鎌倉好き集まれ!大佐和さんの鎌倉リポート・第9号(2007年5月5日)
9『徒然草』(2)
『徒然草』184段には、歴代執権のなかでも名君といわれた北条時頼の母、松下禅尼(まつしたのぜんに)のエピ
ソードが記されております。自邸に時頼を招くにあたって、破れていた障子をみずから直していた時のはなしで
す。
<本文1>
相模守(さがみのかみ)時頼の母は、松下禅尼とぞ申しける。守を入れ申さるる事ありけるに、煤けたる
明かり障子の破ればかりを、禅尼、手づから、小刀して切り廻しつつ張られければ、兄の城介義景(じょう
のすけよしかげ)、その日けいめいして候ひけるが、「給はりて、某男に張らせ候はん。さやうの事に心得
たる者に候」と申されければ、「その男、尼が細工によも勝り侍らじ」とて、なほ一間づつ張られけるを、
義景、「皆を張り替え候はんは、遥かにたやすく候ふべし。斑に候ふも見苦しくや」と重ねて申されけれ
ば、「尼も後はさはさはと張り替えんと思へども、今日ばかりは、わざとかくてあるべきなり。物は破れた
る所ばかりを修理して用ゐることぞと、若き人に見習はせて、心づけんためなり」と申される、いとありが
たかりけり。
中世に書かれた文章は、源氏物語や枕草子といった平安期の著作にくらべるとかなり読みやすくなります。主
語や会話を行っているのは誰か、といった人物関係に注目して読みすすめていけば、おおまかな内容がつかめる
でしょう。ここでの登場人物は「禅尼」と兄の「義景」。「時頼」は話題として挙げられるにとどまっておりま
す。
文中で、義景の会話文は「候ふ文」が主体であるのに対し、禅尼の会話にはほとんど敬語が用いられておりま
せん。妹であっても執権の母であるがゆえの立場の違いが、用いられる言葉にも反映されております。
禅尼は、そうした政治の中枢をになう家柄にありながらも、障子の張り替えといった日常こまごまとしたした
こともおろそかにしない人であった。その人柄にふさわしく、これから自邸にやって来る時頼に、みずからの態
度でもって倹約の大切さを教えようとしているのです。
「下男にまかせて、障子全体を張り替えた方がいい」
という義景からの提案を、禅尼は
「その男の細工は、私の細工にはまさらないでしょう」
と言って返します。
一間ずつ張ることの見苦しさは、禅尼みずからも承知なのであり、しかしそれでも、時頼に倹約を教えるために
「今日だけは、このようにしておくのがよいのだ」
ときっぱり言い切って張り続けていく、その様子からは母としての凛としたおもざしが感じられます。「賢母」
とはまさにこのことであり、こうした禅尼の姿が、わが子に対し過保護・溺愛になりがちな現代の親御さんへ
の、良き見本になってほしいなぁ、などとふだん中高生の親御さんと接することの多い僕はつくづく思います。
さて、京都で生まれ育った兼好は、幼いころからお公家さんたちのきらびやかな暮らしを見なれていたもので
すから、こうした関東での素朴でつつましやかな生活ぶりを見聞きして、かえって新鮮に思えたのでしょう。
この章段の他にも、こうした倹約礼讃の話はいくつか見受けられます。
たとえば、18段では
人は己をつづまやかにし、奢りを退けて、財を持たず、世を貪らんぞ、いみじかるべき。
と述べております。みずからの思想とあいまった禅尼の言動にもおおいに共感し、だからこそ、本書に書きとど
めたのでしょう。そしてまた、それらの著述は、遁世的な彼の性格にふさわしいものだったのです。
58・123・140・215段においても、兼好の倹約の理念が伺えます。
兼好はつぎに、自らの考えを述べて、この章段を結んでおります。
<本文2>
世を治むる道、倹約を本とす。女性なれども、聖人の心に通へり。天下を保つ程の人を、子にて持たれけ
る、誠に、ただ人にはあらざりけるとぞ。
兼好の話のすすめ方として、かねてから指摘されているとことなのですが、はじめにエピソードを挙げて、そ
の後にみずからの考えを結論として示す、といった展開がよくなされます。たしかに「具体例→結論」といった
流れは読みやすいですし、説得力もあると思います。
兼好は、
「世を治める道というのは、倹約を根本とするものである」
と結論づけておりますが、これは、なにかと世間を騒がせる現代の「世を治むる方々」にもよくよくお分かりい
ただきたいものであります。もっとも「倹約」は、浪費・飽食のまっただ中にいる現代人にとっても、おおいに
大事なことなのですが。(←とくにここは、自戒を込めて。)
それはさておき、禅尼のこのはなしは、印刷技術の進んだ近世になると、世に広まって、
・風よりもしみる障子の御教訓
・松下の切張り鱗などを張り(鱗は北条鱗のこと)
・つれづれの骨は禅尼の障子なり
などといった川柳までよまれるようになりました。
ソードが記されております。自邸に時頼を招くにあたって、破れていた障子をみずから直していた時のはなしで
す。
<本文1>
相模守(さがみのかみ)時頼の母は、松下禅尼とぞ申しける。守を入れ申さるる事ありけるに、煤けたる
明かり障子の破ればかりを、禅尼、手づから、小刀して切り廻しつつ張られければ、兄の城介義景(じょう
のすけよしかげ)、その日けいめいして候ひけるが、「給はりて、某男に張らせ候はん。さやうの事に心得
たる者に候」と申されければ、「その男、尼が細工によも勝り侍らじ」とて、なほ一間づつ張られけるを、
義景、「皆を張り替え候はんは、遥かにたやすく候ふべし。斑に候ふも見苦しくや」と重ねて申されけれ
