鎌倉好き集まれ!KIさんの鎌倉リポート・第149号(2009年2月27日)

鶴岡八幡宮のルーツを旅して(その14)~金沢の八幡様に伝わる鎌倉神楽

早春訪れる鶴岡八幡宮

【河津桜が満開の本殿前(2009.2.22)】

【舞殿には,高杯が並べられていきます(2009.2.22)】

KIです。
2月22日の日曜日の朝,鶴岡八幡宮へと出かけました。本殿の石段脇にある河津桜は見事に満開でした。
 もっとも,他のレポーターさんたちが既にいくつも報告されていたのでわかっていたのですが,実物を拝見するとやはり感極まりますね。

ただ,奥さんに迫力満点のピンクの桜を見せられなかったのが残念至極・・・

前日からの晴天が続き,それほど冷え込まず,すがすがしい境内でした。

さて,今回はシリーズ『鶴岡八幡宮のルーツを旅して』。以前のレポートで紹介した富岡八幡宮(横浜市金沢区)についてご紹介いたします。
 レポートNo.141(2009年1月10日)で,鎌倉の鬼門(北東)を守るエビス様としてご紹介した富岡八幡宮ですが,実は鶴岡八幡宮から分霊勧請した八幡大神(応神天皇)もエビス様とともにお祭りされているのです。

足掛け3年にわたったこのシリーズも今回,いよいよ最終回の前編です。

横浜金沢の富岡八幡宮

【本殿前に魔除けの塀が立ちはだかる富岡八幡宮(2009.1.10)】

【富岡八幡宮の境内にあるエビス様(2009.1.10)】

この1月10日,鎌倉の十日戎の後に,浜のエビス様で名高い富岡八幡宮を訪れたのは以前のレポートNo.139~No.141でもふれたとおりです。

富岡八幡宮の創建は西暦1191年。源頼朝公が西宮神社(兵庫県)のエビス様を勧請して,この地にお祭りしたのがこの神社の始まりです。それ以降,この富岡のエビス様は鎌倉の北東を鎮護する厄災防除の神となりました。なお,このときはまだ八幡宮ではなく,エビス様のみをお祭りする神社でした。
 それが八幡宮になったのは西暦1227年のこと。当時の鎌倉幕府は第3代執権,北条泰時のころ。泰時の命令なのかどうかはわかりませんが,この年に鎌倉からの八幡大神(応神天皇)の御分霊を併せ祀って,神社名も八幡宮となったのだそうです。
 前年の1226年には幕府の御所も大蔵から宇津辻子(若宮大路の東隣)に移転し,源氏将軍が3代で終えた鎌倉幕府では執権を長とした合議体制が発足したばかりのときでした。
 エビス様に併せて,鎌倉幕府の守り神ともいうべき八幡大神をも合祀したということは,源頼朝のころから鎌倉の外港として重要だった金沢の地(六浦)が,この時代にはよりいっそう重要になっていたのでしょう。
 
一言でいえば,

“金沢の富岡八幡宮は鶴岡八幡宮の子”

といったところでしょう。そして,15年後の1242年には,ついに鎌倉と金沢を結ぶ朝夷奈切通しが造営された次第です。

このように鎌倉の鶴岡八幡宮と密接な関係にある富岡八幡宮には,さらに鎌倉とのつながりを示すものが伝えられています。それが,次にご紹介する鎌倉神楽です。

富岡八幡宮,卯陪従の鎌倉神楽

【祭壇に上り,大祓詞を唱える神職中(2009.2.3)】

富岡八幡宮で鎌倉神楽が催されたのは2月3日の夜19時。当日,自分は鶴岡八幡宮で節分祭の豆まきを見学した後,鎌倉駅前から金沢八景行きのバスと京急電車を乗り継いで,富岡八幡宮を再訪した次第です。

「お待たせ!まだ18時半だから夜神楽までにはじゅうぶんに時間があるよ。何か軽く食べてから行きましょーねー。」

鎌倉の豆まきには来れなかった,奥さんと京急の富岡駅で待ち合わせ,富岡八幡宮へと向かいました。
 暗くなった富岡八幡宮。階段を上がった小高い丘の境内は,まもなく夜神楽が始まるところでしたが,意外と人影はそれほどではなく物静かでした。今宵の神楽は湯立神楽。設営された祭壇の前では,大釜が据えられており,燃えさかる薪の音と,暗闇に立ち上る湯気が神事の前触れを告げていました。

