代々神祇官として朝廷に仕えていた「卜部(うらべ)家(※2)」の出身であることから卜部兼好(うらべのかねよし)とも、また、卜部家が京都吉田神社の社家であったことから、江戸時代以降には吉田兼好(よしだけんこう)ともいわれるようになる。
兼好は、少年期は堀川家(ほりかわけ)に家司(けいし:天皇・摂関家などに仕える職)として出仕し、20才のころには、後二条天皇(ごにじょうてんのう※3)に蔵人(くろうど:宮中の雑事を行う)として仕える。のち北面の武士(ほくめんのぶし:院の御所の北側を警護する武士)に昇進。
後二条天皇の没後、30才のころに出家し、京都の修学院や横川に隠棲して仏道と和歌の道に励む。和歌を二条為世(にじょうためよ※4)に学び、同じ門下の歌僧3人(頓阿・慶雲・浄弁※5)と共に「和歌四天王」とよばれた。
晩年は、仁和寺の近くに住んでいたようであるが、それ以前には関東にも2度下向(金沢・鎌倉)し、金沢称名寺には、兼好自筆の文書も残る。
著作には『徒然草』のほかに、『兼好法師家集(けんこうほうしかしゅう)』もある。
3.鎌倉と『徒然草』
兼好が関東滞在中に見聞した話をもとに書かれた話がいくつかあり、
そのなかで鎌倉にちなんだ話は、
・119段;鎌倉の海にとれるカツオについて
・177段:6代将軍、宗尊親王の話
・184段:5代執権北条時頼の母、松下禅尼、質素倹約の模範
・185段:安達泰盛、乗馬に精通すること
・215段:北条時頼の逸話(1)
・216段:北条時頼の逸話(2)
の6話である。
作者は兼好(けんこう)。
鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての歌人・随筆家。鎌倉幕府の滅亡から南北朝動乱期、という波瀾の時代に生きていた。
先祖が代々神祇官として朝廷に仕えていた「卜部(うらべ)家(※2)」の出身であることから卜部兼好(うらべのかねよし)とも、また、卜部家が京都吉田神社の社家であったことから、江戸時代以降には吉田兼好(よしだけんこう)ともいわれるようになる。
兼好は、少年期は堀川家(ほりかわけ)に家司(けいし:天皇・摂関家などに仕える職)として出仕し、20才のころには、後二条天皇(ごにじょうてんのう※3)に蔵人(くろうど:宮中の雑事を行う)として仕える。のち北面の武士(ほくめんのぶし:院の御所の北側を警護する武士)に昇進。
後二条天皇の没後、30才のころに出家し、京都の修学院や横川に隠棲して仏道と和歌の道に励む。和歌を二条為世(にじょうためよ※4)に学び、同じ門下の歌僧3人(頓阿・慶雲・浄弁※5)と共に「和歌四天王」とよばれた。
晩年は、仁和寺の近くに住んでいたようであるが、それ以前には関東にも2度下向(金沢・鎌倉)し、金沢称名寺には、兼好自筆の文書も残る。
著作には『徒然草』のほかに、『兼好法師家集(けんこうほうしかしゅう)』もある。
3.鎌倉と『徒然草』
兼好が関東滞在中に見聞した話をもとに書かれた話がいくつかあり、
そのなかで鎌倉にちなんだ話は、
・119段;鎌倉の海にとれるカツオについて
・177段:6代将軍、宗尊親王の話
・184段:5代執権北条時頼の母、松下禅尼、質素倹約の模範
・185段:安達泰盛、乗馬に精通すること
・215段:北条時頼の逸話(1)
・216段:北条時頼の逸話(2)
の6話である。
○文献
『増註徒然草』(伊沢孝雄、明26、大塚宇三郎)
『徒然草』(新潮日本古典集成、木藤才蔵注、昭52、新潮社)
『徒然草全註釈上/下』(安良岡康作、昭42/同43、角川書店)
『国史大辞典5/9/14』(昭59/同63/平5、国史大辞典編集委員会編、吉川弘文館)
『増註徒然草』(伊沢孝雄、明26、大塚宇三郎)
『徒然草』(新潮日本古典集成、木藤才蔵注、昭52、新潮社)
『徒然草全註釈上/下』(安良岡康作、昭42/同43、角川書店)
『国史大辞典5/9/14』(昭59/同63/平5、国史大辞典編集委員会編、吉川弘文館)