鎌倉好き集まれ!大佐和さんの鎌倉リポート・第8号(2006年3月10日)
鎌倉時代の概観
☆鎌倉時代を知る☆
1.治承・寿永の乱(1180~1185年にかけて起きた源平の争乱)
(1)以仁王の令旨(1180年4月)
・源頼政、以仁王とともに挙兵(5月)→敗死 ※時政は政子を山木
・源頼朝、伊豆で挙兵(8月)→伊豆目代山木兼隆を破る 兼隆の妻にさせよ
・源義仲、木曽で挙兵(9月)→砺波山の戦いで平氏を破り、入京 として反対された
(2)平氏の都落ち
・一の谷の戦い(1184年2月、摂津国):源義経<鵯越の逆落とし>
・屋島の戦い(1185年2月、讃岐国):義経の急襲/那須与一<扇の的>
・壇ノ浦の戦い(1185年3月、長門国) → 平家滅亡(安徳天皇の入水)
2.鎌倉幕府の成立(1180~1192年)
(1)源頼朝による支配権確立の過程
・伊豆で挙兵(1180年8月)
・石橋山の戦い(1180年8月):大庭景親に破れ、安房に逃れる
・鎌倉入り(1180年10月)
・富士川の戦い(1180年10月):平維盛を敗走させる
・寿永二年十月宣旨(1183年):東海・東山道支配権を掌握
・平家追討の院宣を受ける(1184年)
・平家滅亡(1185年2月)
・奥州征討(1189年7月):陸奥・出羽を支配下に
・右近衛大将に任じられる(1190年11月)
・征夷大将軍に就任(1192年7月)←名実ともに幕府成立
(2)支配組織の確立
・侍所の設置(1180年):御家人統率(別当=和田義盛)
・公文所設置(1184年):一般財政をあつかう(別当=大江広元)→1191年、政所と改称
・問注所設置(1184年):訴訟・裁判事務(執事=三善康信)
・奥州総奉行(1189年):奥州藤原氏滅亡後の管理・統率
・京都守護(1185年):京都御家人の統率・洛中警備
・鎮西奉行(1185年):九州御家人の統率・軍事
・守護・地頭(1185年)
(3)守護・地頭の設置(大江広元の建議による)
①守護
・目的:義経・行家追捕のため
・設置:国ごとに1人置かれる
・選出:有力御家人より任命される
・任務:大犯三箇条 [ 大判催促(京都警護)、謀反人・殺害人の逮捕 ]
②地頭
・設置:諸国の公領・荘園に設置(のち承久の乱後拡大)
・選出:ほとんどが御家人より選出
・任務:徴税・土地管理・治安維持
・地頭設置にともない、反別5升ずつの兵粮米徴収を認められる(→1186年停止)
・荘園侵略につながるとして、荘園領主・国司らが反対
→九条兼実は自著『玉葉』にて、「凡そ言語の及ぶ所にあらず」と批判
・翌1186年、地頭の設置範囲を平家没官領に限定
(4)鎌倉幕府の基盤
①御恩と奉公
土地を媒介として、鎌倉殿と御家人が主従関係をむすぶ(封建制度)
御家人は鎌倉殿から御恩を受け、そのかわりに奉公をおこなう
<御恩:将軍があたえる恩恵>
・本領安堵:先祖代々の土地を保障
・新恩給与:功労により所領を与える
<奉公:御家人の奉仕>
・番役:警護役。京都大番役・鎌倉番役
・軍役:軍事役。「いざ鎌倉」の時、鎌倉へかけつける
②関東御成敗地(経済的基盤)
・関東御領:将軍が獲得した所領。ほとんどが平家没官領やのちの承久の乱による没収地
・関東御分国:将軍にあたえられた知行国
・関東進止所領:将軍が地頭職などの任命権を有する国
→幕府はこれらの所領より年貢・公事・夫役を得ることで経済的安定をはかる
③大田文の作成:国ごとの田地面積・土地所有者などを記す。賦課のための土地台帳
3.北条氏の台頭/他氏排斥など
・頼朝の死後、北条氏が幕府の実権をにぎる→有力御家人など13人からなる合議制政治