そして,19時。

卯陪従(うべえじゅう)の鎌倉神楽(湯立神楽)が始まります。黄装束の宮司を先頭に神職中が厳かに祭壇へと上がります。そして,二礼ののち,神棚に向かい,宮司を筆頭に一同,大祓詞を唱えて,神事の始まりを告げます。
 自分たちはその様子を祭壇の周りに仮設された椅子に着座して見ていましたが,地元の常連さんしか知らないようなお祭りのようで,半分以上も空席がありました。

10分ほどの大祓詞が終わると,神職一同,尺を携えて二礼二拍手一礼。

いよいよ,八座にわたる神楽が始まります。
横笛の音と太鼓に合わせて,神職がコミカルな動作で神楽を舞います。
 湯立て神事の要素を併せ持つ鎌倉神楽であり,鶴岡八幡宮から伝わったものだといわれています。陪従神楽とか職掌(しきしょう)神楽とも呼ばれるこの神楽は,鎌倉ゆかりの佐野家という職掌によって代々継承されたものといわれています。
 「陪従」というのは武家や公家など貴人が神社に伴った従者のことで,「職掌」というのは,元来,鶴岡八幡宮の社家で神楽を伝承する役目を担っていた家系のこと。中世の鎌倉では,身分の高い武家や公家は,神楽や管絃を行うことができる楽人・舞人をお供として神社に参詣した際,彼らに職掌神楽を奉納させたのだといいます。
 それが現在,鎌倉市周辺では「鎌倉神楽」あるいは「湯立て神楽」として伝承されているのだそうです。湘南鎌倉を中心に西は藤沢市あたりから東は金沢八景あたりまで分布しているそうです。

自分が調べてわかった限りですが,以下に鎌倉神楽が伝承されている神社を羅列してみます。

・鶴岡八幡宮の丸山稲荷火焚祭(鎌倉市)
・御霊神社の面掛まつり(鎌倉市長谷)
・白旗神社(藤沢市)
・五所神社の汐神楽(鎌倉市材木座)
・森戸神社の汐神楽(葉山町)
・瀬戸神社の天王祭(横浜市金沢区)
・富岡八幡宮の卯陪従(横浜市金沢区)

【富岡八幡宮に古くから伝わる陪従神楽(2009.2.3)】

【湯立て神楽のはじめ,掻湯(かきゆ)】

【射払いの神楽。魔除けの矢を四方に放ちます】

以上ですが,もっと調べると他にもあるかもしれませんね。鎌倉周辺の各神社で継承されている鎌倉神楽はお互い全く同じというわけではなく,舞のテンポや種類などにいくぶんの違いがあるそうですが,大筋は共通する部分が多く,ひと目で同じ種類の神楽だとわかるくらいです。
 自分は3年前,鎌倉長谷の御霊神社の面掛祭りで,鎌倉神楽(湯立神楽)を見たことがあります。なるほど,富岡八幡宮の神楽と全く同じではないものの,かなりの部分が共通でした。

さて,富岡八幡宮の卯陪従の鎌倉神楽は,塩撒きや射払いなど,御祓い系統の神楽と湯立て神事の神楽から成ります。
 四座の四方祓いの神楽のあと,いよいよ湯立て神事,一番目の「掻湯(かきゆ)」が行われました。祭壇での神楽の途中で,御幣を手に釜の前へ降り,御幣の柄で釜の湯をかき混ぜます。

ポコ・・・ポコ,ポコ,ポコ,ポコ・・・

 すぐそばで見守る中,激しく泡立ちました。

「湯花もあまた立ち,これにて今年も豊年となりましょう」

と宮司さん。このとき立つ泡を「湯花」といい,多く立つほどに良い年になるとされています。
 再び祭壇での神楽。神矢を放って四方の厄を除く「射祓(いはらい)」の神楽が祭壇で舞われました。このとき放たれた矢はご利益があるということで,観客が競って取り合ったのが,破魔矢の源流のひとつだともいわれています。
 