ば、「尼も後はさはさはと張り替えんと思へども、今日ばかりは、わざとかくてあるべきなり。物は破れた
る所ばかりを修理して用ゐることぞと、若き人に見習はせて、心づけんためなり」と申される、いとありが
たかりけり。
中世に書かれた文章は、源氏物語や枕草子といった平安期の著作にくらべるとかなり読みやすくなります。主
語や会話を行っているのは誰か、といった人物関係に注目して読みすすめていけば、おおまかな内容がつかめる
でしょう。ここでの登場人物は「禅尼」と兄の「義景」。「時頼」は話題として挙げられるにとどまっておりま
す。
文中で、義景の会話文は「候ふ文」が主体であるのに対し、禅尼の会話にはほとんど敬語が用いられておりま
せん。妹であっても執権の母であるがゆえの立場の違いが、用いられる言葉にも反映されております。
禅尼は、そうした政治の中枢をになう家柄にありながらも、障子の張り替えといった日常こまごまとしたした
こともおろそかにしない人であった。その人柄にふさわしく、これから自邸にやって来る時頼に、みずからの態
度でもって倹約の大切さを教えようとしているのです。
「下男にまかせて、障子全体を張り替えた方がいい」
という義景からの提案を、禅尼は
「その男の細工は、私の細工にはまさらないでしょう」
と言って返します。
一間ずつ張ることの見苦しさは、禅尼みずからも承知なのであり、しかしそれでも、時頼に倹約を教えるために
「今日だけは、このようにしておくのがよいのだ」
ときっぱり言い切って張り続けていく、その様子からは母としての凛としたおもざしが感じられます。「賢母」
とはまさにこのことであり、こうした禅尼の姿が、わが子に対し過保護・溺愛になりがちな現代の親御さんへ
の、良き見本になってほしいなぁ、などとふだん中高生の親御さんと接することの多い僕はつくづく思います。
さて、京都で生まれ育った兼好は、幼いころからお公家さんたちのきらびやかな暮らしを見なれていたもので
すから、こうした関東での素朴でつつましやかな生活ぶりを見聞きして、かえって新鮮に思えたのでしょう。
この章段の他にも、こうした倹約礼讃の話はいくつか見受けられます。
たとえば、18段では
人は己をつづまやかにし、奢りを退けて、財を持たず、世を貪らんぞ、いみじかるべき。
と述べております。みずからの思想とあいまった禅尼の言動にもおおいに共感し、だからこそ、本書に書きとど
めたのでしょう。そしてまた、それらの著述は、遁世的な彼の性格にふさわしいものだったのです。
58・123・140・215段においても、兼好の倹約の理念が伺えます。
兼好はつぎに、自らの考えを述べて、この章段を結んでおります。
<本文2>
世を治むる道、倹約を本とす。女性なれども、聖人の心に通へり。天下を保つ程の人を、子にて持たれけ
る、誠に、ただ人にはあらざりけるとぞ。
兼好の話のすすめ方として、かねてから指摘されているとことなのですが、はじめにエピソードを挙げて、そ
の後にみずからの考えを結論として示す、といった展開がよくなされます。たしかに「具体例→結論」といった
流れは読みやすいですし、説得力もあると思います。
兼好は、
「世を治める道というのは、倹約を根本とするものである」
と結論づけておりますが、これは、なにかと世間を騒がせる現代の「世を治むる方々」にもよくよくお分かりい
ただきたいものであります。もっとも「倹約」は、浪費・飽食のまっただ中にいる現代人にとっても、おおいに
大事なことなのですが。(←とくにここは、自戒を込めて。)
それはさておき、禅尼のこのはなしは、印刷技術の進んだ近世になると、世に広まって、
・風よりもしみる障子の御教訓
・松下の切張り鱗などを張り(鱗は北条鱗のこと)
・つれづれの骨は禅尼の障子なり
などといった川柳までよまれるようになりました。
ところで、右の写真は、長谷にある甘縄神社です。
参道脇に、義景の祖父にあたる「安達盛長邸跡」の石碑が立っております(右下)。『吾妻鏡』によると、治承4年12月条に、
盛長が甘縄の家に入御す・・・
とあり、以来甘縄は安達家の父祖相伝の地となったようです。
義景邸や禅尼邸についても『吾妻鏡』に
義景の甘縄の家・・・(暦仁元年1月20日)
松下禅尼の甘縄の第・・・(建長3年5月1日)
とあることから、両者の邸も甘縄にあり、近かったのだろうと思われます。
参道脇に、義景の祖父にあたる「安達盛長邸跡」の石碑が立っております(右下)。『吾妻鏡』によると、治承4年12月条に、
盛長が甘縄の家に入御す・・・
とあり、以来甘縄は安達家の父祖相伝の地となったようです。
義景邸や禅尼邸についても『吾妻鏡』に
義景の甘縄の家・・・(暦仁元年1月20日)
松下禅尼の甘縄の第・・・(建長3年5月1日)
とあることから、両者の邸も甘縄にあり、近かったのだろうと思われます。
ー文献ー
『増註徒然草』(伊沢孝雄、明26、大塚宇三郎)
『徒然草解釈大成』(昭41、岩崎書店)
『徒然草全註釈上/下』(安良岡康作、昭42/同43、角川書店)
『川柳大辞典』(大曲駒村、昭和37、高橋書店)
『吾妻鏡(新訂増補国史大系)』(昭和43、吉川弘文館)
『増註徒然草』(伊沢孝雄、明26、大塚宇三郎)
『徒然草解釈大成』(昭41、岩崎書店)
『徒然草全註釈上/下』(安良岡康作、昭42/同43、角川書店)
『川柳大辞典』(大曲駒村、昭和37、高橋書店)
『吾妻鏡(新訂増補国史大系)』(昭和43、吉川弘文館)