・梶原景時滅亡(1200年):三浦氏らの排斥による
・比企能員滅亡(1203年):時政による。能員は頼家の義父
・時政、2代将軍頼家を伊豆修善寺に幽閉(1203年)→暗殺(1204年)
・実朝を3代将軍に擁立(1203年)
・時政、政所別当に就く(1203年)→執権政治の始まり
・畠山重忠滅亡(1205年):時政による
・和田義盛滅亡(1213年):義時による→のちに侍所別当を兼任<執権政治の本格化>
・実朝暗殺(1219年):頼家の子公暁による→源氏の正統が絶える
4.承久の乱(1221年):源氏正統の断絶を契機に、後鳥羽上皇が倒幕をはかる
(1)北条義時(2代執権)追討の院宣
事態収拾のため、北条政子(尼将軍)が檄をとばす
(2)上皇側の敗北
・後鳥羽上皇→隠岐へ、土御門上皇→土佐(のちに阿波)、順徳上皇→佐渡へ配流
・仲恭天皇が廃位され後堀河天皇が即位
・京都守護にかわって六波羅探題が設けられる(1221年)→泰時・時房が初代就任
・乱後、朝廷側の没収地3000ヵ所に、新補地頭を設置→新たな給与基準(新補率法)を適用する
・公家勢力の後退 ※それまでの地頭は本補地頭といわれる
・守護・地頭の全国配置→幕府権力の拡大
5.北条泰時の時代(3代執権)
(1)摂家将軍の擁立:九条(藤原)頼経を迎える。
(2)連署の設置(1225年):執権の補佐役。北条時房が初代就任
(3)評定衆の設置(1225年):幕政の最高機関。有力御家人による合議制を強化
(4)御成敗式目(貞永式目)の制定(1232年)
・51条、三善康連が作成
・頼朝以来の先例と武家の道理を根拠として成文化
・目的:御家人同士や御家人と荘園領主間の公正な裁判をめざす
・内容:守護・地頭の権限、所領の支配・相続などを規定
・悔返し法・女人養子権などに特徴
・必要に応じて追加法(式目追加)を加える
6.北条時頼の時代(5代執権)
(1)九条(藤原)頼嗣に代わって、皇族将軍の宗尊親王を迎える
(2)宝治合戦(1247年):三浦泰村一族を滅ぼす
(3)引付衆の設置(1249年):裁判の迅速化を目的。評定衆の下で訴訟を担当する
7.北条時宗の時代(8代執権)
(1)元寇
13世紀初、成吉思汗(チンギス=ハン)がモンゴルを統一
成吉思汗の子、忽必烈(フビライ)が1271年に元を建国し、日本に服属要求→時宗は拒否
(2)2度にわたる元軍の襲来
①文永の役(1274年)
・元・高麗の連合軍が九州北部に侵入
・集団戦法・火器(てつはう)の使用に苦戦
・暴風雨により元軍退く
②弘安の役(1281年)
・南宋を滅ぼしたのち、東路軍と南路軍の二手に分かれ九州北部にせまる
・暴風雨により敗退
(3)幕府は元寇に対して、戦備を強化する。
・異国警固番役の設置(1271年)→制度化(1275年)
・石塁を築く(1276年)→福岡市西区今津に現存
(4)元寇の影響
・戦費の負担と戦功に対する恩賞が不足し、御家人は窮乏
・元寇を克服するにあたって非御家人を西国へ動員し、幕府の支配地域が西国までおよぶ
・得宗(北条嫡流の当主)の権力が強まる
→御内人(得宗家の家臣)や内管領(御内人の代表)の台頭→御家人との対立をまねく
・惣領制(一族の結合原理)の変質
→惣領の単独相続・庶子家の独立がすすむ
血縁的結合から地縁的結合へ
8.北条貞時の時代(9代執権)
(1)鎮西探題の設置(1293年):西国防備→幕府の支配力が西国まで及ぶ
(2)霜月騒動(1285年)
内管領平頼綱と有力御家人安達泰盛の対立→泰盛一族の滅亡