その後は,いよいよ湯立て神事の二番目,湯座(ゆぐら)です。

【湯座(ゆぐら)。笹を浸し,湯しぶきを撒き散らします】

【最後の演目,鼻高(てんぐ)の舞】

湯座(ゆぐら)の神楽が始まりました。祭壇で笹の葉の束をもってひとさし舞った後,再び釜の前へと降り,進み出ます。
 
そして,笹の束を一気に釜の中に突っ込み,

バサッ,バサッ

釜の近くまで進み出た自分たち観客が見守る中,激しく振ってしぶきを散らします。この湯しぶきを浴びることによって,厄払いとなり無病息災に1年を過ごせるといいます。

「意外と熱くないね~。」

そぐそばで浴びたしぶきはもう冷たくなっていました。ちなみに浴びたときに熱く感じれば感じるほど,前年の厄が多いことを意味し,それを打ち消すのに熱く感じるのだとか。鎌倉神楽を含む湯立て系の神事は日本全国に広く分布しており,古代の神権裁判である「盟神探湯(くがたち)」(※1)に起源があるといわれています。


神事のクライマックス,湯座が無事に終わり,最後の神楽。鼻高(てんぐ)の面をかぶった剣舞でしめます。

最後を締めくくるのに相応しい荘厳な雰囲気の一人舞(※2)でした。無事にことを成し終えた充実感と感謝の祈りのようなものが感じられます。

20時半,卯陪従(うべえじゅう)の湯立神楽は滞りなく終了しました。




卯陪従の神楽が終わって

神楽が終わった後,観客に釜のお湯が振舞われました。

「寒い夜にはありがたいね」

掻湯(かきゆ)の少し前,神職の手でいくばくかのお神酒と塩が注ぎこまれたのですが,湯の量が圧倒的なので味は感じません。ただ,冷え込む体を内面から温めてくれました。

「卯陪従(うべえじゅう)の卯というのは卯の月。つまり2月のことなんですよ。だから,うちの卯陪従の神楽というのは,2月に行われる陪従神楽だという意味なんです。」

奥さんが,卯陪従の神楽について,女性神職さんに質問し,いろいろと教わっていました。「陪従神楽(ばいじゅうかぐら)」というのは前に書いたとおり従者の楽人・舞人による神楽のこと。また先述のように湘南鎌倉に分布するこの手の鎌倉神楽ですが,ここ富岡八幡宮が伝播の北限であるとのこと。同じ鎌倉神楽でも伝わり方が違っていたようで,鎌倉市や藤沢市にあるものに比べると動作がゆったり目なのだそうです。

鎌倉時代には,既に鎌倉の地で舞われていたという陪従の鎌倉神楽。まさに古都鎌倉を代表する文化遺産ですね。

「落ち着いて貴重な神楽を見られてよかったね。」

長谷の御霊神社や材木座の汐神楽などは,例年,過度の観客でごった返すことで有名ですが,同じ鎌倉神楽でもこちら富岡八幡宮は,人影もまばらでゆったり座ってみることが出来ました。また,湯掻と湯坐の際にはすぐそばに移動して観察することが出来,大変有意義でした。
 湯座(ゆぐら)の湯しぶきを浴び,またその湯を飲み,心身を内外両面から清めた節分の夜でした。

                   2009年2月27日 KI

(追伸)
次回の『鶴岡八幡宮のルーツを旅して』15回目はいよいよシリーズ最終回です。今回の富岡八幡宮も題材にして,宇佐神宮から鶴岡八幡宮を経て広がった八幡信仰について総括してみたいと思います。3月上旬ごろのリリースとなります。
 よろしくお願い申し上げます。

(※注釈等)
※1「盟神探湯(くがたち)」;古墳時代ごろに行われた裁判法で,煮えたぎった湯に手を入れるもの。無罪ならば神の加護で火傷をしないが,有罪ならば神罰で大火傷になるとされた。
※2「鼻高の舞」;鎌倉長谷の御霊神社や藤沢の白旗神社では鼻高に加えて,山神のコッケイ舞が加わる二人舞である。
※3作成データ;
・鶴岡八幡宮への訪問日:2009年2月22日
・富岡八幡宮への訪問日:2009年1月10日,2月3日
・2月26日,両神社の了解が下りたのでリリース。