(3)平禅門の乱(1293年)
専横をふるう頼綱を滅ぼす→得宗専制政治(※)の強化(内管領・身内人による政治)
(4)永仁の徳政令(1297年) (※)時頼のころから確立
<原因>
・元寇による御家人の窮乏(戦費負担と恩賞不足)
・所領の分割相続による細分化
・貨幣経済の浸透による所領の質入れ・売却の横行
<内容>
・御家人の所領の質入れ、売却、買収を停止
・20年未満の質入れ、売却した所領の無償返却
・御家人の金銭貸借に関する訴訟を受け付けない
<結果>
・凡下・借上(金融者)などの困惑、態度硬化
・御家人の反発(金融の道がなくなる)、幕府から離反の傾向
→1298年、一部修正
9.北条高時の時代(14代執権。闘犬・田楽にひたる)
(1)政治の実権:長崎高資→賄賂政治で幕府を腐敗
(2)御家人の幕府離れが進む/畿内を中心に悪党が暗躍
(3)朝廷の内紛→皇統の分裂
・持明院統と大覚寺統の対立:皇位継承や八条院領・長講堂領の利権をめぐる争い
・幕府の介入→両統迭立(両統が交代で皇位につく)→文保の和談(1317年)
(4)朝廷の倒幕計画
①後醍醐天皇即位(1318年)
②正中の変(1324年):後醍醐天皇が日野資朝・俊基と倒幕をはかる→失敗
・資朝→佐渡へ配流(のちに赦免) / 後醍醐・俊基→赦免
③元弘の変(1331年)後醍醐天皇の再度の倒幕計画→これも失敗
・後醍醐→隠岐に配流 / 資朝・俊基→処刑
・後醍醐天皇にかわって持明院統の光厳天皇が擁立される。
(4)反幕勢力の蜂起、討幕運動の拡大
・悪党出身の楠木正成や大塔宮護良親王らが京都で活躍
・赤松則村(播磨):護良親王の綸旨を受けて挙兵
・菊池武時(肥後):後醍醐天皇の隠岐脱出に応じて挙兵
(5)鎌倉幕府の滅亡
・足利高氏(尊氏)の六波羅攻め
・新田義貞の鎌倉攻め→高時ら自害、鎌倉幕府滅亡(1333年)
1.治承・寿永の乱(1180~1185年にかけて起きた源平の争乱)
(1)以仁王の令旨(1180年4月)
・源頼政、以仁王とともに挙兵(5月)→敗死 ※時政は政子を山木
・源頼朝、伊豆で挙兵(8月)→伊豆目代山木兼隆を破る 兼隆の妻にさせよ
・源義仲、木曽で挙兵(9月)→砺波山の戦いで平氏を破り、入京 として反対された
(2)平氏の都落ち
・一の谷の戦い(1184年2月、摂津国):源義経<鵯越の逆落とし>
・屋島の戦い(1185年2月、讃岐国):義経の急襲/那須与一<扇の的>
・壇ノ浦の戦い(1185年3月、長門国) → 平家滅亡(安徳天皇の入水)
2.鎌倉幕府の成立(1180~1192年)
(1)源頼朝による支配権確立の過程
・伊豆で挙兵(1180年8月)
・石橋山の戦い(1180年8月):大庭景親に破れ、安房に逃れる
・鎌倉入り(1180年10月)
・富士川の戦い(1180年10月):平維盛を敗走させる
・寿永二年十月宣旨(1183年):東海・東山道支配権を掌握
・平家追討の院宣を受ける(1184年)
・平家滅亡(1185年2月)
・奥州征討(1189年7月):陸奥・出羽を支配下に
・右近衛大将に任じられる(1190年11月)
・征夷大将軍に就任(1192年7月)←名実ともに幕府成立
(2)支配組織の確立
・侍所の設置(1180年):御家人統率(別当=和田義盛)
・公文所設置(1184年):一般財政をあつかう(別当=大江広元)→1191年、政所と改称
・問注所設置(1184年):訴訟・裁判事務(執事=三善康信)
・奥州総奉行(1189年):奥州藤原氏滅亡後の管理・統率
・京都守護(1185年):京都御家人の統率・洛中警備
・鎮西奉行(1185年):九州御家人の統率・軍事
・守護・地頭(1185年)
(3)守護・地頭の設置(大江広元の建議による)
①守護
・目的:義経・行家追捕のため
・設置:国ごとに1人置かれる
・選出:有力御家人より任命される
・任務:大犯三箇条 [ 大判催促(京都警護)、謀反人・殺害人の逮捕 ]
②地頭
・設置:諸国の公領・荘園に設置(のち承久の乱後拡大)
・選出:ほとんどが御家人より選出
・任務:徴税・土地管理・治安維持
・地頭設置にともない、反別5升ずつの兵粮米徴収を認められる(→1186年停止)
・荘園侵略につながるとして、荘園領主・国司らが反対
→九条兼実は自著『玉葉』にて、「凡そ言語の及ぶ所にあらず」と批判
・翌1186年、地頭の設置範囲を平家没官領に限定
(4)鎌倉幕府の基盤
①御恩と奉公
土地を媒介として、鎌倉殿と御家人が主従関係をむすぶ(封建制度)
御家人は鎌倉殿から御恩を受け、そのかわりに奉公をおこなう
<御恩:将軍があたえる恩恵>
・本領安堵:先祖代々の土地を保障
・新恩給与:功労により所領を与える
<奉公:御家人の奉仕>
・番役:警護役。京都大番役・鎌倉番役
・軍役:軍事役。「いざ鎌倉」の時、鎌倉へかけつける
②関東御成敗地(経済的基盤)
・関東御領:将軍が獲得した所領。ほとんどが平家没官領やのちの承久の乱による没収地
・関東御分国:将軍にあたえられた知行国
・関東進止所領:将軍が地頭職などの任命権を有する国
→幕府はこれらの所領より年貢・公事・夫役を得ることで経済的安定をはかる
③大田文の作成:国ごとの田地面積・土地所有者などを記す。賦課のための土地台帳
3.北条氏の台頭/他氏排斥など
・頼朝の死後、北条氏が幕府の実権をにぎる→有力御家人など13人からなる合議制政治
・梶原景時滅亡(1200年):三浦氏らの排斥による
・比企能員滅亡(1203年):時政による。能員は頼家の義父
・時政、2代将軍頼家を伊豆修善寺に幽閉(1203年)→暗殺(1204年)
・実朝を3代将軍に擁立(1203年)
・時政、政所別当に就く(1203年)→執権政治の始まり
・畠山重忠滅亡(1205年):時政による
・和田義盛滅亡(1213年):義時による→のちに侍所別当を兼任<執権政治の本格化>
・実朝暗殺(1219年):頼家の子公暁による→源氏の正統が絶える
4.承久の乱(1221年):源氏正統の断絶を契機に、後鳥羽上皇が倒幕をはかる
(1)北条義時(2代執権)追討の院宣
事態収拾のため、北条政子(尼将軍)が檄をとばす
(2)上皇側の敗北
・後鳥羽上皇→隠岐へ、土御門上皇→土佐(のちに阿波)、順徳上皇→佐渡へ配流
・仲恭天皇が廃位され後堀河天皇が即位
・京都守護にかわって六波羅探題が設けられる(1221年)→泰時・時房が初代就任
・乱後、朝廷側の没収地3000ヵ所に、新補地頭を設置→新たな給与基準(新補率法)を適用する
・公家勢力の後退 ※それまでの地頭は本補地頭といわれる
・守護・地頭の全国配置→幕府権力の拡大
5.北条泰時の時代(3代執権)
(1)摂家将軍の擁立:九条(藤原)頼経を迎える。
(2)連署の設置(1225年):執権の補佐役。北条時房が初代就任
(3)評定衆の設置(1225年):幕政の最高機関。有力御家人による合議制を強化
(4)御成敗式目(貞永式目)の制定(1232年)
・51条、三善康連が作成
・頼朝以来の先例と武家の道理を根拠として成文化
・目的:御家人同士や御家人と荘園領主間の公正な裁判をめざす
・内容:守護・地頭の権限、所領の支配・相続などを規定
・悔返し法・女人養子権などに特徴
・必要に応じて追加法(式目追加)を加える
6.北条時頼の時代(5代執権)
(1)九条(藤原)頼嗣に代わって、皇族将軍の宗尊親王を迎える
(2)宝治合戦(1247年):三浦泰村一族を滅ぼす
(3)引付衆の設置(1249年):裁判の迅速化を目的。評定衆の下で訴訟を担当する
7.北条時宗の時代(8代執権)
(1)元寇
13世紀初、成吉思汗(チンギス=ハン)がモンゴルを統一
成吉思汗の子、忽必烈(フビライ)が1271年に元を建国し、日本に服属要求→時宗は拒否
(2)2度にわたる元軍の襲来
①文永の役(1274年)
・元・高麗の連合軍が九州北部に侵入
・集団戦法・火器(てつはう)の使用に苦戦
・暴風雨により元軍退く
②弘安の役(1281年)
・南宋を滅ぼしたのち、東路軍と南路軍の二手に分かれ九州北部にせまる
・暴風雨により敗退
(3)幕府は元寇に対して、戦備を強化する。
・異国警固番役の設置(1271年)→制度化(1275年)
・石塁を築く(1276年)→福岡市西区今津に現存
(4)元寇の影響
・戦費の負担と戦功に対する恩賞が不足し、御家人は窮乏
・元寇を克服するにあたって非御家人を西国へ動員し、幕府の支配地域が西国までおよぶ
・得宗(北条嫡流の当主)の権力が強まる
→御内人(得宗家の家臣)や内管領(御内人の代表)の台頭→御家人との対立をまねく
・惣領制(一族の結合原理)の変質
→惣領の単独相続・庶子家の独立がすすむ
血縁的結合から地縁的結合へ
8.北条貞時の時代(9代執権)
(1)鎮西探題の設置(1293年):西国防備→幕府の支配力が西国まで及ぶ
(2)霜月騒動(1285年)
内管領平頼綱と有力御家人安達泰盛の対立→泰盛一族の滅亡
(3)平禅門の乱(1293年)
専横をふるう頼綱を滅ぼす→得宗専制政治(※)の強化(内管領・身内人による政治)
(4)永仁の徳政令(1297年) (※)時頼のころから確立
<原因>
・元寇による御家人の窮乏(戦費負担と恩賞不足)
・所領の分割相続による細分化
・貨幣経済の浸透による所領の質入れ・売却の横行
<内容>
・御家人の所領の質入れ、売却、買収を停止
・20年未満の質入れ、売却した所領の無償返却
・御家人の金銭貸借に関する訴訟を受け付けない
<結果>
・凡下・借上(金融者)などの困惑、態度硬化
・御家人の反発(金融の道がなくなる)、幕府から離反の傾向
→1298年、一部修正
9.北条高時の時代(14代執権。闘犬・田楽にひたる)
(1)政治の実権:長崎高資→賄賂政治で幕府を腐敗
(2)御家人の幕府離れが進む/畿内を中心に悪党が暗躍
(3)朝廷の内紛→皇統の分裂
・持明院統と大覚寺統の対立:皇位継承や八条院領・長講堂領の利権をめぐる争い
・幕府の介入→両統迭立(両統が交代で皇位につく)→文保の和談(1317年)
(4)朝廷の倒幕計画
①後醍醐天皇即位(1318年)
②正中の変(1324年):後醍醐天皇が日野資朝・俊基と倒幕をはかる→失敗
・資朝→佐渡へ配流(のちに赦免) / 後醍醐・俊基→赦免
③元弘の変(1331年)後醍醐天皇の再度の倒幕計画→これも失敗
・後醍醐→隠岐に配流 / 資朝・俊基→処刑
・後醍醐天皇にかわって持明院統の光厳天皇が擁立される。
(4)反幕勢力の蜂起、討幕運動の拡大
・悪党出身の楠木正成や大塔宮護良親王らが京都で活躍
・赤松則村(播磨):護良親王の綸旨を受けて挙兵
・菊池武時(肥後):後醍醐天皇の隠岐脱出に応じて挙兵
(5)鎌倉幕府の滅亡
・足利高氏(尊氏)の六波羅攻め
・新田義貞の鎌倉攻め→高時ら自害、鎌倉幕府滅亡(1333年)